1

「草神? そうだなぁ、もうずいぶんと会ってないね。
 彼女の『夢境』はボクの作る詩歌と同じくらい、浪漫と想像力にあふれててさ。七神の中でも、特に気が合うんだ!」
 ——竪琴の弦を爪弾きながら、風をまとう詩人はそう語った。

「私は草神と対面したことはほとんどありません。しかし、その謙虚さは高く評価しています。
 強大な権能を持ちながら、是正と守護以外にはその力を用いない。……とても、優しい神です」
 ——遠い過去を懐かしむように、いと尊き雷霆の化身はそう語った。


「なあ、どうして急にナヒーダのことを他の神に訊いたんだ?」
「うん……ちょっとね」
 パイモンに不思議そうな顔で問われ、空は言葉を濁す。

 モンドの風神に、稲妻の雷神。彼らを訪ねたのは、あることを確かめるためだった。
 すなわち——「先代の」草神を、他の七神が記憶しているか否か。

 現在の草神たるクラクサナリデビは、生まれた直後からずっとスラサタンナ聖処に幽閉されていたのだから、他の七神と会う機会はなかったはずだ。だがウェンティも影も、まるで彼女と旧知であるかのような口振りだった。
 それが意味するところは、つまり。

(七神でも、世界樹の改変には抗えない——)

 人知を超えた力を持つ魔神であろうと、テイワットという世界に属する限り、その理からは逃れられないのだと思い知らされた。
 他ならぬナヒーダ自身が覚えていないのだから、とっくにわかっていたはずのこと。それでも、一縷の望みを抱かずにはいられなかった。
 かたわらの相棒に気づかれないよう、空は静かに拳を握りしめる。

『世界が、私を忘れてくれますように——』
 そう願って消えていった■■■■■■■■■■■のことを、もう誰も覚えていない。今やその名を記憶するのは、たったひとりの異邦人だけ。
 それが、たまらなく哀しく、悔しい。

 自らを犠牲にして世界樹を守った「彼女」の功績は、その存在ごと忘れ去られた。草神の名をいただく者は、後にも先にもクラクサナリデビ——否、マハークサナリただひとり。世界樹はそう記し、現実が書き換わる。「彼女」が為した偉業は全て、その後継者のものとなった。
 ナヒーダは悪くない、彼女だって被害者だと空は思う。他者の功罪をまるごと背負わされた上、本人はその事実を認識すらできないのだから。

「どうしたんだ、空? 何か悩んでるのか?」
 黙ったまま歩を進める旅人の顔を、パイモンが心配そうにのぞき込んでくる。
 この小さな相棒とは、旅の中で得た思考や感情のほとんどを共有してきた。けれど、今回はそう出来ない理由がある。
 テイワットの理に属する存在である以上、パイモンも草神に「先代」がいたことを覚えていないし、知らせてはいけない。もし誰か一人でも■■■■■■■■■■■を思い出したなら、禁忌の知識が再び世界樹を蝕むかもしれない。そうなれば、自らの存在証明と引き換えにしてまで、テイワットを守った「彼女」の意志が無駄になってしまう。
 喉の奥にこみ上げた感情をぐっと飲み込み、空は笑ってかぶりを振る。
「何でもないよ、大丈夫」
 たとえ一人でも、この真実を抱え続ける。異邦より来たりし「全てを記憶する者」は、既にその覚悟を決めていた。


 足先に当たった小石を軽く蹴る。それが放物線を描いて川面に落ちる様を、空は目で追った。
 石が広げた波紋もやがては消え、何事もなかったかのように元の凪いだ水面へと戻るだろう。
 この世界も、きっと同じ。テイワットの中で何が起ころうと、その記憶が世界樹から失われれば、全ては無かったことになる。
 真実を覚えていられるのは、外から水面を観察できる存在——この世界の理に縛られぬ異邦人のみ。

