farewell


「ごめんなさい」

 大事な話がある、と呼ばれた部屋で、開口一番告げられた台詞。


「私には、キアランの爵位を継ぐことは出来なかった」


 主君の言葉に、ああやはりと納得する自分が居た。
 薄々は感じていた。彼女は、生まれ育った草原へ帰りたいのだと。


 世界の存亡を賭けた戦いを経たリンディス達が、キアランへ帰還して半年後。
 彼女の祖父であるキアラン候は、孫娘に看取られながら静かに息を引き取った。
 国を挙げての葬儀を終え、諸々の事後処理も片付いてようやく落ち着いてきたかと思った今日、リンディスは傍近く仕えてきた騎士二人を突然呼び出した。そして、自身の決断を彼らに告げたのである。

「キアラン騎士隊長、ケント。並びに副騎士隊長、セイン。
 両名を、本日をもって現在の職位から解任します」
 凛と張った声で、彼らの主君たる少女が告げる。
 16歳という若さで、ひとつの国の行く末をその肩に負ってきた少女は、それでも疲れや後悔の色は見せていなかった。

「――了解致しました」
 震えそうになる声を、懸命に抑えてケントは答えた。
 騎士にとって、主君の命令は絶対――たとえそれが自身の望みとは異なっていたとしても、この主の決めたことならば黙って従うつもりだった。
 その決定が、己が故郷の事実上の消滅を意味していたとしても――。

「右に同じく。
 リンディス様の決められたことならば、俺達はそれに従いますよ」
 笑顔でそう答えた傍らの親友は、普段と全く変わりないように見える。
 そんな彼が心強くもあり……逆に少しだけ、不安でもあって。

 静かに頷いた主君は、再び傍らの寝台に腰を下ろした。
 彼女が宣告の場所を、かつてキアラン候の居室であったこの部屋に定めたのは、思うところあってのことだろう。
 キアラン候が健在であった頃、彼女と彼と自分とで、主君を囲んで笑い合った――今となっては遠く過ぎ去った、もう二度とは戻らない時間。

「……後のことは、オスティアに委ねることになるでしょう。
 この地に留まるか、離れて他の国へ行くか――全て、貴方達の自由」


 自由――その言葉が、胸に重く響いた。


「そのような……私は、キアラン侯爵家に誓いを捧げた騎士です。
 その事実は、これからも生涯変わることはありません」
 頭を垂れたままケントが言えば、セインも続いて口を開く。
「まあ、これからのことはまだ全然考えてないですけどね。
 しかし不肖セイン、この世で忠誠を捧げるのはリンディス様ただお一人と決めております。その誓いを翻すような真似は、天地神明に誓って致しませんとも!」
 冗談めかした口調だったが、その灰緑の双眸は笑っていなかった。

 そんな二人の様子に、厳しかったリンディスの表情がふっと緩む。
「ケント、セイン……本当にありがとう。
 貴方達に出会っていなければ、お祖父様と再会することも出来なかったし、きっと今の私も無かった。
 何も知らない私がここまでやってこれたのも、二人がいてくれたおかげ。心から感謝しているわ」
 感謝と謝罪の念が、幼さの残る面に交錯する。キアランという国を存続させてやれなかったことに対し、申し訳ないと感じているのだろう。それは、未だ16歳の少女には重過ぎる選択だった。
「勿体無いお言葉にございます」
「光栄至極です」
 異口同音に言って、二人が頭を垂れる。
 跪いていた彼らに立つよう促すと、リンディスは自らも立ち上がって最も信頼していた部下に歩み寄った。そして少し爪先立ちをして、二人の頬に親愛の情を込め軽く唇を寄せる。

 一瞬掠めた髪の香りに、ケントの心臓が震えた。
 ――かつて一度、彼が恋心と呼べる感情を抱いていたことを、彼女は知らない。


 二人の騎士から数歩離れて、リンディスはどこか泣いているような笑顔で微笑んだ。

「ケント、セイン。
 貴方達に、母なる大地と父なる天の祝福がありますように――」



 ケント達が主君に決意を伝えられた日から、一月が経った。

 それまでと何ら変わりなく、そこそこに多忙な日々は過ぎていき――キアランのあらゆる権限をオスティアへ委譲する手続きも、ほぼ全てが完了した。
 現在は業務も一段落して、キアラン城内には静かな時間が流れている。


 何も変わらない、平和そのものの街。
 ――この国が無くなってしまう瞬間は、着実に迫っているというのに。


 自室の窓から、ケントは見るでもなく外の景色を眺めていた。
 ぼんやりと琥珀の双眸を瞬いているその姿は、常の彼にはついぞ見られないほど無防備なもので。

 明日、国としてのキアランは地図上から姿を消す。
 キアランという土地そのものが無くなる訳ではなく、住んでいる人も街並みも何ら変わることが無い。ただ、その地を治める者が交代するというだけの話。
 そこで生活している市民達にとっては、自分達を苦しめない為政者であるならば、特に劇的な変化があるわけでもない。ひっそりと昔を偲ぶ思いに浸った後、また日々の生活に戻っていくだろう。


