カーテンの向こう側
「……何とか撒いたか」
夜の帳に包まれた回廊。
肩越しに背後を確認して、青年――アイクはぼそりと呟いた。
斜めに射し込む月明かりが、後ろを振り返った横顔を蒼く照らす。
その精悍な面には、珍しくも僅かに辟易したような色が浮かんでいた。
――アイク率いるクリミア=ベグニオン連合軍が、此度の戦禍の元凶たるデイン王アシュナードを討ち果たし、王都メリオルを奪還したのはつい先日の事。
待ち詫びた祖国解放の日を迎え、歓喜に沸くクリミア王城――今宵、その大広間にて、祝いと兵達への労いを込めた盛大な宴が催される運びとなった。
常日頃は規律に厳格なクリミア騎士達も、今日だけは無礼講。
騎士も傭兵も、貴族も平民も――今この時は関係無く、共に厳しい道程を乗り越えてきた仲間達と杯を交わし合っていた。
しかし、そんな祝福ムード一色の中、アイクはと言えば独り祝宴を抜け出し、中庭を眼下に望む回廊を早足で歩いているのだ。
大広間の喧噪も、ここまではほとんど届かない。
追ってくる者の気配が無いことを確認すると、彼は足を止め、冷たい石の壁に背を預けて息を吐いた。
「――正直、あそこまで飲まされるとは思っても無かったな」
次々目の前に現れる瓶、杯になみなみと注がれる酒――閉じた瞼の裏に、先刻までの光景がありありと蘇る。
一介の傭兵でありながら、エリンシア王女を助けた功績により爵位を与えられ、ついにはアシュナードすら討ち取った青年は、救国の英雄として歓呼の声で迎えられた。そんな彼に、今宵の宴の主役として注目が集まるのは当然の事で……。
『アイク、僕が巧く誤魔化しておきますから、貴方はどこか離れた場所で休んでください』
乾杯責めに遭っている自分を見かねたセネリオがそう耳打ちしてくれなければ、まだまだ飲まされていたに違いない――アイクはうんざりした表情でがりがりと蒼髪を掻き回した。
とはいえ、長く席を空けるつもりは無かった。セネリオや他の仲間に迷惑がかかる事は解っていたし、望んで得た地位で無いとは言え、与えられた責任を放棄する事は自身の信義に反する。
しばしの間だけでも静かに休めそうな場所が無いかと頭を巡らせた青年の目に、回廊部分から僅かに張り出した石造りのバルコニーが映る。
「――あそこで良いか」
もたれていた壁から身を離し、アイクはその目的地へと足を向けた。
※
二階から中庭の景観を愛でるために設えられたのであろうそこは、さほど広くはないものの大人二、三人が並んで立てる程度のスペースはあり、しばしの間休憩する程度なら十分に思えた。
両脇に吊り下げられた緋色のカーテンが、ふわりと風にふくらむ。それを払い、一歩外へ踏み出した時。
「――やあ、アイク。
君も酔い醒ましかい?」
先客が居た?
横合いからかけられたその声に、アイクはとっさに振り向く。
「……オスカー?」
よく見知った顔をそこに認め、アイクはふっと息をついた。
声を聞いた瞬間に誰か解ったから、警戒はしなかった。だが、もしもここに居たのがこの青年で無ければ――最悪、忍び込んできた敵であったなら?
長きにわたる戦いが終わったことで、知らぬうちに気が緩んでいたか。誰も居ないと思い込んで、気配を消していた相手に気づけなかった己の油断に、アイクは忸怩たる思いを抱く。
そんな青年の内心を知る由も無く――あるいは察しているのか――その人は、静かに微笑んでバルコニーの端にもたれていた。
「――君も、ってことはあんたもか」
傍らに立った蒼髪の青年に、オスカーは苦笑めいた表情を向けた。
「はは……適当に切り上げて退散するつもりだったんだけれどね。
流石に、そういうわけにも行かなかったよ」
そう言えば、先刻ちらりと見た時には、旧知の仲だというあの騒々しい騎士に捕まり、これと同じ表情を浮かべていたような――アイクはふとそんな事を思い出した。
「……オスカーは、酒が苦手なのか?」
傭兵団で共に過ごして数年経つが、この青年が酒を嗜んでいる姿はあまり記憶に無い。
「苦手というほどでは無いけれど。
でも、自分から進んで飲みたいとは思わないかな」
強くもないしね、と付け加えるその顔は、心なしかいつもより赤いように見えた。
「……珍しいな」
「何がだい?」
「あんたが弟二人を置いて、一人で休んでるなんて」
アイクが知るこの青年は、常に二人の弟の事を気にかけ、自分の事よりも優先させていた。そんな彼だから、今宵の宴でも常に弟達の様子に目が届く位置に居るだろうと思っていたのだが……。
青年のそんな疑問を受け、オスカーは穏やかに微笑む。
「ヨファに飲ませるような輩はまあ居ないと思うし、ボーレも適当に切り抜けるだろう。
副長やキルロイも居るし、私が見ていなくても大丈夫だよ」