(記録する者……か)
 いつか聞いたその言葉を、空は思い出した。それを自分に告げた人の、潮風に黒髪をなびかせた横顔も。

『盤石に刻んだ記録も、世界も——俺自身も、いつかは消える時が来るかもしれない』
『だから、数多の世界を渡り歩くお前に、テイワットのことを記憶してほしかった』

 あの時は、彼の言葉の真意を掴みきれなかった。けれど、今なら分かる。
 こうなることを、きっと彼は知っていた。だからこそ、テイワットに属さない異邦の旅人に、この世界を「記録」してほしいと願った——その目で見届けた真実を、その記憶に留めてほしいと。
 たとえ世界が消えようと、一人でも覚えている者が居るならば、それが存在した証は残る。彼はそう考えたのだろう。

(やっぱり、鍾離先生も——)
 淡黄色の瞳がわずかに翳る。
 風の神、そして雷の神。どちらも「先代」草神に言及することはなかった。では、残る一柱——最も長くこの世界を見てきたであろう岩の神は?
 テイワットに属する生命である以上、彼もやはり理には抗えないのだろうか。だとしたら、彼の予測は正しかったのだと、自らの身をもって証明することになる。——なんて、皮肉な。

 この世の外から来た「降臨者」の足跡が、世界樹に記録されることはない。ナヒーダはそう言っていた。
 なら、と空は思う。
 自分がテイワットを去った後、旅の中で交流を深めた人々は、果たして己の存在を覚えていてくれるのか。
 友として、恋人として。互いに心通わせた記憶を、鍾離もいずれ忘れてしまうのだろうか?

 事実を確かめたいと逸る心、現実を目の当たりにしたくないという躊躇。
 相反する感情を胸のうちに抱えながら、空は璃月港の方向へと足を向けた。



 緋雲の丘の目抜き通りは、いつ訪れても行き交う人で賑わっている。その一角にありながら、往生堂という場所だけは不思議と静寂が保たれていた。
 チ虎岩から橋を渡れば、厳格な佇まいの屋敷が視界に入る。その玄関の前に立つ人影を認識した瞬間、空は半ば反射的に身を翻していた。
「えっ、おい、どこ行くんだよ!」
 戸惑いながらもついてくる相棒の気配を背中に感じつつ、往来する人の合間を縫って進む。建物の陰に回り込み、そこから顔をのぞかせれば、通りを隔てた向こうに目的地だったはずの場所が見えた。

「何こそこそしてるんだ? 鍾離に会いに来たんだろ?」
 不審げなパイモンを曖昧に笑ってかわし、空は引き続き息を潜めて観察を続ける。
 離れたところからでも目を惹く、すらりと流麗なその長身。往生堂の客卿たるその人は、商談相手らしき壮年の男性と立ち話をしていた。
 時折うなずいては、手振りを交えて何事か話す横顔を、少年は複雑な心境で見つめる。

 いつもなら、もう少し近くで彼の用事が終わるのを待つところだ。ぎりぎり視界に入らないくらいの位置にいても、鍾離は自分の存在に気づく。そんな時、彼は決まってこちらに目配せし、もう少し待っていてくれとサインをよこすのだ。
 気にしなくていいのに、と思う反面、その気遣いが嬉しくもあって。

 しかし今日は、彼に認識されるのを反射的に避けてしまった。話を聞くために訪れたのに、何故こそこそ隠れるような真似をしているのかと、自身でも疑問に思う。
 周囲を気にしていないように見えて、妙なところで目敏い彼のことだ。中途半端な心持ちのまま顔を合わせれば、要らぬ心配をかけてしまうかもしれない。
 一旦出直すことも検討しつつ、通りの反対側へ視線を戻した瞬間、空は己が目を疑った。

 つい先程までそこにいたはずの青年の姿が、忽然と消えているではないか。
 目を離したのはほんの数秒だったのに、一体どこへ?
 まさか、と天啓のごとくひらめいた直感に、後ろを振り返れば。

