たったひとつの帰るべき場所


 昼下がりの青い空に、力仕事に勤しむ人々の威勢良い声が響く。
 少しだけ透かした窓から、その希望に満ちた喧噪を聞きながら、青年――キルロイは小さく咳き込んだ。


 彼が所属するグレイル傭兵団は、現在王宮の一郭を間借りする形で日々を過ごしている。
 クリミア王女からすれば、命の恩人であり祖国復興の実質的な立役者である彼らを、客人として丁重に扱うのは当然だろう。
 団長であるアイクは特別扱いを厭い、一度はその申し出を断った。だが、まだ混乱が収まったわけではないクリミアの情勢を鑑みたのと、雇い主であるエリンシアから是非にと請われては、彼も無碍には断れなかったようだ。

 そういう経緯で、現在キルロイが休んでいるのも王宮内にある客室のひとつだった。
 一介の平民の出である青年には、この華美でないながらもさりげなく上質な部屋は、凄いと思いこそすれ居心地が良いとは到底言い難かった。



 ここ数日、キルロイはずっと寝台の中に居る。
 元々、季節の変わり目には体調を崩しやすかった。それに加え、戦争が終結しクリミア復興の兆しが見え始めたことで、張り詰めていた気が緩み一気に疲れが出たせいもあるのだろう――王宮付きの薬師はそう言った。

 自分の体が弱いことを承知している仲間達は、笑顔で――あるいは心配顔で、快く休めと言ってくれる。それは今に始まったことでは無く、この傭兵団に入った時から変わらない。
 けれど。
 皆が頑張っている中、自分だけが何の役にも立っていない――その現実に、キルロイはどうしても歯がゆさと申し訳なさが拭えないのだった。

 ――早く治して、皆を手伝わなくては。

 焦ってみたところで、今の自分に出来ることなど無いわけで。
 とにかく今は十分に休息をとるべきだ――逸る気持ちを抑え、上掛けを肩まで引き上げた時。


「……?」

 戸を叩くような音が聞こえたような気がして、キルロイは入口の扉へと目をやる。
 空耳かと首を傾げていると、今度ははっきりと聞こえた――低く押し殺した、男性の声。


「――キルロイ、居るか?」


「……アイク?」
 聞き間違うはずのない聞き慣れた声に、キルロイは寝台上で半身を起こし目をしばたたかせる。
 果たして、彼の返事を待たずして静かに扉が開き、蒼髪藍瞳の青年が滑り込んできた。


「どうしたんだい、アイク。こんな所へ……」
「悪い。匿ってくれ」
「え?」
 簡潔極まる言葉にきょとんとする部屋の主を余所に、青年はずかずかと大股で部屋を横切ると、何故かわざわざ窓側の方へと寝台を回り込む。
 その動きを戸惑い気味に目で追っていたキルロイの思考は、次に青年が取った行動によって否応なしに中断させられた。

「……え? ちょっと、アイク!?」

 一瞬沈黙の後、慌てた声を上げるキルロイ。
 それも無理からぬことだろう――いきなり毛布を持ち上げられ、寝台の中に滑り込んで来られれば、誰だって驚くというものだ。


「誰か来ても、俺は居ないって言ってくれ」
 青年の困惑もどこ吹く風、アイクは顔だけ出してそう告げると、頭の先まで毛布に潜ってしまった。おおよそ彼には似つかわしくない、子供じみた振る舞い。
 ……詳しい事情を説明してくれる気は、どうやら無いようだ、とキルロイは悟る。

 訳が分からないながらも、どうやら姿を隠そうとしているらしいと踏んだ青年は、とりあえず彼の体を隠すべく予備の毛布を上に重ねてみる。
 これで傍からは、病人のために毛布が多めに積まれているようにしか見えないだろう。息をついたと同時に、また誰かがドアを叩く音がした。


