青い鳥
「あと数日で、今年も終わり……か」
窓枠に手を突いて夜空を見上げ、セインはそう呟いた。
暖炉で薪の爆ぜる音。
外気との温度差で白く曇った窓を、指で拭って透明にする。
硝子はひんやりと冷たく、触れた指先を容赦なく痺れさせた。
彼の背後では、もう一人の青年が机に向かい黙々と書き物をしている。
この国の騎士達をまとめる若き隊長には、今年最後となる残務が大量に圧し掛かっていた。月が頭上高くに見えるこの時刻になっても、未だに彼が仕事の手を止める気配は無い。
副隊長として――それだけの理由ではないが――セインは彼に付き合い、共に執務室に居残っていた。
窓の傍に居ると、炎のもたらす暖よりも外から染み入る冷気が勝る。
静かな夜――心なしか、いつもより人の気配が少ないように感じられた。
「……そう言えば、今日から休暇だったんだっけな」
外を見たまま、誰に訊ねるでもなくセインが呟く。
そのまま黙殺されるだろうと思ったその言葉に、意外にも答えが返ってきた。
「年明けからの勤務になっている者達は、既に家族の下へ戻っている」
「そっか」
年末年始には、普段兵舎で暮らしている騎士達に里帰りのための休暇が与えられる。もちろん城の警備を手薄にするわけにはいかないので、きちんと決められたシフトに従った上でのことだが。
しかし、差し迫った危険があるわけでもない平和な土地であれば、既に半数近くの騎士が休暇で実家に戻っている状況だった。
「お前も、仕事片付いたら帰るんだろ?」
「いや……私は残る」
半ば答えを予想して放った問いに、返ってきた回答はセインにとって意外なものだった。
「何で? 母上のところへ帰ってやらなくていいのか?」
「顔を見せにだけは行くつもりだ。
だが、隊を任される立場の私が、休暇とは言え城を空けるわけにはいかない」
「そっか……」
いかにもコイツらしい答えだ、とセインは思う。
「…………で?」
「何だ」
「いやほら、こういう流れならさ、普通訊き返すと思うんだけど。
『そう言うお前はどうするのか』ってさぁ」
「訊いて欲しいのか?」
間髪入れずにそう返され、セインはぐっと言葉に詰まる。
「……いや、まあ」
珍しく言葉を濁した相棒に、ケントは眉ひとつ動かすことなく作業を続けている。
その横顔を斜め後ろから見ながら、セインは自身の故郷のことを思い出してみた。
彼は、もともとキアランの出身ではない。
トリアとトスカナの国境あたりの生まれで、実家はそこで商売を営んでいる。
自由騎士だった父親は、ほとんど家に居つかなかった。
生まれつき体の弱い母親が、一人で商売を切り盛りしていた。
年の離れた兄がいて、母の代わりに家業を継ぎ商人になった。
そして、自分は――
目を閉じると、脳裏に兄の言葉が蘇った。
『――お前は、お前の生き方を自由に選べばいい』
『この家に、お前の求めるものは無い。
お前の望む世界……お前を満足させるものは、この塀の外でなければ見つからない。そうだろう?』
きっと、その通りなんだろうと思った。
生まれた時から多数に倣うことが嫌いで、自分の信条や嗜好といったものは一切曲げなかった。
周囲に合わせることも、知らないわけではなかったけれど。
楽しく生きたかった。出来うる限り多くのものを見て、聞いて、経験したかった。
何よりも自由が好きだった――彼はきっと、誰よりも貪欲で贅沢な子供だったろう。
そんな彼を、周りの人間は変わり者と呼んだ。
与えられた境遇の中で、慎ましやかに生きていくことを最上とする人々にとって、彼の思考は異質に過ぎた。
血の繋がった身内――母親でさえも、結局は彼を理解することを放棄した。
商売人ゆえの多忙を理由にした「放任主義」。
それが、彼への接し方の基本となった。
あの頃、多少なりとも彼の性癖を理解していたのは、おそらく兄だけだっただろう。
だからこそ――彼は弟に、街を出ろと言った。
お前は、此処にいるべき人間ではないのだから――と。
家を出て以来、あの街には一度も帰っていない。