そこで一旦言葉を切り、青年はどこか遠くを見るような目をした。
「……それに、二人ももう小さな子供じゃない。
自分で判断を下せる歳になれば、過度な干渉は毒になるだけだからね」
さらりと、何でもない事のように告げられた言葉。
しかし、それを自覚し実践することの難しさは、同じく兄という立場であるアイクには手に取るように解った。
オスカーら兄弟と共に過ごして四年。その年月は、赤の他人を理解したと称するには短すぎるかも知れない。
だが、それでも――この青年が、長兄としてどれほどの愛情を腹違いの弟達に注ぎ見守ってきたのか、アイクは知っている。
だからこそボーレもヨファも、表向きは生意気な言動を取りながらも、この異母兄を心から信頼し慕っているのであろうから。
ずっと大事に守ってきた存在が、成長し自身で歩いていける時期が来た時――それを認め、導いてきた手を放す。それは真に愛情を持ち、また人間的にも成熟していなければ出来ない事。
それを解っているが故に、アイクはオスカーに対する尊敬の念をまた深くするのだった。
「――良い兄貴だな、オスカーは」
俺も見習わないとな、と呟くアイクに、青年はくすりと笑って告げた。
「そんなことは無い。
君の方がずっと立派で、ミストにとって自慢の兄だと思うよ」
「……そうか?」
いまいち腑に落ちないといった表情で首を傾げるアイクに、オスカーは微笑んだ。
「……以前も言ったように、私が出来るのはあくまで後天的な努力で可能な範囲の事だよ。
でも、君は違う。
こう言っては何だけど……そもそも、生まれ持った器の大きさからして違うんだよ」
言葉を紡ぐうちに、いつしかその面から微笑みは消え、真剣な眼差しがアイクへと注がれる。
「もちろん、君自身の並外れた努力と意志の強さが無ければ、ここまでにはなっていなかっただろう。
けれど、君がこうして歴史に残るほどの英雄になったのも……全て、君が生まれた時から運命づけられていた事なのかも知れないと、そんな風にすら思えるんだ」
そう語る青年は、常の彼に比べて幾分か饒舌なように見えた。表情や雰囲気は至って普段通りだが、やはり多少なりとも酒の影響が出ているのかも知れない。
「君は、自身が思っている以上に偉大な存在になったと思うよ」
それこそ、私などがおいそれと近づいてはいけないくらいにね――。
ぽつりと最後に雫れたそれは、おそらく言葉にするつもりの無かった本音なのだろう。直後に彼の面に浮かんだ、しまったという風な表情が何よりもそれを物語っていた。
「……すまない。聞かなかった事にしてくれるかな」
アイクが何か言うよりも先に、オスカーはそう低く告げて瞳を伏せる。何故あんな事を言ってしまったのか自分でも解りかねている、そんな心情がありありと窺えた。
明らかな動揺を見せる先輩騎士の姿を珍しいと思いつつ、アイクは先刻の言葉の意味を考える。
両者が沈黙すれば、その場を満たすは微かな葉擦れと虫の声だけ。
夜の狭間を渡る風が、佇む二人の青年の髪をさらさらと撫でていく。
ややあって、静寂を破るべく口を開いたのはアイクだった。
「――今の俺が、あんたにどう見えているかは解らんが」
視線を上げた青年の顔を真っ直ぐに見据えて、アイクは迷いの無い口調で告げる。
「俺は、俺だ。
確かに一年が経って、いろんな事があったからな。変わった部分もあるだろう。
だが、少なくとも心は――この傭兵団を守っていくという気持ちは、あの頃から少しも変わっていない」
瞠目するオスカーに向かって、青年はさらに言葉を続けた。
「あんたが俺のことを家族だと言ったように、俺もあんたを実の兄も同然と思ってるし、尊敬している。
だからこそ、一方的にそんな風に突き放されて距離を取られるのは――正直、面白くない」
一転、僅かに拗ねたように唇を尖らせるその様は、珍しくも子供じみていて。
半ば圧倒されて彼の言葉を聞いていたオスカーは、思わず笑みを浮かべてしまう。
「……そうだね。悪かったよ」
オスカーは微笑む。いつもと同じ、穏やかな笑顔。
――そこに潜んだ微かな憂いの陰に、果たして対峙する青年は気づいただろうか。
自分のことを、実の兄も同然と言ってくれた。
その言葉が、とても嬉しかった。
そして同時に……酷く複雑で、後ろめたくもあった。
何故なら、自分は彼のことを――
「――軍。アイク将軍!」
遠くから微かに聞こえた、二人以外の声。
振り返ったオスカーの傍らで、アイクが身を堅くするのが雰囲気で察せられた。
「……あれは、ジョフレ将軍の声だね。
どうやら君を捜しに来たようだ」
「……そうらしいな」
誰かが捜しに来るかも知れないとは予想していた。
だが、まさかその時がこれほど早く訪れるとは。
