千日手にはまだ早い
いつもと同じ、のどかな昼下がり。
午後の試合開始が近いこともあって、ファイター達の暮らす宿舎は人も少なく静かだった。
試合の無い時間ともなれば常に賑わっているロビーも、それは例外ではない。
その窓際、テーブルを挟んで置かれた椅子に座る二つの影。
彼らの間には、黒と白の駒が不規則に並んだチェス盤が鎮座していた。
一方に座るのは、蒼い髪と瞳が印象的な剣士マルス。
そしてその対面には、仮面の騎士メタナイト。
二人とも、試合の時と寸分違わぬ真剣な面持ちで盤上を睨んでいる。――どうやら、対局はかなり拮抗した状態にあるようだ。
互いがチェスを嗜んでいると知ったのは、全くの偶然だった。
そもそも全く異なる世界に存在していた者同士が、共通のルールを持つゲームを知っているというだけでも奇跡的なのだが。
そのことが判明して以来、彼らは剣士としてだけではなく、チェスの指し手としても好敵手の間柄となっていた。
しばしの間熟考していたマルスが、決めたとばかりに盤へと手を伸ばす。
白のビショップ――fの4。
「……ふむ。そう来るか」
感心したようにメタナイトが呟く。
その口振りからして、青年の布石が妙手であることは想像に難くなかった。
「ふぅ……さあ、メタナイト殿の手番です。お手並み、拝見させてもらいますね」
自身の手が対戦者に影響を与えていると踏み、青年は安堵の息をつくと満足げに微笑んでみせた。
メタナイトは椅子に深く座り直し、仮面に手を当てて思考を巡らせ始める。
一人掛けのソファに腰掛けたその様は、動かなければさながらそこにぬいぐるみが置かれているかのようだ。
真面目でクールな性格の本人とは裏腹に、その姿は何というか、非常に可愛らしく見えるもので。
(もっとも、本人に言ったら確実に気を悪くするだろうけれど)
次の手を真剣に考えている姿を見ながら、マルスは内心で苦笑した。
その時、静かなロビーにチャイムの音が響く。
午後の乱闘が始まる合図だ。
「……そう言えば、そちらは午後から試合が入っていたのではなかったか?」
メタナイトがそう訊ねると、マルスはちらりと壁に掛かった時計を見上げた。
「あ……ええ。
でも、まだ時間はありますから。せっかくなので、もう少しお付き合いします」
「そうか。それならば、早めに切り上げた方が良さそうだな」
元々、決着がつくところまでは行かぬだろうと解って始めた対局だった。
とは言え、やはり出来る限りゲームは進めておきたい。メタナイトは形の見えてきた思考を手早くまとめ上げ、駒へと手を伸ばす。
「ああ、大丈夫です。
普段ならかなり余裕を見て入るのですが……今日は、アイクと組みますから」
「――成る程、な」
青年の言葉に、駒を進め終えたメタナイトは得心がいったように呟く。
メタナイト自身、亜空事変の際に成り行きで行動を共にしたこともあって、彼ら二人とは比較的交流のある方だ。
だが、二人の青年の場合、元居た世界が似ている等の共通点が多い為か、他の参加者達と比べても格段に仲が良かった。それは、毎日の生活で二人が一緒にいるところを見ない日は無いことからも明白だ。
――そんな気心の知れた友人がチームメイトであれば、多少控え室入りが遅かったとしても大目に見てもらえるということか。
また、彼らは普段からよく手合わせをしているから、綿密に立ち回りを打ち合わせる必要が無いのもあるだろう。組み慣れない相手であったなら、早めに入って念入りに作戦を練らねばならないからだ。
もっとも、参加者達の全てがそうだというわけでは無い。ただ、マルスという青年の性格からすれば、そういう努力は怠らぬだろうとメタナイトは踏んでいた。
「まあ、僕が普段より遅く行ったとしても、それでもアイクよりは早いかも知れませんけど」
そう言うと、マルスは何かを思い出したかのようにくすくす笑う。
「彼ってほら、ああいう性格でしょう?