「キルロイ、起きているかしら?」
「――ティアマトさん?」

 今日は来客が多い日だなぁと思いながら、どうぞと入室を促す。
 すると静かに扉が開き、今度は赤毛の女騎士が入ってきた。

「ごめんなさいね、キルロイ。休んでいるところを」
「いえ、気にしないでください。
 何かあったんですか?」
「ちょっと訊きたいのだけど、アイクを見かけなかったかしら?」

 ――誰か来ても白を切ってくれとは言われたが、こんなにも早くその時が来るとは。
 キルロイは鼓動が早くなるのを自覚しつつ、努めて平静に答える。

「アイク、ですか?
 僕は見ていませんが……彼がどうかしましたか?」
「そう……。
 それがね、エリンシア王女と一緒に各国の使節に挨拶して欲しいって依頼が来て、それを伝えようと思ったのだけれど……どこにも姿が見あたらないのよ」


 ――なるほど。

 ここに至り、キルロイはようやく事の次第を理解した。


 その依頼が来たことを事前に知り、一足早く姿を眩まそうとしていたわけか。
 堅苦しいことを嫌う彼らしくもあり、また責任感の強い彼らしくも無い行動でもある――キルロイはそんな風に思った。


「そうですか……。
 もしアイクに会ったら、ティアマトさんが探していたって伝えておきますね」
「――ええ、お願いするわ」
 一瞬、紅の双眸でキルロイの脇に積まれた毛布を一瞥した後、女騎士は苦笑じみた表情で告げた。

「体調の悪いところをごめんなさいね。
 ――ゆっくりお休みなさい」
 そう優しく言い置いて、ティアマトは静かに部屋から出ていった。




 足音が遠ざかるのを確認してから、キルロイは詰めていた息を吐き出す。
 そして、傍らの小山へと向き直ると、おもむろに一番下の毛布をめくった。
「……そういうことだったんだね」
「……」
 毛布の下から現れたのは、どこか決まり悪げな表情。

「――すまん。恩に着る」
 感謝の言葉に、キルロイはゆっくりとかぶりを振る。安心するのは早い、とでも言うように。
「僕の推測だけど……
 多分ティアマトさん、気づいてたんじゃないかな」
 自分の脇に置かれた毛布を一瞥した後、彼女が浮かべた苦笑にも似た表情。
 それはまるで「仕方のない子ね」と言っているように、キルロイには見えたのだ。

「……だろうな」
 青年の指摘に、しかしアイクはあっさりと頷いた。
「……驚かないんだね?」
「ティアマトが最後に言っただろう?
 あれはあんただけじゃない、おそらく俺にも向けた言葉だった」
 半身を起こしながらそう言った彼に、キルロイは紅の女騎士が去り際に残していった言葉を思い出す。


『――ゆっくりお休みなさい』


 アイクがそこに居ることに気づきながらあえて見逃したのは、普段副長として何かと厳しく当たらざるを得ない彼女の、せめてもの心遣いだったのかも知れない、とキルロイは思った。
 ――戦が終わったとはいえ、彼が精神的に落ち着ける状況にはほど遠いことを、周囲は皆知っているから。



 前国王の遺児エリンシアの帰還により、奇跡的な復興を遂げたクリミア王国。
 戦争の終結から半年が経とうとしている今、ここには国を問わず様々な客が訪れている――招かれざる者も含め。
 彼らの目的が、新たなる指導者となるはずのエリンシア王女の器を見極めるためなのは、今更言うまでも無いことだ。

 しかし、彼らの関心の的となっているのは、決して彼女一人ではない。

 ――若干18歳という若さで、デインを討ちクリミアを解放した救国の英雄とは、一体いかなる人物なのか。
 クリミアを訪れる者達の大半が、他ならぬアイクにも多大な関心を寄せている。彼は現在、このテリウスで最も名の知れた英雄なのだ――例え、当の本人がそれを望んでいなくとも。



