獣の領分



 月の光は、獣を呼び起こすという。
 寝台の上から窓の外を見て、ふとそんな言い伝えを思い出した。


 こちらに背を向けて横たわる傍らの男は、静かに眠っているようだった。
 上掛けから覗いた裸の肩に、月明かりが滑らかに滑り落ちている。


 人当たりが良く、愛嬌もあって、人懐こくて。
 とにかく女好きで、少々……いやかなり、不真面目なところもあるけれど。
 常に明るさを失わない、いつまでも少年のような瞳の――信頼すべき相棒。

 いつもマイペースな言動に振り回されてばかりだったが、それでも傍を離れようとは思わなかった。
 己が持ち得ぬ、風のような自由奔放さに、半ば憧れにも似た気持ちを抱いていた。

 ずっとこのまま、一番の親友として隣にいられたらと……そう思っていた。




 だが自分は、否応なしに知ってしまった。


 この男が、その身の内に獣を飼っていることを。




 人畜無害だと思って、近づいていって。
 気がついた時には、押し倒され喉笛に喰いつかれていた。

 知った時には、後の祭り。



 やられた、と思った。

 抵抗しなければ、二度とは引き返せないだろうことも知っていた。
 抵抗すれば、逃れられない状況ではないことも解っていた。


 だが――拒めなかった。


 今まで見たことも無いような、強い決意を秘めた翡翠の双眸に目を奪われて。
 迫ってくる獣を前にしながら、自分は結局、引鉄に指をかけたままそれを引くことはできなかった。


 捕獲され、喰われる草食動物の心理とは、こういうものなのだろうか。

 獲物を狩る肉食獣の姿には、一種抗い得ぬ美しさがある。
 しなやかな体躯を存分に撓わせて、一瞬の隙を突き獲物を仕留める、その鮮やかな動作。
 鋭い爪に捕まり、喉元に牙を立てられて――それでも獲物は、己の身が喰われている事実すらも忘れ、仇であるはずの肉食獣の美しさに恍惚すら覚えているかも知れない。

 そう――彼に囚われた自分のように。



 罪悪感が無かったと言えば嘘になる。

 妻となった女性とのみ許されるはずの行為を、同性である親友と交わす――その罪深さを知らぬわけではない。
 混乱もしたし、恐れもした。
 禁忌を犯せば、待っているのは煉獄への扉……亡き祖母に説かれた聖女の教えが、感情に歯止めをかける。


 だが、彼の覚悟を秘めた瞳に目を奪われ、その牙を我が身に受け入れてしまった時点で、自分は心を決めた。
 彼と共になら、禁忌を犯し罰を受けても後悔はしない――と。




 開かずの扉の向こうには、何があるのか。
 禁断の果実は、一体どんな味がするのか。


 周りの大人は、決して教えてはくれなかった。
 禁忌の向こう側にあるもの――この男なら、それを教えてくれるような気がしたのだ。




「――見事に、騙されたな」
 息をつき、そっと呟く。

「お前は狡い。その外見で、一体どれだけの女性を騙してきたんだ?」
 独り言のような問いかけに、返る答えは無い。
 眠っているのだから当然だろう。


 そう、眠っているのなら。
 もうひとつため息をついて、口を開く。



「どうせ、聞いているんだろう?」



「――ちぇ。何だよ、お見通しかあ」

 声と共に、背中を向けていた身体がくるりと反転する。
 見上げてくる、灰緑の双眸。人を食ったような笑みを浮かべる口元から、尖った八重歯がちらと覗いた。

「ていうか、心外だなぁ。俺は女性を騙したことなんて、天地神明に誓ってありませんよ?」
 無駄に大仰な言動は、この男の特徴とも言うべきものだ。
「ついでに言うと、お前を騙したつもりも無いんだけどね」

「女性が好きなことは知っていたが……男でも構わない奴だとは知らなかったぞ」
「ちょっと、冗談やめてよ。俺は男とアレコレなんてまっぴらだっての」
「なら、この状況はどう説明するつもりだ?」
「お前は特別。以上」

 意味が解らない。

「……だから、もう少し解る言葉で話せと……」
「必要だからだよ」


 不意に発せられた一言に、文句を言いかけた唇が止まる。
 視線の先で、相変わらず笑顔のままの相棒。



「生きていくために必要だから、獣は獲物を狩るんだ。そうだろ?」



 いつもより少しだけ真剣な口調で言うと、彼は腕を上げて髪を梳いてくる。

 その瞳を見つめ、何度目か知れないため息をついて。
 私は、誘うような手の動きに従ってゆっくりと上体を傾けていった。




 人は皆、その身に獣を棲まわせている。



 そして――私もまた、例外ではなく。


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セインのおかげで、獣性に目覚めさせられてしまったケントさんのお話。
甘いようで甘くない、本能と理性が交錯する感じの関係が好きです。



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