adagio dolce
人間誰しも、どうにも逆らえない状況というものはある。
自分も例外ではないことに、最近になってようやく気づき始めた。
※
日課の朝練を終えた後、ケントは兵舎横にある修練場の倉庫で、訓練に使う武具の点検をしていた。
騎士隊長の職にある彼自身がやらなくとも、本来ならば部下に任せてもいいはずの仕事なのだが、何しろこの青年、一度気にしてしまったら最後、自分で片付けてしまわなければどうにも気がすまないという損な性分の持ち主である。今日も今日とて朝練中、一部の修練用器具の破損を目に留めたことで気になり、こうしてわざわざ全ての用具をチェックしている次第だ。
一通り点検を終えると、ケントは下敷きに留めた紙とペンを手に、壁際にひとつだけ置かれている長椅子に腰を降ろした。紙に記録した、チェックの結果に目を落とす。
使用に耐えないほど破損している武具は、今のところ無いようだ。だが長年使い込んだものに関しては、やはり磨耗などが目立つ。そろそろ新しい品の導入を検討し、上に奏上すべきだろうか――。
「ああ、いたいた。こんなトコロで何してんの、お前?」
湿った空気に似合わぬ陽気な声とともに、屋内の修練場へと続く扉から見慣れた人物が姿を現した。
「セインか……」
呟くように言って、ケントは眉を顰めた。
厄介な奴が来たな――などと、内心で思いつつ。
そんな相棒の内心も知らず、能天気が服を着て歩いているような青年は、騒々しく足音を立てつつケントの傍に寄ってきた。
「何それ?」
身を屈め、親友が手にした紙を覗き込んでくるセイン。癖のあるブラウンヘアーが揺れ、ケントの頬をくすぐって過ぎる。
「ここにある用具の点検をしていたんだ。一部、破損しているものもあったようだったからな」
「……そんなの、わざわざお前がやんなくてもいいことじゃないか?」
視線を落としたまま答えたケントに、呆れたような声が返る。
「お前は隊長なんだから、そーいうことは俺か下のヤツらにやらせればいいんだよ」
「……気づいた時にやっておかないと、忘れてしまうからな。
気がついた人間がするのが、一番早いし無駄がない」
正論を口にする相棒に、セインはやれやれと肩をすくめた。そしてそのまま、どさりと親友の隣に腰を下ろす。
「で、それ、終わったの?」
「ああ、今しがたな」
「終わったんならさ――お前、今日はもう上がれよ?」
「何?」
今はまだ昼前だ。突然何を言い出すのかと、ケントは面食らった顔で親友を見る。
「誤魔化そうったってダメだよ。お前、調子悪いんでしょ?」
「……!」
さらりと言い放たれた台詞に、ケントは思わず絶句した。
同時に、予感が的中したとため息をつく自身の存在を自覚する。
現れた親友を見て、厄介な奴が来たと思ったのは……彼を疎ましく思うが故ではない。
付き合いの長さと洞察力の高さとを併せ持つ親友に、こんな風に自分の虚勢を看破されることを恐れていたからだ。
表情の変化に乏しい鉄面皮も、感情の動きが出にくい冷静な性格も、この相棒の前では何の役にも立ちはしない。例えどんな目くらましを撒こうが、セインはまるでそんなものは初めから存在しないかのように、やすやすとそれをかわして真実へとたどり着く。