「久方ぶりだな」
 鷹揚な笑みを浮かべたその人が、すぐ背後に立っていた。


 2

 やや距離をおいて注がれる視線に、鍾離は早くから気づいていた。
 本人にはあまり自覚がないのかもしれないが、彼の存在はとかく目立つ。まして、その気配に慣れ親しんだ今、接近を察知するのは容易いことだった。
(話が終わるのを待っているのか?)
 それにしては不自然な、と青年は疑問に思った。
 普段の旅人なら、こちらの邪魔にならないように配慮しつつ、もう少し近い立ち位置を取るはずだ。しかし今は、大通りを挟んだ建物の陰から、隠れるようにしてこちらの様子をうかがっている——まるで、見つかりたくないと言わんばかりに。

 商談はまとまった。相手を見送った後、鍾離はその場に留まったまま考えを巡らせる。
 こちらの話が終わったことには気づいているはずだが、彼が近づいてくる様子はない。
 せっかく来てくれたのならば、言葉のひとつくらいは交わしたいところだ。それ以上に、普段と違う様子が気にかかる。
 声をかけるべきか、このまま素知らぬふりをした方がいいのか。鍾離は考えた末、自分から接触を図ることにしたのだった。

「うわぁ!? お、お前、いつの間に来たんだよ⁉」
 飛び上がって叫ぶパイモンの隣で、旅人も驚愕をあらわに目を見開いている。少々驚かせすぎたか、と青年は若干自省した。
「……よく気づいたね」
 冷静な表情に戻った空が、若干決まり悪げにそうつぶやく。隠れて様子をうかがっていたことを、後ろめたく思っているのか。どこか不自然な振る舞いについては触れず、鍾離は会話を続ける。
「偶然、お前たちの姿が見えたものでな」
 邪魔をしたか? と訊ねれば、旅人より先に相棒の方が声を上げた。
「いや、ちょうど良かったぞ! オイラ達、お前に訊きたいことがあって来たんだ」
 少年が一瞬、彼女を制するように口を開きかけて止めたのを、鍾離は見逃さなかった。

「ふむ。訊きたいこと、か」
 ちらりと視線を上げれば、茜色に色づき始めた水平線が見えた。しばし考えてから、青年は二人に提案する。
「ちょうど日も暮れる。せっかくだ、食事でも取りながら話さないか」
「おおっ、いいな!」
 そうしようぜ、と満面に喜色をたたえたパイモンが旅人を振り返る。
「食事と聞けばすぐこれなんだから」
 まったく、と苦笑を浮かべながら、空は了承の意を返してきた。


「——それで、俺に訊きたいことというのは?」
 卓上に並んだ料理があらかた片付いた頃を見計らって、鍾離は二人に水を向けた。
「あっ、そうそう! 忘れるところだったぜ、へへっ」
 食欲が満たされてご満悦だったパイモンが、照れ笑いを浮かべる。ごまかすように咳払いをひとつ、居住まいを正した。
「オイラ達、スメールの神に会ってきたんだ。お前から見て、草神の印象ってどんな感じだ?」
「草神?」
 意外な質問に、青年は軽く瞠目する。旅人の方を見れば、真剣な色をたたえた蜂蜜色の瞳と視線が合った。ただの世間話ではない雰囲気を感じ取り、しばし黙考する。

「ふむ。知恵の神ブエル、か」
 原初の契約に背くものでない限り、彼らへの協力は惜しまない。頭の中で答えられる範囲を精査し、慎重に言葉を選ぶ。
「慈悲深く、聡明な神だ。スメール全体の統治に加え、世界樹の守護という重責を担えるのも、彼女の卓越した英知あってこそだろう」
「彼女は己の力を賭し、世界樹を守った。この世界に生きる者はみな、その尽力に感謝すべきだろうな」

「……うん。そうだね」
 真剣に話を聞いていた旅人が、小さく相槌を打つ。その淡黄色の瞳にわずかな陰りを見た気がして、鍾離は自身の言を省みた。特に思い当たる節はないが、何か彼を落胆させることを言っただろうか。
「そういえば、スメールシティで——」
 訊ねるかどうか迷っているうちに、空は別の話を始めた。言葉を挟むタイミングを逸し、開きかけた唇をつぐむ。