キアランの騎士学校に入ってからも、正式に騎士として勤めるようになってからも、休暇の時は荷物を持って嬉しそうに出て行く同僚達を横目に、いつも宿舎に残っていた。
もっとも、ケントと同室になってからは、居残る姿を見かねた彼が自分の実家に連れて帰るようになったのだが。
望郷の念。
誰でも持っているはずのそれが、自分には表れない。
理由は既に解っていたから、セインは特にそれを不思議と思うことも無かった。
家族を憎んだことは無い。
背中を押してくれた兄は勿論、病弱な身体をおして自分を育てた母にも、そしてほとんど顔も覚えていない父にも感謝している。
そして、故郷の地を疎ましく思ったことも無い。
ただ、知っているからだ。
自分があの街にとって、あの街が自分にとって――互いに、相容れない存在であることを。
帰るべき家を持たず、命ある限り広大な世界を駆け続ける。
それが、自分の求めていた生き方だから。
「――無い」
「え?」
微かに聞こえた語尾が、思考に沈んでいた意識を現実に引き戻す。
反射的に訊き返すと、ケントは視線を書類に落としたまま、ペンを持つ手だけ止めて呟いた。
「お前を独りだけ、ここに残していく気は無い」
「――え」
灰緑の双眸を見張ったままの相棒をちらりと一瞥し、ケントが肩をすくめて見せる。
「見捨てていくような真似はしないから、安心しろと言ったんだ」
愛想のかけらも無い口調で告げると、再び彼は書類にペンを滑らせ始めた。
黙って暫くその背を眺めた後、セインはゆっくりと窓辺を離れ――
「……何だ」
「ん。何か今、無性にこうしたいって思った」
座っているケントの項あたりに額を擦りつけるようにして、背後からその首に腕を回す。
「……子供か、お前は」
呆れたような溜息が、触れている肌から振動となって柔らかく伝わってきた。
その温かさに、無性に安堵している自身の存在を自覚する。
変わらず傍に在るものなど、自由に拘る自分には縁が無いと思っていた。
束縛無しに存続する愛情など、あるはずが無いと思っていた。
――だが、どうだろう?
気まぐれで変わり者な自分の性癖を理解し、それを認めた上で共に在る。
実の親すら為せなかったことを、現実にしてくれる存在が――今、目の前にいるではないか。
生真面目過ぎるくらい堅物で、いつも眉間に皺を寄せてばかりいて。
ちょっとしたことにもすぐ神経質になって、何かにつけて説教してきて。
少しでもはめを外そうものなら、すぐに眉吊り上げて怒り出して。
(それでも――)
最も鮮明に思い出せるのは、説教する時の苛立たしげな表情。
一向に笑顔が浮かんでこないことに苦笑しながら、セインは相棒へ声に出さず呼びかける。
(お前は俺を、見捨てようとはしなかったっけな)
彼が何気なく発した「見捨てない」という言葉。
ケントにしてみれば、それは単に実家に帰らない親友を一人にしてはおけないという意味合いで言ったに過ぎなかったろう。
だが、それはセインにとって、どんな言葉で愛を囁かれるより魅力的で……どんな神の教えよりも救いだった。
――それこそが、ずっと求めていた言葉だったのだと知る。
「ごめん。何か……ちょっと泣きそう」
相棒の首筋に顔を埋めたまま、セインは泣き笑いに似た表情で呟く。
ややあって、再び溜息をつく気配がした。
そして一瞬の後、宥めるように髪を撫でて梳いていく指の感触。
どこかぎこちなく拙いその動きに、戸惑いと真摯な情とを感じ取る――無骨で、それでいて優しい慰め。
「お前で――良かったよ」
回した腕に力を込め、セインは小さくそう呟く。
私もだ、と聞こえた気がしたのは、自身の願望だったろうか。
――さがしもの、みつかった?
幼い頃の自分が訊いてくる。
――ようやく見つけられた……かもね。
今、ここにいる自分が笑う。
失った望郷の念の代わりに、与えられたもの。
それは、この愛想無しで優しい相棒を、愛しいと想う気持ちだったのかも知れない。
暖炉で、薪の爆ぜる音。
指で拭って透明にした硝子は、再び白く曇り始めていた。
そして――
夜はこれから、夜明けへ向かう。
過去捏造 たのしいです