今日、朝から体調が酷く悪かったことも、それを無理矢理に押し隠して任務に出てきたことも……おそらく、セインには見抜かれてしまうだろうと、心のどこかでは思っていた。
ただでさえ聡いくせに、自分のことに関してはそれに輪をかけて鋭いのだ――この、ふざけているのに見るところは見ている相棒ときたら。
だから、なるべく直接顔を合わせるのを避けていたというのに。
ケントは内心でため息をつき、口を開いた。
「……そういうわけにはいかない。やらねばならない仕事が残っている」
「そんなの明日でも出来る。いいから休めって、ホントに倒れるぞ?」
多少の無茶は見ない振りをしてくれるセインだが、今日は頑として譲ろうとしなかった。
彼がこんな風に言うときは、傍目から見ても本当に限界が近いということだろう。多少調子が悪いくらいであれば、ケントがそれをおして出勤してくるのはいつものことなので、セインも何か言うことはなかったからだ。
全て解っていたけれども、やらねばならない仕事が山積している状態で、生真面目なケントが休んでいられるはずもなかった。
「心配してくれるのはありがたいが、それは出来ない」
ひたすら強情な相棒の態度に、セインは大きくため息をついた。
そしておもむろに腕を伸ばすと、傍らに座るその身体をぐいと引き寄せる。
「な、何をっ……」
相棒の突然の行動に、ケントがうろたえた声を上げた。
そんな彼の反応もお構いなしに、セインは彼の背中に腕を回す。力を込めつつも決してきつくはない抱擁に、ケントの頬にさっと朱が差した。
「放せっ、こんな所で……誰か来たらどうするんだ!」
現在、他の騎士達は外の修練場で訓練に勤しんでおり、ここの周辺に人の気配は無かった。とは言え公共の施設なのだから、いつ何時誰かが入ってくるか知れたものではない。
もし、こんな場面を誰かに見られでもしようものなら――ケントは頬に血を上らせて、相棒の腕を振り解こうと抵抗する。
しかし、普段は拒絶すれば比較的あっさりと離れていくはずの腕が、今日に限っては緩む様子すら無い。
いつものケントであれば、多少拳を見舞おうが蹴りを入れようが、無理矢理引き剥がしていたところだろう。だが体調不良が祟って、どうにも身体に力が入らなかった。
羞恥と焦り、困惑が綯い交ぜになって混乱する彼の耳を、苦笑混じりの声が打つ。
「お前、こんなのも外せないで、まともな訓練なんて出来ると思う?」
背中にあった腕が、ゆっくりと緩んでいく。
ケントの腰の後ろ辺りで指を組み、セインは包み込むようにその身体を抱き込んだ。
「俺には隠さないでよ――全部、解るんだから。
お前、相当無理してる。このままじゃ、本当に倒れちゃうよ?」
セインの地声は、男性にしてはやや高めのテノールで、それが少年めいた雰囲気に拍車をかけている。しかし、今発しているのは低く掠れ気味のそれで、歳相応とも言える大人びた空気を彼に纏わせていた。
普段のふざけた物言いとは全く異質な、静かで優しい声。
同一人物が発しているはずなのに、何故こうも違うのだろう――ケントはひどく落ち着かない気分で、そんなことを思った。
「自分の体調管理も、上に立つ者の大事な勤めでしょ?