 スメールで起こった事件を語る彼の顔は、いつも通り奔放で好奇心旺盛な旅人のそれだった。冒険譚に耳を傾けるうち、自身の考え過ぎではないかという思いが胸の内を占めていく。
 どちらにせよ、求められていない詮索は不要か——そう結論づけて、鍾離は少し温くなった茶に口をつけた。



「ふう~、食べた食べた! オイラ、もう眠くなってきちゃったぞ」
 店を出たところで、パイモンが少々わざとらしく声を上げた。半眼で口を開こうとした空の機先を制し、さらに続ける。
「オイラは先に洞天へ戻ってるぞ。お前はゆっくりしてていいからな!」
「ちょっと、パイモン……」
 旅人の言葉を待たず、少女はひらひらと手を振ると、意味深な笑みを残して姿を消した。
 伸ばしかけた手をごまかすように、金の髪をがりがりとかき回す少年へ、鍾離は苦笑まじりに声をかける。
「少し歩くか?」
「……うん」

 他愛もない話をしながら、比較的人通りの少ない道を選んで歩く。時折訪れる沈黙も、彼とであれば心地良い。
 示し合わせたわけでもなく、二人の足は自然と青年の居宅へと向かっていた。門をくぐったところで振り返り、相手の出方を待つ。わずかに迷うような気配を漂わせつつも、少年は門の内側へと足を踏み入れた。


 共に夜を過ごす時は、特に相談するでもなく、成り行きに任せるのが常だった。
 就寝の準備を終えた後、両者が同じ部屋にそろっていれば、自然とそういう流れになる。いつからか、それが二人の間で暗黙の了解となっていた。
 先に風呂を使った旅人は、客室と家主の私室、どちらに居るだろう。そんなことを考えながら、鍾離は洗いざらしの夜着に袖を通す。

 火の始末と消灯を確認してから、青年は廊下に出た。客間の方向はしんと静まりかえっていて、人の気配が感じられない。私室の方へと目を移せば、扉がわずかに開いていて、その隙間から少年の姿が見えた。
 ぼんやりと寝台に腰掛け、遠くを見ているような瞳。どこか物憂げなその様を、しばし廊下から見つめた後、鍾離は静かに部屋へと足を踏み入れた。
 後ろ手に扉を閉めると、窓の方を見ていた視線が青年を捉える。
「おかえり、先生」
 大人びて笑うその顔は、普段と何ら変わりなく。

 言葉を二、三交わしたあと、しばしの沈黙を挟んで、空が手を伸ばしてくるのが見えた。閨の始まりを告げる、いつもの合図。
 肩に触れる体温を感じながら、鍾離は自身のまとう夜着に手をかけた。留め紐をほどこうとして、肩から降りてきた手にそっと押しとどめられる。
 意図を問う視線を向けるよりも早く、胸元に重みとぬくもりを感じた。袷からのぞく肌を、柔らかな金髪がくすぐる感触。

「——このまま、一緒に眠ってくれる?」

 それだけで、いいから。
 小さくそう告げた声に、どこかすがるような響きを聞いた気がして。

「ああ、わかった」
 一瞬の沈黙の後、鍾離は静かに請け合った。


 3

 微かな雨音を聞いた気がして、鍾離は閉ざしていた瞳をゆるりと開く。天気が崩れるかもしれないという予感は、どうやら当たっていたようだ。
 眠りを妨げるほどの音ではないが、念のためと隣の様子をうかがう。規則正しい寝息を確認してから、そっと横向きに寝返りを打った。
 俗世を覆う夜の闇も、人ならぬ彼の目は遮れない。視線の先、背中を丸めるようにして眠る少年の姿を見る。特にうなされることもなく、安らかな眠りを享受する様に、鍾離はひっそりと安堵の息をついた。
 常に激動の渦中に在る旅人だ、せめて夢の中では平穏であってほしい。友人として、心からそう願う。