 僅かに開けていた窓から吹き込んだ風が、瀟洒な白いカーテンを揺らす。

 傍らで胡座をかき座り込む青年――いくら高級品とは言え所詮は一人用の寝台、大の男二人が並ぶには狭く、自然互いの距離は近くなる。


 こんな風に彼が自分の傍に来たのは、一体どれくらいぶりになるだろう――キルロイはふと思った。

 エリンシア姫より爵位を授かり、クリミア解放軍総司令官となって以降、アイクはどんどん遠い存在となっていった。
 居並ぶ兵達の前で鬨の声を上げる彼の姿に、憧憬の念を感じると同時に――もはや自分などには手の届かないところへ行ってしまったような気がして、寂しさを禁じ得なかったことを思い出す。
 彼ならば偉大な父に追いつき、追い越すことすら出来るはず――かつてそう彼に保証したのは、他ならぬ自分だったというのに。

 そんな彼がいま、その息遣いすらはっきりと感じられるほどの距離に居る。
 嬉しさと後ろめたさ、そして懐かしさが綯い交ぜになった不思議な気分で、青年はその横顔を眩しげに見つめた。


「――迷惑ついでに、もう少しここに居て構わないか」
 不意にこちらを向いた彼と視線がぶつかって、キルロイは飛び跳ねる鼓動を懸命に押し隠す。
「それは、別に良いけれど……」
 訊いても良いものか一瞬迷ったが、思い切って口を開いた。
「――出来れば、理由を聞かせて欲しいな。
 どうして、エリンシア王女の依頼を受けないんだい?
 ううん、受ける受けないはアイクの自由だけど……受けるつもりが無いのなら、どうして直接断らずに姿を隠したりなんて……」

 それは、経緯を知った瞬間からずっと感じていた疑問。
 常の彼ならば、依頼の内容に納得がいかなければ、己が口からはっきりと断りを入れるだろう――他人に言われるまでもなく。
 だからこそ、こんな稚拙なやり方を彼が好んで取ったとは、キルロイには到底思えなかった。

 その問いかけに、青年は無言でがりがりと頭を掻くと、視線を正面に戻してぼそりと呟く。
「……面倒だったからな」
「――それだけ?」
「それだけだ」
 その目を見るまでもなく、明らかに嘘だと解る言葉。
 ――否、他国のお偉い方々に挨拶するという行為が面倒なのは本当だろう。だが、その依頼への返事まで面倒だからという理由でうやむやにするような不誠実な真似を、この無骨ながらも実直な青年がするはずは無いとキルロイは知っていた。

「……本当に?」
 顔を覗き込めば、ふいと視線を逸らされる。
 だんまりを決め込む横顔を見つめ、青年はそっと溜息をついた。

 しつこいのは承知しているが、このまま放ってはおけなかった。嘘ならば真の理由を知りたかったし、もし本音ならば、知らなかったとは言え逃亡に荷担した自分には、彼を諭す義務があると思ったから。
 あまり気は進まなかったが、キルロイはやむなく切り札を出すことにする。

「……君のその行動を、グレイル団長が見たら……
 一体、何て言うだろうね?」

 その言葉を聞いた瞬間、アイクは微かに表情を強張らせ――やがて大きく息を吐き出す。
「……狡いな、キルロイ」
「うん」
「親父を引き合いに出すのは……卑怯だ」
 不満げに唇を尖らせるその様は、まるで頑是無い子供のようで。
 キルロイは思わずこぼれそうになった笑みを抑え、静かに頷いてみせる。
「うん、ごめんね」
 でも、と青年は続ける。
「アイクなら、きっと解ってくれると思ったから」

 そっと手を伸ばし、蒼色の髪に触れる。
 まるで持ち主の気質をそのまま現したかのような、硬質で真っ直ぐなそれを軽く撫でると、軽く目を見張った後に憮然とした表情を浮かべられた。
「……もうこんな事をされる歳じゃないんだが」
「はは、ごめん」
 そう言う割に振り払いはしないんだね、とキルロイは苦笑混じりに思ったが、口に出すことはしなかった。