遅刻することはまず無いんですけど、寝起きそのままって感じのボサボサ髪で来たりするものだから……。
あの時は、身だしなみを整えさせるのに時間がかかって、打ち合わせどころじゃなかったですよ」
「ふ……ありそうな話だ」
「人前に出る時は最低限、身なりに気を遣わないとって言ったら『どうせ今から乱れるんだから同じことだろう』なんて言うんですよ。
全く、子供みたいなんだから」
――そんな風に、友人のことを語るマルスはとても楽しそうで。
珍しく、メタナイトは思ったままの感想を口にした。
「――随分と、あの青年に目をかけているのだな?」
「……、そう見えますか?」
一瞬の沈黙の後、マルスは微笑んでそう答えた。
そして何事も無かったかのように、考え――駒を進める。
その姿は至って普段通りで、何ら不自然なところは見受けられない。
――だが、先刻の自分の言葉で青年が確かに動揺したことに、図らずもメタナイトは気づいていた。
チェスは思考のゲームだ。
感情に乱れがあれば、それが如実に指し手にも表れる。
事実、いま青年の打った手は、先程までと比べて明らかに鋭さを欠いていた。
乱闘でもチェスでも、勝負というものにおいてはあくまで公正さを重んじるのがメタナイトの主義である。このまま知らん顔をして対局を進めれば、おそらくは彼に有利な試合運びとなるであろうが、そのような展開は彼の希望するところでは無かった。
指し手の乱れを指摘すると、マルスは一瞬黙り込んだ後、苦笑しつつかぶりを振った。
「……やはり、お見通しでしたか」
「対局の最中に気を散らすような雑談をして、済まなかったな」
余計な詮索をしたと律儀に詫びるメタナイトに、マルスはいいえと首を振った。
それからしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げる。
「……メタナイト殿。
ひとつ、お訊きしても良いでしょうか」
「む?」
てっきり次の一手を熟考しているのだとばかり思っていた仮面の騎士だったが、それはどうやら違うようだと、相手の表情を見て思い直す。
「――貴方から見て、僕の態度は普段とどこか違うでしょうか?
……その、彼に対して……」
「――何故、そのようなことを私に訊く?」
予想外の問いに、メタナイトはしばしの沈黙の後にそう返した。否、返さざるを得なかった。
実際にマルスの意図が読めなかったのもあったが、質問で返す以外に適当な返答が見つからなかったというのが一番大きかった。
「……先程、僕が随分と彼のことを気にかけているようだ、と仰いましたので。
貴方から見てはっきりと判るほど、自分の態度が普段と違うのかと……気になったのです」
そう告げて、マルスは微かに溜息をついた。
「――何か、思うところがありそうだな?」
椅子に深く座り直しながら、メタナイトが問う。
人生相談など自身の柄ではなかったが、知らぬこととは言え自身の言葉がきっかけとなった以上、ここで放り出すのも気が引ける。
それに何より、このままでは盤面が一向に進まない。公平なゲームを望むメタナイト自身のためにも、ここはマルスの話を聞いてやる必要がありそうだった。
そんなメタナイトの言葉に後押しされてか、聞き流してもらって構いませんと前置きして、マルスは独り言のような口調で呟いた。
「何と言うか……。
もう、僕があれこれ気を回さなくとも、彼はここで楽しくやって行けるのだろうなと思って。
変な話ですが……少しだけ、寂しい気がしてしまうんです」
その言葉に、メタナイトは彼らと出逢った時のことを思い出す。
共に亜空軍に立ち向かった縁で、二人の青年とはそれなりに親しくしていた。だから、マルスがこの世界にやってきたばかりのアイクに対して、何くれとなく世話を焼いていたのも知っている。
「――まるで、独り立ちしてゆく子を見送る親のようだな?」
仮面の下でくすりと微笑みながら告げると、マルスはさらに顔を紅潮させた。
「……本当ですね。
こんな感情、自分でもどうかしていると思います」
心を落ち着かせるためか、青年はそこで一旦言葉を切り、窓の外へと目を移す。
壁一面を贅沢に使った硝子張りの窓は、ロビーに集う者達に見事なパノラマを披露してくれる。青く晴れ渡った空の下で、乱闘の行われているスタジアムが鈍色の輝きを放っていた。
「――彼は、僕より一つ年下で。
だから、何か弟みたいに思えてしまうというか」
「……そうか。そう言えばそうだったな」
外見からはとても判らないが――と、これは心の中で呟いておくメタナイト。
目の前の青年が、線の細い容姿に内心コンプレックスを抱いていることは承知している。それを刺激するような発言をわざわざするほど、彼は無神経ではなかった。
「だからと言って、年下扱いするつもりは無かったのですが……。
どうやら無意識に、先輩のような気分で接してしまっていたみたいです」
勝手ですね、僕は。
そう独りごちて微笑む様子に、メタナイトはふと違和感を感じた。
――果たして、本当にそうなのか?