 いつもと違う彼の様子が、ずっと気にかかっていた。脳裏によみがえるのは、食事の席で投げかけられた問い。
 彼らが訪れたのは、自分に草神のことを訊ねるのが目的だった。しかし、問われたのは彼女をどう思うか、ということだけ。その情報が彼の旅に役立つとは、あまり思えない。

 彼は、何を確かめたかったのだろう?
 知恵の国スメールで、果たして彼は何を見たのか。

 石珀の目を細め、鍾離は旅人の寝顔を見つめる。
 薄々は察していた。この世界が秘める真実を、彼はまたひとつ知ったのかもしれないと。
 そのことについて、自分から何かを問うつもりはなかった。空が語らないのならば、話す必要はないと判断したか、あるいはそうできない理由があるということだ。
 案じていないわけではないが、干渉はしない。この旅人ならば、きっと自らの中で折り合いをつけるだろうから。

 眠る少年を前に、鍾離はひとり思いを巡らせる。
 ——迷うことが無い、と言えば嘘になる。
 折に触れて、考える。空と恋仲にある者が、果たして自分でいいのだろうか、と。
 彼が求める真実の一端を知りながら、契約の名の下、ただ沈黙を貫く己に、その資格はあるのかと。
 いつか旅を終え、この世界の全貌を知ったなら、空は自分を敵と見なすかもしれない。そうなった時、彼は何を思うだろう——?


「ん……」
 不意に聞こえた微かな声に、青年は我に返った。眠っていた空がもぞもぞと身をよじり、眉をしかめている。
 起こしてしまったか。見守る鍾離の前で、少年はしばらく身じろぎしていたが、やがて再び動かなくなった。

 すうすうと安らかな寝息をたてる姿は、まるで幼い子どものようで。
 見ているうちに、自然と口元が緩むのを自覚した。

 旅人を起こさぬよう注意を払いつつ、ずれてしまった上掛けを直してやる。その手で柔らかな金髪を撫で、曲線を描く頬にそっと触れた。
 少なくとも、このように無防備な寝姿を晒す程度には、自分に気を許してくれているのだろう。
 彼は強い。だが心がある限り、不安や痛みと無縁ではいられない。身をもってそれを知っているからこそ、彼が自分の隣で安らかに眠れていることを嬉しく思う。

 ——だから今は、このままでいい。
 鍾離は素直にそう思った。



 窓の外が白みはじめて、夜明けが近いことを知らせる。
 既に寝床を出た鍾離は、普段通りの格好で厨にいた。茶葉に湯を注いで蒸らす間に、白磁の茶器を手に取る。
 その時、わずかに扉の軋む音がして、青年は背後を振り返った。

「おはよう、先生」
 相変わらず早いね、と微笑みながら、身支度を調えた旅人が歩み寄ってくる。
「起きたのか」
 もう少し寝ていてもよかったのに、と言外に告げれば、少年は苦笑交じりにかぶりを振った。
「パイモンがお腹を空かせる前に、戻らないと」
「そうか」
 ならばせめて、と淹れ立ての茶を椀に注ぐ。ふたり向かい合って卓につき、茶器を片手に他愛も無い話をした。
 少年の様子は至っていつも通りで、表情も穏やかに見える。わずかなりとも気分を変える手助けくらいはできただろうかと、鍾離はひそかに安堵した。


「それじゃ先生、またね」
「ああ。息災でな」
 青年の見送りを受けて、空は玄関から一歩を踏み出し——ふと、何かを思いついたように振り返る。
「どうした」
 見つめてくる淡黄の瞳に問えば、一瞬、ためらうような間があって。

「——俺の名前、呼んでくれる?」
 唐突な願いに、青年は少し戸惑う。
 その意図は読めなくとも、こちらを見上げる真剣な眼差しで、少なくとも冗談や睦言の類いではないと察せられた。
 しばし沈黙した後、軽く息を吐き。

「空」
 静かに、その名を口にする。
「うん」
 ほっとしたように、ありがとうと笑った顔を見て。
 彼が何を確かめたかったのか、鍾離にも少しだけわかった気がした。


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2023.12.22 公開



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