王様の耳はロバの耳


 大変だ!
 見ちゃった見ちゃったっ!

 うららかな陽気の午後、ウィルは一人興奮した面持ちで廊下を走っていた。


 今日も今日とて彼は、朝からキアラン騎士として必要な礼儀作法の習得にいそしんでいた。
 この度の内乱を機に、縁あってキアラン侯爵家に仕える騎士となったウィル。その最初の任務は、騎士としてどこに出しても恥ずかしくない作法を身に付けることだった。
 弓の扱いには長けていても、彼はもともと純朴な田舎育ちの青年である。騎士としての振る舞い方など知るよしもない。

 彼に礼儀作法を教える役は、主にケントが担当していた。騎士隊長として忙しい日々を送る彼だが、既知の間柄である人間の方が、ウィルも心理的に楽だろうと配慮した上での人選だ。
 ケントの方も、忙しいからといってウィルの指導を他人に任せることはなく、折を見ては彼に丁寧な講義をしている。厳しさと他人への深い慈愛とを合わせ持つこの先輩騎士を、ウィルは尊敬の念をもって見つめていた。

「ああ、そこはもう少し深く……それくらいだな」
 会釈ひとつするのにも、その角度にまで注意を払わねばならない。騎士って大変な職業だなあ……などと、ウィルは他人事のように思った。
「えっと、こうですか?」
 教えられた通りに一礼して見せる。人の言葉を素直に聞けるためなのか、ウィルは非常に飲み込みが早かった。
「あまり頭を下げすぎてもいけない。角度はこのくらいだろうな」
 傍らにやって来たケントが、角度を微妙に修正する。ケントはウィルよりも上背があるため、やや身を屈める格好だ。

 軽く頭を持ち上げられ、何の気無しにふと横を見た瞬間――
 「それ」は、突然目に飛び込んできた。


(………え?)


 ウィルは思わず自分の目を疑っていた。
 ケントが上体を屈めているせいで、ウィルの目線からは相手の首の辺りが見えている。普段、鎧で隠れている部分がちょうど覗ける角度だ。
 日に当たらないせいか、意外に白い首筋――そこに淡く浮かび上がる陰影は。

(え、まさか、これって……)
 ケントの右耳のやや下あたりに、ちょうど銅貨大の紅い痣のようなものがあった。
 色恋沙汰には疎い部類に入るウィルでも、それが何なのかくらいはさすがに解る。


 そう、キスマーク。


(えええ―――っ!?
 あ、あのケントさんがっっ!?)
 危うく飛び出しそうになった驚愕の叫びを何とか呑み込み、代わりに内心で絶叫するウィル。

 キアランの現騎士隊長は、良くも悪くも若さに似合わぬ堅物として評判だった。
 端正で整った容貌の持ち主であるにも関わらず、今まで浮いた噂のひとつもたったことがない。女性と見れば声をかける相棒騎士とは正反対だ。
色恋沙汰には縁も興味も無さそうな、仕事一筋タイプ――それがウィルを含めた周囲の、ケントという人物に対する共通認識だった。


 その彼が、である。

 他の人間ならいざ知らず、まさかあのケントが、首筋にキスマークなぞつけていようとは。


「よし、上出来だ。……どうかしたのか、ウィル?」
 あまりにも意外すぎるものを目にした衝撃で固まる青年に、ケントが怪訝な表情で訊ねた。その声で我に返ったウィルは、慌てて姿勢を元に戻して首を振る。
「い、いや別に、何でもないんです!」
「……? そうか、ならいいんだが」
 首を傾げつつもそれ以上追及しようとしないケントに、ウィルはひとまず胸を撫で下ろす。


 その後、昼前まで続いた指導の間中、ウィルの頭はそのことでいっぱいだった。





 気分はさながら、王様の耳がロバだったことを知ってしまったおとぎ話の髪切り職人。
 言ってはいけないと解っていても、暴露したい衝動に駆られるのは人間の性だ。

 ウィルは息せき切って修練場に飛び込むと、壁際の長椅子にどさっと座り込む。周囲にいた見習い騎士数人が、そんな彼の様子を怪訝そうに一瞥した。
 喧騒をよそにぼんやり天井を眺めていると、ふと疑問が浮かんでくる。


 あのキスマーク……一体誰が?

(ケントさん、付き合ってる人いたんだなぁ……)
 浮いた噂ひとつ聞かないあの先輩騎士にも、そういう相手がいるのか――ウィルは意外な思いだった。

 しかし、その相手が誰なのかと考えた時、ウィルにはこれという人物は思い当たらない。ケントは基本的に、どんな女性にも礼儀正しく紳士的な態度で接している。それは裏を返せば、どの女性とも踏み込んだ付き合いには無いということだ。
 少なくとも、彼が仕事以外の場面で女性と会話を交わしているところを、ウィルは見たことがなかった。

 この手の話は、解らなければ解らないほど気になるものだ。
 キアラン騎士隊の周辺に居る女性の顔を、片っ端から思い出していたウィルの頭の上から、不意に声が降ってきた。