自分でヤバいなって思う時は、ちゃんと休んどかないとダメだよ」
耳元で囁く、甘い声。
それだけでも、ひどく心拍数が乱れて困るというのに――指で優しく髪を梳かれ、背中を撫でられて、ますますどうしていいやら解らなくなる。
「セ、セイン……いいから、放し……」
「ダメ。
――お前が休むって言うまで、放さない」
その声が、滅多に見せない真剣さを帯びていたから……いつものように、何を馬鹿なことをと叱り飛ばすことが出来ない。
変化。非日常。普段見えない、未知の側面。
そういったものに、ケントは酷く弱くて――それ故に、相棒がごく稀に見せる真剣な態度には、対応が思いつかず混乱させられるばかり。
悔しいけれど……セインの声には、理性すら貫き通して、自分を狂わせる何かがある。
理性で太刀打ちできないものならば――自分に抗う術は無い。
熱のせいだろうか――頭がぼんやりする。
奇妙にざわついた感覚が、背筋や腕のあたりを這っていく。
唐突に、気づいてしまった。
――この声は、彼が自分を抱く時に聞かせるそれと同じだと。
「今日は、もう部屋に戻って休む。解った?」
ダメ押しとばかりに、セインが耳元で囁いてくる。
――まずい、と思った。
これ以上、この声で囁き続けられたら……自分は、どうなってしまうか解らない。
「……わ、解った……そうする……」
不承不承ながら、ケントは頷いた。頷くしかなかった。
このまま受け入れなかったら、おそらくえんえんこの「説得」を続けられるだろう。そうなったら……正直、こちらの心臓の方が保ちそうにないわけで。
「はい、よろしい」
満足そうに微笑むと、セインはようやく腕を解き、親友の身体を解放した。
その笑顔がしてやったりという風に見えて、ケントは思わず紅潮した顔を顰める。
――いまだ速い動悸を打ち続ける胸が、何だか無性に腹立たしかった。
上昇した脈拍と体温を静めようと躍起になるケントの手から、すっと伸ばされてきた指が紙とペンとを取り上げた。
「ま、後のことはこの俺に任せとけって。キアラン副隊長の実力を信じなさい」
掠め取った紙をひらひらと振って見せつつ、口の端を吊り上げたセインは、口調も声もいつも通りの彼で。
「……解った、任せよう。
だが、もし手を抜いたりしようものなら、その時は……解っているな?」
ケントに半眼で見据えられ、セインはどこかひきつった笑いを浮かべて手を振った。
「い、いやだなぁ解ってますってば隊長。ちゃんと真面目にやりますよぉ」
「……その言葉、とりあえずは信用しておく」
一抹どころか束にして背負えるほどの不安が残るが、だからといって今は信じる以外、何が出来るわけでもない。
そもそも、セインはその気になれば何でも出来る男なのだから。
……滅多にやる気にならないだけで。
はあ、とひとつ息を吐き出して、ケントは椅子から立ち上がる。一瞬、立ち眩みがして足元がふらついた。
「大丈夫? 部屋まで連れていこっか?」
目敏くそれを見咎めたセインが、笑みを含んだ声で言ってくるのを「不要だ」と一蹴する。
「何だったら、抱えてってあげてもいいよ?」
「殴られたいか貴様は」
ふざけた物言いをコンマ0秒で斬り捨てると、ケントはふいと顔を背けて戸口へと向かった。その背を追って立ち上がったセインが、いつもの冗談めかした微笑みを浮かべたまま、すっと耳元に唇を寄せてくる。
「――ちゃんと休みなよ?」
「……!」
やや掠れ気味の囁きに、落ち着いたばかりの心臓が再び跳ね上がる。
「――と、とにかく、後は頼んだぞ!」
早口でそう言い置いて、ケントは逃げるように扉を潜ってその場を後にした。
※
城の廊下を自室に向かって歩きながら、青年はどこか途方に暮れたような表情でかぶりを振った。
――駄目だ。
悔しいけれど、あの声にだけは逆らえない。
「……全く……」
胸の底から大きく息を吐き出して、ケントは呆れと苛立ちが入り混じった複雑な呟きを零した。
――正直、あれは反則だと思う。
普段はとことん能天気でふざけてばかりのくせに、いきなりあんな風に真面目な顔で迫ってこられたら……どう反応していいやら解らないではないか。
あの「本気」を欠片でも見せれば、大半の女性は難なく口説けるだろうに。
何だってあの男は、自分にばかりあんな態度を見せるのだろう。
明らかに、活用の仕方が間違っている――才能の浪費というものだ。
そんなことを内心でぶつぶつ言いつつも、ケントには解っていた。
一番悔しいのは――時折見せるセインのそんな一面に、自分がどうしようもなく惹かれているという事実なのだと。
「解ってないね、ケント」
手の中の紙を弄びながら、セインは悪戯な猫を思わせる微笑みで小さく呟いた。
「切り札、ってのはね。
――最後まで取っとくからこそ『切り札』なんだよ?」