 けれど。

 ケントのような騎士達にとって、それはかつてないほど大きな衝撃だった。
 自身が永遠の忠誠を誓った主家が消滅し、別の侯爵家へと変わる――それは、騎士達からすればどれほど大変な事態であることか。

 今回のキアランのように、仕える主家が何らかの事情で消滅でもしない限りは、騎士は一度決めた主君を替えることは無いと言っていい。だからこそ、主君自ら解雇を言い渡され、その後の身の振り方は自由にして構わぬと言われれば、騎士達が戸惑うのも当然のことだった。
 そしてそれは、異例の若さで騎士隊長を務め、とりわけ忠誠厚かったケントの身をも襲っていた。


 空を見上げた瞳が、青の中を横切る鳥の姿を捉える。
 風に乗り、どこまでも広がる空を羽ばたく翼。


 自由。

 主君に言われた言葉が、再び脳裏に蘇る。


 そう、明日からは自由だ。
 望むならば、どこへだって行ける。


「自由、か……」
 独りごちて、ケントはゆっくりとかぶりを振った。


 ――きっと、どこへも行けはしない。

 最初から解っていたことだった。
 例え主を失っても、自分はキアラン家に仕える騎士だ。この国を出て他の仕官先を探すなど、やはり考えられない。
 それに、国としての形は無くしても、このキアランは自身が生まれ育った大切な故郷だ。
 自分は決して器用な人間ではない。騎士として故郷のために尽くす以外、どうやって生きる道があろう?

 名誉ある地位など無くていい。ごく普通の一騎士として、ただ故郷の地を守っていきたい――
 それが、自分の望み。


 その時、カチャリとドアノブの回る音がした。
 首を巡らせたケントの目に、部屋に入ってくる見慣れたシルエットが映る。

「よ、ケント。暇そうだな?」
「……ノックくらいしろ」
 悪びれない笑顔に、溜息混じりにそう告げて再び窓へと視線を戻す。いつになく素っ気無い親友の態度に、セインは肩をすくめながら窓際へと歩み寄った。

 窓枠にもたれるようにして外を見ているケントを一瞥すると、セインはおもむろに窓に手を掛けて開け放った。
「空気悪いよココ。どうせ外見るんなら窓開ければいいのに」
 吹き込んできた爽やかな風に、彼の癖のある髪が柔らかく流れる。無言のままそれを目で追っていたケントの脳裏に、一月前からずっと反芻していた疑問がまた蘇ってきた。

 ――セインは、この先どうするつもりなのだろうか。

 元々、この風のように奔放な性格の男だ。自分とは反対に、自由という言葉が過ぎるほどに似合っている。
 器用な彼なら、どこへ行っても上手く生きていけるだろう。そもそもが、騎士として一つ処に仕えている方不自然に思える男だったから。
 窓から吹き込んできた風に乗って、今にも何処かへ消えてしまいそうな気さえする――漠然とした不安が、ケントの胸に去来した。


「――ケント?」
 名を呼ばれ、はっと我に帰る。
 視線の先には、不思議そうな色を浮かべた灰緑の双眸があった。

「あ……すまない」
 ずっと相手の方を見つめていたことに今更ながら気づき、ケントはきまり悪げに目を伏せた。
「何で謝んのさ」
 くすくすと笑う声に、ますます身の縮む思いがする。


「綺麗だな、この街は」
 眼下に広がる景色に視線を転じ、セインが呟く。その横顔は、いつも賑やかに騒ぎ回っている男とは別人のように静謐に見えた。
 つられて外を見たケントも、琥珀の双眸を細めて同意する。
「――ああ」
 この部屋から見える街の景色が、自分は好きだった。
 若葉の香りが、鼻の奥につんと沁みる。

 ――目に入る光景全てに感傷的になってしまうのは、別れが迫っているからだろうか。


 窓枠に置いていた右手に、すっと他者の体温が重なる。
 そのまま手を取られ、引き寄せられて捕まった。

 抵抗もせずその腕の中に収まれば、言いようの無い安らぎを確かに感じる。
 開け放した窓から誰かに見られるかも知れない、という不安も、この時だけは忘れることにした。


「――やっぱ、寂しい?」
 間近にあるセインの顔が、ケントのそれを覗き込んでくる。
 不思議な愛嬌を感じさせる灰緑の双眸は、想像に反して存外真面目だった。

「そんなに悲しそうなお前の顔、久々に見た」
 背中に回っていた手の片方が離れると同時に、綺麗な指先が頬を滑る感触。
 その温もりに促されるように、ケントは口を開いた。

「……私は、騎士として生きる術しか知らない」
 聞き取れるか聞き取れないかくらいの音量で呟き、ケントは静かに目を閉じる。

「解らないんだ。……これから、自分がどうすべきなのかが」
 それは誰にも言えなかった、しかし紛れもない本音だった。
 戸惑うかつての部下達の前では、決して表に出すことは無かったけれども――この、国の消滅という事態に最も動揺し、途方に暮れているのは彼自身だったのだ。 


「セイン、私は……」
 どうすれば良いのだろう――?