「何だ何だ? 珍しいなウィル、そんな難しい顔で考え込んだりしちゃって」
 振り仰いだウィルの視界に、悪戯っぽい笑みでこちらを見下ろす青年の姿が映る。

「あ、セインさん……」
 親しくしている先輩騎士の顔を目にして、ウィルの脳裏にある考えが閃いた。

 そうだ、セインさんに訊いてみよう……。

 セインは現在、キアラン騎士隊の副隊長を務める人物で、ケントとは相棒であり親友同士の間柄だ。一番近しい位置に居る彼ならば、ケントの意中の相手についても、何か知っているかも知れない。
 ウィルは心なしか勢い込んで、セインの顔を見上げた。


「セインさん、ちょっと訊きたいことがあるんですけどっ!」
「あ、ああ何?」
 手招きされるまま、腰を屈めてウィルの方に顔を近づけたセインは、やたら気合いの入った様子にやや引きながらも答える。

「ケントさんって、付き合ってる女の人とかいるんですか?」
 声を潜めたウィルの問いに、セインの目がすうっと細くなる。
「さあ? 聞いたこと無いな。まあお堅いアイツのことだから、まずいないとは思うけど。
 ……しかし、何だってそんなこと訊くのさ?」
 微かに変化した声のトーンにも気付かず、ウィルは実はですね、とさらに声をひそめる。
「さっき、ケントさんが首にキスマークつけてたの見ちゃったんですよ。
 あ、これ絶対誰にも内緒ですからね!」
「へぇ? あいつが?」
 さすがに意外だったのか、灰緑の双眸を丸くするセイン。
「見間違いだろ、あいつがそんなんつけてるワケないじゃん」
「でも俺、確かに見たんですよ! あれは絶対そうですって!」
 必死に反論したウィルは、声のトーンを上げ過ぎたことに気付いて慌てて黙り込む。その様子を見ながら、セインは肩をすくめた。
「ま、大方訓練で出来た痣かなんかだろ。あの堅物がそんな……
 って、待てよ……キスマーク……」
 笑いながらウィルの目撃談を否定していたセインだったが、突然何かに思い当たったかのように言葉を切って考え込む。
 沈思黙考すること数秒、その様子を眺めているウィルの前で、次第にその表情から笑いが消えていった。顔色も何やら青ざめてすら見える。
「? セインさん、どうかしたんですか?」
「いやまあ別に、何でもないよ。何でもないんだ、うん。
 ……さってとぉ、そろそろ戻るかなぁ。訓練、訓練っと」
 取ってつけたような台詞を発しつつ、セインが微妙にぎこちない動作でその場を去りかける。と、その背に後ろから声がかかった。

「セイン……」
「ぎくぅっ!」

 電気を浴びたようにびくりと立ち止まり、セインが恐る恐る背後を振り向く。その視線の先には、訓練場の入口から彼を睨みつけている青年の姿があった。
 金赤の髪も鮮やかな青年――キアラン騎士隊長ケントは、ゆっくりとした足取りで訓練場に入ってくると、何やら引きつった表情で固まっている親友の正面に立つ。
「……どこへ行く?」
「いえ、あの、ただいま訓練に戻るところで……」
 低く問われて、セインが愛想笑いなど浮かべつつ答える。
 堅物の騎士隊長が不真面目な副隊長に説教するのは、もはやキアラン騎士隊名物と言われるほど毎度の光景だったが、今日のケントの様子は只事では無かった。わずかに青ざめた端正な容貌はいつもと変わりないが、その身から発せられている空気は凄まじく剣呑で、背中に何やらどす黒いオーラが渦巻いているのが目に見えそうな錯覚すら起こさせる。いつもなら毎度のことと流している周囲の騎士達も、半ば怯えた表情でその光景を遠巻きに眺めていた。

「いえ、あの、さっきまでちょっとばかし休憩中でして。
 ちょうど今から訓練再開しようとしていたところで…………あの、隊長殿…………?」
「……セイン、ちょっと来い」
「……は……はひ……」
 普段はどんなに叱り飛ばされようが、へらへら笑って受け流すはずのセインだったが、ケントの背後に揺らめく黒いオーラを感じ取っているのか、随分と大人しかった。得意の舌先三寸もろくに使えず、愛想笑いも引きつっている。
 常ならば上手く煙に巻いて逃げおおせていただろうが、この時ばかりはケントの命令にかくかく首を縦に振るしかないセインだった。キアランの騎士達にとって、極めて珍しい光景ではある。
 ……もっとも、今のケントを前にしては、騎士隊の誰もが同じ行動を取るだろうが。


 問答無用で歩き出すケントと、半分涙目で引きずられていくセインの姿が、訓練場の出口へと消えていく。
 その後ろ姿を見送って、ウィルはぽつりと呟いた。

「……ケントさんって、セインさんと付き合ってるのかなあ」
 まさかね、とウィルは独りごちてその想像を否定する。

「本当、誰なんだろうなあ。ケントさんの相手って」
 壁にもたれ、うーんと考え込むウィルの耳に、その時遠くから微かに叫び声が聞こえてきた……ような気がした。



 ――誰より真実に近い場所にいる青年が、そのことに気付くのはまだまだずうっと先のお話。


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銅貨大はさすがにデカすぎるでしょう?



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