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「エフラム様……こちらにいらしたのですか」

 ロストン聖教国の迎賓館では、世界を救った英雄達を労うためのささやかな宴が催されていた。
 皆が皆、それぞれの想いを抱きながらも、平和が戻ってくることへの喜びと安堵を噛み締めている。
 和やかに杯を交わす人々の中、主君の姿を探して歩いていたゼトは、ホールから離れたテラスに求めていた人影を見つけて歩み寄った。


「ゼトか。探したか?」
 石壁にもたれて座り込んでいたエフラムが、廊下からテラスに出てきた家臣を一瞥して尋ねる。
「広間の方に、お姿が見えませんでしたので」
 恭しく一礼してそう告げると、彼は苦笑混じりに肩をすくめた。
「こんな時くらい、仕事を忘れて楽しめばいいものを」
 そう言いながら、エフラムは立てた膝に腕を載せ、手に持ったグラスを軽く揺らしている。
 透明な玻璃の内側で、赤に近い紫の液体が波のように寄せては返した。



「どうだ、ゼト。呑み比べといかないか?」
 手にしていたグラスを持ち上げ、エフラムが不敵に笑う。
 少年のような輝きを灯した青碧の双眸を見て、ゼトは内心で溜息をついた。
 時折、思い出したように突拍子も無いことを言い出すのは、この主君の性癖だ。冗談かと思えば本気で言っていることもしばしばで、いまいち判断に困ることも多々ある。

「エフラム様……脅威が去って安堵するお気持ちは解りますが、ルネスにはまだ多くの問題が残されております。
 畏れながら、あまり気を抜かれるのも如何かと――」
 控えめながらも意志の強さを感じさせる口調で、ゼトはそう諫言する。

 魔王の消滅により、世界の危機は回避された。だが、祖国ルネスは一度滅亡の憂き目に遭っており、今もその国土は治める者も無く荒廃したままである。
 亡き先王ファードの意志を継ぎ、ルネスを再び元の秩序ある王国に戻すことが出来るのは、その正統なる直系であるエフラムとエイリークだけなのだ。
 間もなく一国の王として立つことになるであろう主君には、その自覚を常に持っておいてもらわねばならない――それも自分の役目であると、ゼトは考えていた。



「解っている。我がルネスにとってはこれからが正念場だ――忘れてなどいない」

 だが、とエフラムは続けた。
 その表情が、いつもの不敵な笑みからどこか遠くを見ているような微笑に変わる。



「俺だって、酒に酔いたい時はあるさ。
 酔い潰れて、そのまま忘れてしまえたらと思うことがな……」


「エフラム様……」

 常に豪胆で恐れを知らぬかのような主君の口から、ふと零れ落ちた意外な本音。
 ゼトは息を呑み、その顔を見つめた。



 この戦いで、彼は更なる強靭さと多くの信頼とを得た。
 しかし同時に、多くの大切なものを失った。

 祖国、父親――そして親友。


 国はまた建て直すことが出来るが、一度消えた生命は二度と帰らない。
 いくらエフラムが人並みはずれた大器の持ち主であるとは言え、この若さで近しい者を喪う悲しみを乗り越えるのは、決して容易なことでは無いはずだ。
 常と変わらぬ豪胆な振る舞いの内に、ゼトは隠された痛みと寂寥を見たと思った。




 無言で歩を進め、ゼトは静かにエフラムの傍らに膝をつくと、彼に倣って腰を下ろす。


「私でよろしければ……しばしの間だけ、お相手いたしましょう」


 囁くように告げた言葉に、碧緑の視線が動く。
「――お前は、いつだってそうだったな。
 普段はどこまでも容赦が無いくせに、たまに突然優しくなる」
 エフラムはそう呟き、年相応の笑顔を見せた。
 その頬から顎にかけてのラインは、少年ぽさが消えて大人の男性特有の鋭さを完成させつつある。だが、身体の成長を経てもなお、その奥にある本質は変わっていないことを、ゼトはその様子から改めて確信していた。



 どことなく嬉しそうにも見える仕草で、エフラムはもう一つのグラスを取り出した。
 ……一体、どこに用意していたのだろうか。
「一人で呑むのは味気ないだろう?」
 ゼトの内心の疑問を読み取ったかのように、エフラムが笑った。

 つまり――この人は最初から、自分が探しに来ることを見越した上で、酒に付き合わせるつもりだったということか。
 妙なところで周到さを発揮する主君に、内心でそっと溜息をつく。



 空のグラスに注がれていく、甘い芳香を放つ液体。



「ゼト、お前は酒に滅法強いらしいな?」
「誰が言い出したのか存じませんが、単なる噂でしょう」
 さらりとそう流したゼトに、エフラムが面白そうに唇を吊り上げた。
「さすが、大した食わせ者だ」
 それには答えず、ゼトは黙ってグラスに口をつける。
 喉の奥に落ちていった液体は、微かに甘く――どこか懐かしい味がした。



「よし、ではどちらが先に潰れるか勝負だな」
 嬉々とした表情で、エフラムがグラスを掲げた。
 表面上は同意した風のゼトだったが、彼の方は本気で潰れるまで呑む気は毛頭無い。タイミングを見計らい、適当なところで切り上げねばと考えを巡らす。
 そんな臣下の内心を知ってか知らずか、エフラムはにやりと笑って告げた。


「俺より先に潰れたら、その時はお前を好きにさせてもらうぞ?」

 その言葉の意味するところは、ゼトにとって明白で――
 脳裏によぎった行為の記憶に、冷静な表情の裏で独りひそかに動揺する。



「潰せれば、の話ですが」
「やってみせるさ」
 自信たっぷりにそう嘯くと、エフラムは素早く周囲を見回し、グラスを持っていない方の手でぐいとゼトの肩を引き寄せる。
 不意を突かれた彼の唇に、一瞬で距離を詰めた主君のそれが重なった。

 熱。一瞬の、静寂。


「……お戯れを」
 口接けから解放された後、ゼトは微かに目元を赤く染めて顔を背ける。
「残念ながら、本気だ」
 冗談とも取れる口調でそう言ったエフラムの瞳は、予想に反して存外真剣だった。



「これからもずっと、俺の傍らに居てくれるだろう?」

 突然の問いかけに、ゼトは視線を戻して一瞬目を見開き――
 ややあって、静かに頭を垂れる。


「――仰せのままに」

 そう答えた口元に、穏やかな笑みが微かに浮かんで消えた。




 それは、十六夜の月が雲に隠れていた間の出来事――

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