 声にならない問いかけを呑み込んだケントの髪を、優しい指がさらさらと梳く。
 抱きしめた身体から香る、乾いた風と太陽の匂い。
 懐かしい、とケントは思う。
 少年の頃から傍らにいた親友は、いつも晴れた日の草原を思わせる風を纏っていた。
 どこまでも続く空のように、自由を感じさせてくれるその空気が好きだった――それは、自分が決して持ち得ないものであると知っていたから。

「ふふ、何か嬉しいな」
「何が……?」
 怪訝そうなケントの耳元で、セインがくすくす笑いながら囁く。
「お前がそんな風に弱味見せてくれるのが、さ。
 不謹慎かもだけど、すっごく嬉しい」
「――何だ、それは」
 険しくなった琥珀の双眸に、セインが悪い悪いと笑いながら謝る。


「心配することないって。なるようになるさ。
 ――お前には、俺が居るだろ?」

 身体に直接響いた言葉に、一瞬息が止まる。
 身を離して正面から見つめた彼は、穏やかな表情で笑っていた。


「お前が何処かへ行きたいって言うなら、一緒に行く。
 ここに残りたいって言うんなら、一緒に残る。
 この先何がどうなっても、俺はずっとお前の隣に居る。嫌だって言っても、聞かないからね?」


 この男は狡い――ケントは思う。

 普段は不真面目でふざけた発言ばかりしているくせに、自分が弱気になっている時に限って、欲しい言葉を的確に与えてくれるのだ。
 そしてまた一歩、彼に惹かれていく自分を自覚する。

 悔しいけれど、否定できない事実。
 ――この男に、自分は囚われている。


「セイン」
 呼びかけると、ん?と不思議そうに見つめてくる灰緑の瞳。
 それを真っ直ぐに見据え、ケントは口を開く。

「私は未熟だから、きっとこれからも迷惑をかけると思う。
 それでも――私と共に居てくれるか?」
「もちろん」
 打てば響くように、即座に返事が返ってくる。
「俺でなくて、誰がお前の相棒を務めるっていうのさ?」

「セイン……」
 ケントは琥珀の双眸を柔らかく細めると、今度は自分から親友の方に身を寄せた。
 腕を伸ばして相手の背中に回しながら、耳元でそっと囁く。


「――お前が居てくれて、良かった」


 返事の代わりに、唇に温かさが降りてきた。
 風が掠めるような、一瞬触れるだけの口接け。


「これくらいにしとかないと、本気でこのまま押し倒しかねないからね」
 あんまり可愛いこと言うもんじゃないよ、と笑うセインの言葉に、思わずケントの頬に血が上る。
「な、何を言って……」
 どれほど時が経とうとも、こと恋愛に対する不器用さは変わらない。そんな青年を笑いながら見ているセインの瞳は、他者にはついぞ見せない愛おしさに満ちていた。

「なあケント。
 区切りがついたらさ、二人で旅に出るってのはどうかな?」
「旅、か?」
 唐突な提案に、ケントが琥珀の双眸を瞬く。
「そ。使命も任務も関係なく、ただの一般人としていろんな土地を見て回るんだよ。
 そういうのも、結構面白そうじゃないか?」
「……そうだな」
 それもいいかも知れない、とケントは思った。
 騎士としてではなく、単なる旅人として、無目的に世界を回ってみる――それもまた、ひとつの生き方。
 昔の自分であったなら、決してこんな気持ちにはならなかっただろう。ケントは自身の中の明らかな変化を感じ取り、同時にそれが誰によってもたらされたものであるかも悟っていた。

「でさ、旅に飽きたら、また二人でキアランに戻ってくればいい。
 騎士で無くたっていい、どうとだって暮らしていけるさ。そうだろ?」
 楽観的過ぎると言えば、それまでの台詞。
 それでも、今までどれほどその明るさに救われてきただろう。
 心を侵食しようとする闇すらも、呑み込んで消してしまうその光。

 それはセインという青年が持つ、生命の強さそのものだった。
 その輝きに、自分はどうしようもなく惹かれ、焦がれているのだと――今更ながらに気づく。


「ああ……そうだな」


 彼と共に、自分にとっての自由の意味を探しに行く。
 そんな日々も――悪くない。



 キアランの街に吹く風は、今日も変わらず穏やかだった。


 去っていく人の背中が、視界の中で次第に小さくなってゆく。
 ――また、いつか会える日が来るだろうか。


 目を細めてそれを見送っていたケントの肩に、ぽんと手が置かれる。
 振り向けば、すぐ傍で灰緑の瞳が笑っていた。

「ケント、行こっか」
「ああ」

 微笑みながら頷いて、ケントは歩き出す親友と肩を並べた。
 一瞬強く吹いた風が、彼の金赤の髪を揺らして過ぎる。



 今日からは、自由。

 どこへだって行ける。
 どこまでだって行ける。

 そう――お前と共になら。


 並んで歩き出す二人の頭上で、一羽の白い鳥が蒼穹を背に高く羽ばたいていった。


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ずっと書きたかったキアラン最後の日。
EDでセインは何故ケントを連れていかなかったのかと未だに小一時間ほど問い詰めたい。



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