本人が告げているにも関わらず、言葉と表情が一致しないような、奇妙な感覚。
その正体を無意識に追求しようと、メタナイトはさらに口を開き――
「此処に居たのか、マルス」
その声が聞こえた瞬間、青年は椅子から数センチ跳ね上がったのでは無いかと思うほどに驚いていた。
その姿を見たメタナイトは思わず吹き出しそうになったが、さすがにあまりにも青年に対して悪いとどうにか押さえ込む。
こういう時は、仮面を着けていて良かったと思う。
もっとも、マルスが慌てるのも無理からぬことだった。
焦りの表情を隠しきれぬままに振り返った彼に大股で歩み寄ってきたのは、つい今まで彼らの話題に上っていた張本人だったのだから。
「……あ、アイク……!?」
狼狽の色を必死で隠そうとしているマルスを、長大な得物を肩に担いだ青年が見下ろす。
「――時間になっても来なかったから、探していた。
もうすぐ試合が始まるぞ」
「あ……いけない!」
弾かれたように椅子から立ち上がり、マルスは時計を見た。
「ごめんアイク、すっかり忘れていたよ!
メタナイト殿、最後までお付き合いできなくて申し訳ありません」
「いや、こちらこそ試合直前まで付き合わせて済まなかった」
試合のことを思い出したおかげで、マルスの動揺は巧いこと誤魔化されたようだ。
アイクも別段、彼の態度に疑問を抱いた様子は無く、いつもの無表情でメタナイトに話しかけてくる。
「そうだ、メタナイト。
この前の手合わせは参考になった。また今度付き合ってくれ」
「ふむ。私で良いのなら何時でも」
鷹揚に頷くと、アイクは片手を挙げ、マルスは丁寧に一礼して、共にその場を去っていった。
慌しく走り去る2人の背中が見えなくなるのを確認して、メタナイトはチェス盤に視線を戻した。
つと手を伸ばして取り上げたのは、盤上に佇んでいた白のクイーン。
しばらくそれを眺めた後、初期位置から1マスも動いていない黒のキングの隣に置く。
敵の駒が隣にあって、チェックに気づかないなどということはありえない。
……いや、そもそもルール上はキングの隣に敵駒が置かれること自体ありえないのだ。
だが。
(……気づいていない、のかも知れないな)
近すぎて、気づかない。
十分に有り得る話だ。
人の感情の機微に対して聡いという自信は無い。むしろ、そういったものには縁が無い方だと思っている。
だが、マルスがあの剛剣の使い手に対して寄せる感情は、単なるお節介や世話焼きとは似て非なるもののように、メタナイトには感じられるのだ。
先刻、アイクへの気持ちを語るマルスにどこか違和感を覚えたのは、おそらくそのせいに違いない。
距離が近すぎて、気づかない。
抱く感情が他のそれと似過ぎていて、気づかない。
果たして原因はどちらなのか。あるいはその両方か。
実の弟を見るような目?
……いいや、違う。
あれは、どちらかと言えば――
(……止めておくか)
余計な詮索は無意味だ、とメタナイトはかぶりを振る。
答えが解ったところで自分に何が出来るわけでも無いし、それはおそらく、当人達が自ら気づかねばならぬ事だから。
チェスにおける「詰み」は、決して終焉を意味しない。
それは言うなれば、長編小説の一章が終わったようなもの。
ひとつの勝負に決着がつき、また盤上に駒を並べなおせば、そこから新たなゲームが始まるのだ。
(あの二人も、無事チェックメイトを迎えられれば良いのだが)
しかし、如何せんあの二人は鈍い。
アイクは言わずもがな、他の事にはよく気のつくマルスも、この件に関しては恐ろしいほどに自覚が無いようだ。
決着がつくまでに、自分とマルスの対局は何回戦を数えていることやら。
少し可笑しくなって、メタナイトは仮面の下で微かな笑い声を立てた。