ストロベリーリップス
恋とは実に、因果なものです。
※
椅子に座ってページを繰る青年の傍らには、真っ赤に熟れた瑞々しい果実を盛った器が置いてある。
今朝一番に城仕えの料理番が採ってきた、朝摘みのいちご。
元々はジャム用にと採ってこられたものなのだろうが、料理番はせっかくだからと、城の者に僅かながら新鮮な果実を振る舞ってくれた。
――誰が言ったか知らないが、いちごは恋の果実なのだという。
おそらくは、その赤い色が恋を連想させるから、といったところだろう。
そんな迷信を何となく思い出しつつ、セインは頬杖を突いて、隣の机で読書に耽っている親友の横顔を眺めていた。
現在、キアラン騎士隊長の地位にある親友ケントは、非番の日ですらも自らの鍛錬を怠らない。今も、何やら兵法書を彷彿とさせる難しいタイトルの本を、熱心に読み耽っている。
傍らで可愛らしく色づいたいちごも、隣で退屈を持て余している恋人も、気に留めることなく。
――恋の果実と言うならば、この堅物の恋人を、少しは素直にしてくれないか。
透明な器の中ですましているいちごに向かって、セインは独り、そんな願いを呟いてみる。
返る応えがあるわけもなく、赤い果実は沈黙のまま、ただ食べられる時を待つばかり。
そんな親友を他所に、ケントは相も変わらず手元の本に集中している。
ぱらりとページを繰り、本に目を落としたまま傍らの器に指を伸ばす。一粒器用に摘み取って、琥珀の双眸で字を追いながら熟れた果実を口元に運んだ。
さらにページをめくり、一連の動作をもう一回繰り返す。赤い実に歯を立てた時、溢れ出した果汁が零れそうになったのか慌てて舌で拭い去る。いちごに負けないくらい紅い舌がちらりと覗き、甘さを感じさせない唇を這った。
(……自覚、ないんだろうねぇ……)
一連の行為を観察していたセインが、内心で深々とため息をつく。
「……ケントさん」
「何だ」
「それ、他の場所ではやらないでくださいよ?」
「――は? 何を」
沈黙の後、ややあって面食らったような返事がケントから返ってくる。本に据えられたままだった琥珀の双眸が、初めてセインの方を見た。
何を言っているのやら、と如実に書いてある顔。
この親友に自覚しろという方が無理かも知れないが――この状態のまま放っておくのは自分の精神衛生上良くないし、いろいろと想像できる事態が怖いので何とかしたいセインである。
過ぎるほどに生真面目で、人前ではとにかく気を張っている彼のことだから、ここまで無防備な姿を見せるのは、気心の知れた親友である自分の前でだけだろう。
そう――解ってはいるけれど。
(心配なものは、心配なんだよね)
心の中で呟きながら、席を立って親友へと近づく。
ぴんと伸びた背筋、やや節が大きめの指、性格をそのままに表す通った鼻梁。
恋は盲目とはよく言うけれど、「あばたもえくぼ」的な欲目を差し引いたとしても、彼は十分に綺麗だと思う。
内面の清しさが表れた彼の姿は、見る者を惹きつけ魅了し得る力を持っている。それは彼の誠実な心根から来る、人間的な魅力とでも言うべきもの。
彼が多くの者に慕われているのも、あくまで人間的側面の話であり、その人徳ゆえなのだと……そう、解ってはいるけれども。
中には、自分と同じ意味合いの目で見ている人間も……いるかも知れないわけで。
居ないとは言い切れない。いや、絶対いるに違いない。
いちごには、誘惑という意味合いもあるのだという。 これまた誰が言ったやらだが……まったくもって、その通り。
怪訝な表情で見上げてくる青年に、得意の極上の笑顔で微笑んでみせて。
「そんな無防備にしてたら、さ――」
椅子の背に手を突いて、セインは上体を屈めた。唇が触れ合いそうな距離にまで、顔を近づける。
驚愕に見開かれた、琥珀の双眸。至近距離で目を合わせたまま、果蜜で濡れた相手の唇を舌で辿る。甘酸っぱい風味と柔らかい温度に、そのまま唇を重ね合わせて呼吸を奪い取りたい衝動に駆られたが、ここは敢えて抑えておいた。
「こーいうコト、されちゃうわけよ」
おわかり?