「――子供じゃないアイクのことだから。
 何か、理由があるんだろう?」
 そう切り出すと、丸みの削げ落ちた肩がぴくりと揺れる。
 しばし、逡巡している風の沈黙が流れ――

「……敵わないな、あんたには」
 蒼色の髪をがりがりと掻き回し、アイクは肩をすくめた。


「……ごめん、しつこく聞いちゃって」
「いや、構わん。
 ――いずれは言わねばならなかった事だしな」
 かぶりを振って、アイクは上半身ごと傍らの青年へと向き直り、鳶色の双眸を真っ直ぐに見据えた。


「――俺はいずれ、一介の傭兵に戻る身だ。
 もう、あまり王女の傍近くに居るべきじゃない」

「エリンシアは、少々俺達を頼りにし過ぎている。
 今までの経緯を考えれば、仕方の無いことではあるんだが」
 淡々と語りつつ、青年はどこか遠くを見るような目をした。
「彼女の周りには、信頼できる部下が複数居る。これからは、王女自身が彼らと協力して国を治めていかなけりゃならない。
 ――だからこそ俺達は、そろそろ手を引くべきだと思う。
 いつまでも外部の者が王女の傍近く居れば、要らん反発を招きかねないしな」

 彼の声に唱和するかのように、響いてくる微かな喧噪。
 希望に満ちた声――それは、この国が確実に復興へと向かっていることの何よりの証。

「今回の件も、あんたの言った通り、本来なら俺が正面から断りに行くべきだった。
 ――だが、こうやって徐々に距離を置いて、王女ももはや俺達に頼るべきじゃないって事に気づいてくれればと思ってな。
 それまで普通に接しておいて、突然居なくなられるよりは……そっちのが精神的にもマシだろう」
「……アイク」
 確固たる口調で自身の考えを話す彼を、キルロイは息を呑んで見つめる。
 ――やはり、彼はちゃんと考えていた。
 その上で、この一見我侭とも思える行動を選択したのだ。


「――まだ、しばらく先の事になるだろうが。
 エリンシアが即位して国が落ち着いたら、俺は爵位を返上するつもりでいる」
「……!」
 鳶色の双眸を見張るキルロイの前で、アイクは淡々と言葉を継ぐ。
「元より、任務遂行のために必要だっただけだからな。
 無事戦が終わったら、位を返して傭兵に戻ると、叙勲を受けた時から決めていた」
 確かな意志を感じさせる口調でそう言い切ると、いまや救国の英雄と謳われる青年は微かな笑みを見せた。

「親父の遺した傭兵団を守っていく。
 ――それが俺のすべきことであり、望みだからな」




 ああ、とキルロイは思う。

 彼が離れていったのではなく――遠い存在になったと、自分自身が思い込んでいただけだったのだと。


 彼の心は、いつでも傭兵団と共に在った。
 どれほどの地位と名声を得ても、アイクは変わらない――父を喪ったあの日からずっと、彼は「グレイル傭兵団」の「団長」で在り続けているのだ。

 そして全てが終わったなら、アイクは当然のように帰るべき場所へ戻るつもりでいる――爵位も名誉も富も、手に入れた全てを捨てて。

 きっと、実現するのはまだまだ先になるだろうけれど……それでも。


 ようやく、アイクが自分たちの元へ戻ってきてくれる。
 本来の彼が居る場所へ、還ることが出来る。

 それが――とてもとても、嬉しい。



「アイク」
「ん?」

「――おかえり」


「……何だそれは。どういう意味だ?」
 不意に告げられた言葉に、アイクは面食らったような表情を浮かべる。
「ふふ、言ってみたかっただけだから。気にしないで」
「……変な奴だな」
 にこにこと穏やかな笑みを浮かべているキルロイに、アイクはいまいち腑に落ちないといった顔で首を傾げた。

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