「――どうする。戻るかい?」
「……」
オスカーの問いに、アイクは沈黙で応える。
そんなやり取りの間にも、彼の名を呼ばわる声は着実に近づいてきていた。
出来ればもう少し、時間が欲しかったというのが本音だ。
また、あの酒と意味不明な称賛攻めにされる場に逆戻りか――先刻までの光景が脳裏にまざまざと蘇り、アイクはうんざりした表情を浮かべる。
しかし、だからと言って逃げるわけにもいかない。覚悟を決め、バルコニーから一歩を踏み出そうとした時。
不意に右腕を引かれ、アイクは一瞬よろける。
何が起こったのか把握する間も無く、ぐいと、しかし決して乱暴では無い力で身体が引き寄せられ――
自分がオスカーに抱き寄せられたのだと理解した時には、視界一面が暗い緋色に覆われていた。
「オス……」
「静かに――」
問いかけようとした青年に、オスカーは自身の唇の前に人差し指を当て沈黙を促す。その顔は、アイクの予想以上に近い位置にあった。
事ここに至り、アイクは相手の意図を理解する。
今自分達が居るのは、バルコニー入口に下がっているカーテンの裏側。ここに潜み、捜索者の目をやり過ごそうというのだろう。
――自分が気乗りのしない顔をしていたから、気を遣ってくれたのか。アイクは思った。
オスカーが彼に対して何らかの行動を起こす時、それが彼の為にならなかった事は一度だって無かったから。
ともすれば互いの心音すら聞こえそうな空間で、二人は息を潜め己が気配を消すことに専念する。
頬に触れる草色の服から、微かに薫るハーブの匂い。
ほのかに甘いそれは、いつも彼が料理に用いている、風味付けの香草と同じ薫りだった。
そのせいなのか――こんな状況にも関わらず、アイクは不思議と気分が落ち着いていくのを感じていた。
もしも、自分に兄という者が在ったなら。
こんな風に、安らぎを与えてくれたのだろうか。
口に出す事はおろか、態度に出した事も無かったけれど。
少しだけ、ボーレが羨ましいと思ったこともあったのだと――そんな事をふと思い出した。
カツ、と軍靴が石を打つ音に、思考が断ち切られる。
その規則正しい足音は、次第に近づき――二人が身を潜めるバルコニーの前で、止まった。
――気づかれた?
息を詰め、気配を殺し、刹那とも永遠とも思える時間が過ぎ去るのを待つ。
「此処にも居ないか……」
そう、独りごちる声がして。
再び足音を響かせながら、その気配は徐々に遠ざかっていった。
鍛え上げられた鋭い感覚でも、捜索者の気配が捉えられなくなったことを確認してから、アイクは詰めていた息をふうっと吐き出した。
何とか切り抜けられた事に安堵しながら、自身を庇ってくれた礼を言うべく、すぐ傍らに居る相手の顔を仰ぐ。
「すまんオスカー、おかげで助かっ……」
感謝の言葉を、しかしアイクは最後まで紡げなかった。
何故なら――それを発する為の器官を塞がれたから。
(……!?)
それは、瞬く間の出来事で。
彼がその意味を理解するには、あまりにも短すぎた。
さらりと頬を擽って過ぎた緑の髪が離れていくのを、アイクはただ視界の端で見送る。
そんな彼を抱き寄せていた腕から解放すると、オスカーは視界を遮っていたカーテンを退けた。
ひたりと寄り添っていた温もりが離れていくのを肌で感じながら、アイクはその背中を目で追う。
「――どうにか、やり過ごせたようだね」
周囲の回廊に誰の気配も無いことを確認すると、青年は固まっているアイクに向かって微笑みかけた。
「……向こうの様子が気になるから、私はそろそろ戻るよ。
君はゆっくり休んでくると良い」
そう告げる彼の態度は、まるで何事も無かったかのように自然で、全くもって普段通りだった。――混乱している自分の方が不自然なのだと、錯覚しそうになる程に。
ふわりと穏やかな――庇護し見守る者としての笑顔を残し。
オスカーは無駄の無い動作で身を翻し、バルコニーを去っていった。
後には、何とも形容しがたい表情で動きを止めている青年が独り、残されるだけ。
「…………」
――何が何だか、わからない。
さながら油を挿していないブリキ人形のように、ぎこちなく腕を持ち上げ、アイクは己が口元を手で覆う。
解らないことだらけだった。
彼があんな行動に出た理由も、その意味も――そして、自身の頬が熱を持っている理由すらも。
「………………
何だ、あれは……?」
誰も受ける者の無い問いは、中庭を吹き渡る夜風にさらさらと溶けて消えた。
その答えを得る為に、理解せねばならない感情の名を――
彼はまだ、知らない。
2011年発行の小説本「liKe a shInin' Super Star!!」より。
何だかんだで、アイク受の中ではオスアイを一番書いている気がします。