シュガーキャンディとブラックコーヒー
Side:Black Coffee
閑静な住宅地の一郭、やや奥まった路地にひっそりと建つ古風な佇まいの喫茶店。
多彩な種類を取り揃えた紅茶と、マスターお手製の料理が売りの、知る人ぞ知る隠れ家的なカフェである。
夕食前の中途半端な時間ということもあって、店内には誰も居ない。
カウンターの中で料理の仕込みに精を出すのは、この店の主たる青年。一見の客は大抵、まずその若さに驚く。確かに「喫茶店のマスター」という響きから、二十代そこそこの青年という人物像を思い浮かべる者は多くはあるまい。
整った優しげな容貌、落ち着いた物腰で聞き上手、そして手料理は絶品。マスター自身を目当てに通う女性客も、実は決して少なくないとか何とか。
カランカラン。
ボリュームを絞ったジャズだけが流れる静かな店内に、来客を告げるベルの音が響く。
濡れた手を拭きながら顔を上げた彼は、店の入口をくぐる見知った青年の姿を認めて笑顔を浮かべた。
「やあ、アイク。こんにちは」
その声に、アイクと呼ばれた青年は無言で片手を挙げて応えた。
近所にある武術道場の跡取り息子である彼は、この店の常連客の一人である。客と言うよりは、マスター自身がそこの道場で指南を受けている事、そして弟が彼と同じ高校に通っているという事もあり、「よく遊びに来る、家族ぐるみで付き合いがある親戚の子」的な存在ではあるが。
勝手知ったる何とやら、という感じで真っ直ぐ店内を突っ切った青年は、当然のようにマスターの正面に当たるカウンター席に陣取った。そして足下にどさりと荷物を下ろし、布の袋に包まれた細長い棒状の物を傍らに立て掛ける。
「これから練習かい?」
その中身が彼愛用の木刀だと知っているマスターは、お絞りを差し出しながらそう訊ねる。
「ああ。……オスカーは夜の分の仕込みか?」
邪魔をしたか、と不器用ながらも気遣いの色を見せる彼に、カウンターの中の店主――オスカーは笑ってかぶりを振った。
「構わないよ。今はお客も居ないし、ゆっくりしていくと良い」
いつも決まって、来客の少ない時間帯を見計らって訪れる彼。
その目に見えない気遣いを承知しているから、店主たる青年の方も快くいつもの席に座らせ、いつものメニューを用意するのだ。
「ご注文は、ソーダ水で良いかい?」
いつもの? とこちらが訊いて、彼が頷く。普段通り、お決まりのやり取り。
それが、今日は違った。
「……いや、コーヒーで」
「え?」
「……コーヒー。ブラックで」
聞き間違いかと問い直しても、答えは同じ。
珈琲。しかもブラックで。
「細かい種類とかは解らんから、あんたに任せる」
「……カフェオレとか、カプチーノもあるけど?」
そう提案してみたが、一言の下に却下された。
どうやら、ブラックコーヒーという部分だけは譲れないらしい。
「……どうしたんだい。珍しいね」
ついぞ彼から出たことの無い注文に、オスカーは面食らった表情でその顔を見やった。取り出したソーダ水用のグラスが、手の中で所在無げに光る。
「……そんなに驚くことか?」
疑問半分、憮然半分。そんな顔でアイクが問う。
「コーヒーなんて、今まで一度も注文した事無かったじゃないか。
どういう心境の変化かな、と思ってね」
そう返すと、しばし沈黙があって。
「……別に、特に理由は無い。
親父やあんたが飲んでるのを見て、興味が出ただけだ」
何故か、視線を逸らしながらの返事。
「ふぅん……」
何となくピンと来て、オスカーは口元に笑みを刷いた。
ちょっと背伸びして、大人の真似事。
この年頃の青少年には珍しくもない、よくある話。
子供というには大きく、大人と呼ぶにはまだ早い、狭間の時期。この世代は、大人達から未熟というレッテルを貼られるのに酷く敏感なものだ。
だから彼らは、殊更に大人ぶることでそれを遠回しに拒絶する。
『子供扱いされたくない』――無意識な、無言の主張。
年齢の割に達観しており、あまりそういう事を気にしなさそうに見える彼だけれど。
いやいやどうして、普通の年頃の子らしい所もあるではないか。
微笑ましいなと一人笑っていると、無言で睨まれた。
馬鹿にされたと取ったのか、それとも照れ隠しか。いずれにしてもからかうつもりは無いので、さりげなく矛先をそらす。
「アメリカンの、ホットでいいね?」
アイクはああと頷き、制服のポケットから出した硬貨をぽんと放って寄越した。おっと、と掌でそれを受け止める。
「別にお金は良いのに」
「そういうわけにはいかないだろう。あんたも商売なんだ。
俺もたかりに来ているつもりは無いしな」
至極真面目な表情で返す青年に、オスカーは笑う。
こういう所は妙に律儀なのが、アイクという青年なのだ。
御代を貰った以上は、注文には速やかに応えねばならない。
彼にお釣りを返してから、オスカーはグラスを戻して代わりにカップとソーサーを取り出した。
※
ミルを回して挽いた粉に熱湯を加えれば、馥郁とした香ばしい匂いが店中に漂う。
慣れた手つきでカップに珈琲を注ぎ、銀の匙を添えて出来上がり。
「はい、お待たせ」
かちゃり。目の前に置かれる、瀟洒な白のコーヒーカップ。
立ち上る湯気から漂う香気は、何ら知識の無いアイクでも上質なものだと解る。
宣言通りに何も入れず、濃い琥珀色のその液体を、そのまま口に運んだ。
(…………苦い)
舌を刺す独特の風味に、盛大に顔をしかめる。
もっとも、本人はそのつもりでも、元が鉄面皮のせいで端から見ると眉間の皺が一本増えた程度だったが。
カップを置いて、ふと見れば。
さりげなく正面に鎮座する、ミルクポットと砂糖壷。
あからさまに使えという風でなく、けれど確実に目に入る位置に置かれたそれは、この席に着いた時点では確かに無かったもので。
横目で見ると、マスターは澄ました顔で自らの分の珈琲を淹れている。
(……お見通し、ってことか)
その視線がこちらを見ていないことを確認してから、アイクは砂糖壷に手を伸ばした。
白とザラメの混じった角砂糖を、三つほど投入。お次はやや乱暴に、ミルクポットを引き寄せる。
何となく悔しかったので、カップから溢れんばかりに並々と注いでやった。
――近頃、ミルクは高騰してるんだけどなあ。
微かに聞こえた呟きは無視する。
(ほらね、だから言ったのに)
薄いベージュ色と化したカップの中身をぐるぐるかき回す青年を横目に、オスカーはくくっと喉の奥だけで笑った。
今まで珈琲を嗜んだ事の無い者がいきなりストレートで飲んでも、その魅力を理解するのは難しいだろう。それを承知しているから、まずはカフェオレやカプチーノを薦めたのだが。
まあ、彼も良い勉強になっただろう。オスカーはそう独りごちて、淹れたばかりのブラックを一口飲んだ。鋭く熟れた苦味が、舌から喉へさらりと流れていく。
苦い苦い珈琲。
その味はまるで恋のようだと、オスカーは思う。
お子様な彼には、まだまだ早い。
2011年発行の小説本「シュガーキャンディとブラックコーヒー」より。
アイクとの恋愛に対し、シビアに捉えるオスカーと、どこか夢見がちなキルロイという対比を意識しています。