くすりと笑って、目を細めながら言えば。
突然の行為に呆然としていた親友が、はっと我に返る。
奪うと見せかけて、奪わなかった唇。
それでも恋人の頬は、いちごとタメが張れるくらいの朱に染まっていた。
「……な、なっ……」
まともに音を為さず、ただぱくぱくと開閉されるだけの唇は、まるで陸に上がった魚のよう。
その様が可笑しくて、思わず吹き出しそうになる。普段の真面目くさった優等生ぶりからは、到底想像し得ない姿だ。
「解った? 次はホントに襲うよ?」
ぱちんと片目を閉じて見せて、冗談めかした本気の台詞。
「……ふ、ふざけるのも大概にしておけ!」
形の良い眉をきりりとつり上げ、普段の顔に戻ったケントが言い放つ――声が震えているのはご愛敬、か。
「ふざけてなんてないんだけどなぁ。俺けっこう本気よ?
お前の身を心配してだね……」
「何の心配だ。むしろ一番警戒すべきなのは貴様だ」
全く油断も隙も無い、とぶつぶつ呟きつつ、ケントは再び読書の体勢に戻ろうとしている。その、まだ明らかに赤い横顔を見つめながら、セインはやれやれと肩をすくめた。
……この青年相手に、甘い展開を期待した自分が悪かったということか。
その生真面目な性格も、気の利いたことのひとつも言えない不器用な要領の悪さも。
全てが彼という人格を形成する要素だから、それは自分にとって好ましいもので、変えたいとは望まない。
それでも――
時折、夢を見たい時もある。
お前が、恋の果実だと言うならば。
一度でいいから、この不器用で色恋に疎い恋人を、恋の魔法に酔わせてください。
誰にも似ていない彼自身の声で、囁かれる愛を聞きたいのです。
一度でいいから、この不器用で色恋に疎い恋人を、恋の魔法に酔わせてください。
誰にも似ていない彼自身の声で、囁かれる愛を聞きたいのです。
(なーんて……ね)
内心でぺろりと舌を出し、セインは親友に見えないところで苦笑した。
その願いを口にしたなら、また眦をつり上げて怒った後、お前は馬鹿かと呆れるのだろうけど。
実現しない夢は夢じゃないというけれど、叶わないからこそ「夢」なのかも知れないなぁ……なんて、ちょっと哲学的なことを考えてみる。
そんな内心も知らばこそ、恋人は再び本に集中する気満々のご様子。これ以上邪魔をして機嫌を損ねると、扱いに慣れている自分と言えども宥めるのには少々骨が折れる。ここは大人しくしておくのが上策というものだ、とセインは引き際を見極めた。
さっきまで座っていた席に戻るため、踵を返して親友に背を向ける。
そのとき背後から、独り言と聞き紛う微かな呟き。
「お前でなければ――こんな距離を許しはしない」
――だから、余計な心配はするな。
灰緑の瞳を見張って振り向いたセインに、ケントは無言でそっぽを向き、取ってつけたような仕草でいちごをひとつ頬張った。
いちごは、恋の果実なのだという。
実のところ、それはあながち――迷信ではないのかも知れない。
※
恋というのは、例えば早摘みのいちごのようなもの。
籠に山ほど摘んできたって、大半は未熟で酸っぱい実ばかり。
今度こそと期待しながら食べてみては、舌を刺すきつい酸味にまた顔をしかめる。そんなことの、繰り返し。
けれど。
引いてはハズレを何度も繰り返せば、ごく稀に、蕩けるほど甘い果実を引き当てることもあるわけで。
いつも酸っぱい思いばかりでも、ハズレて損することの方が多いとしても。
いつかはそんな、至福の一瞬が待っている――そう思うから、また手を伸ばさずにはいられないのだ。
たまにしか得られない、奇跡のように甘い実を夢見て。
人はきっと、今日も懲りずに恋をする。