祭りのあと


『——願わくば、今日の祭りの灯が、旅人の記憶に永く燈り続けんことを』


 かつて、山崩れから璃月の人々を救ったと伝えられる仙人。その姿を象った巨大な提灯が、空へと放たれる。
 満場の来客が見守る中、夜空を駆けてゆく蒼碧の鹿を、色とりどりの花火が祝福するように彩った。

 璃月最大の祭典、海灯祭。明霄の灯は無事飛び立ち、もって祭りはフィナーレを迎えた。
 先立って、璃月は神の治世からの脱却という大きな変化に見舞われた。3700年もの間、璃月を統治してきた岩王帝君が去り、人の手で治める時代が新たにやってきたのだ。
 神が去って初めての祭り——人による、人のための未来への門出。今回の海灯祭は、図らずも璃月の人々にとって特別な意味を持つものとなり、祭りがつつがなく終幕を迎えられることに、集まった人は皆安堵の表情を浮かべていた。

 未だ賑わい冷めやらぬ街中を、旅人は人混みをすり抜けながら歩いていた。編んで束ねた金の髪が、提灯の明かりに照らされ鮮やかな軌跡を描く。
 璃月滞在中に知り合った者達とも、そこかしこで行き合った。重雲と行秋は人通りの少ない場所で屋台料理を楽しみ、香菱は万民堂の客を相手に八面六臂の大活躍。港の催事場で自慢の音楽を披露する辛炎を眺めていたら、お忍びで来ていた刻晴に肩を叩かれた。緋雲の丘の目抜き通りを歩けば、北国銀行脇の欄干に腰掛けたタルタリヤが手を振る。
 直接見かけることはなかったが、日頃は業務に追われている凝光や甘雨もきっと、手を休めてこの光景を眺めているのだろう。

「……空? さっきからキョロキョロしてどうしたんだ?」
 人混みの中、何かを探すように視線を巡らせながら歩く相棒に、パイモンが声をかける。
「うん……」
 曖昧に生返事を返す様子から、何かを気にしていることは明らかだった。
「何だよ、元気ないな! 何か買い逃した料理でもあったのか?」
「あはは……パイモンじゃあるまいし」
 苦笑しながら、空は背後に広がる璃月の港を振り返った。人々の願いを載せて飛ぶ無数の霄灯が、夜空を覆わんばかりの光の群れとなって宵闇を照らす。幻想的な光景に目を奪われながら、それでも心に引っかかっているのは。
「——鍾離先生、いないね」
 そう。
 彼の姿を、見ていない。
 璃月が神の庇護下から脱し、新たな道を歩み始めたことを誰よりも喜び寿いでいるはずの彼が、この祭りの中に居ない。
「鍾離? そういえば見てないな。どっかの店で酒でも飲んでるんじゃないか〜?」
 パイモンが呑気な予想を述べる。そうかも知れない、と空も思ったが、胸のつかえは取れなかった。
「気になるなら、往生堂に行ってみるか?」
 パイモンの提案で往生堂へ向かったが、建物には灯も無ければ人の気配も無かった。
 祭りにも関わらず、仕事で遠出しているのだろうか。パイモンの言うように、どこかの店に居るのだろうか?
 あるいは、もしかしたら——。
「空、そろそろ行こうぜ。今夜は香菱が特別メニューを作ってくれるんだろ! 楽しみだな〜!」
 うずうずと身体を揺らすパイモンを振り返り、空が告げる。
「ごめん、パイモン。やっぱり気になるから。先に万民堂へ行ってて!」
「あっ、おい! どこ行くんだよ空!?」
 小さな相棒の声を背に受けながら、少年は駆け出した。



 璃月港を一望できる、天衡山の頂近く。
 空の予想通り、果たして彼はそこで独り佇んでいた。

「やっぱり、ここにいた」
 背後からかけられた声に、青年は振り向き——歩み寄ってくる少年の姿に軽く瞠目する。
「どうした、空。祭りを見ていたのではなかったのか」
「もう十分見て回ったよ。明霄の灯……だっけ? あれが飛ぶところも見られたし」
 空は青年の傍らに立ち、その長身を見上げる。
「先生を探してたんだ。
 往生堂にも居ないし、街を回っても見かけなかったから、多分ここかなって」
「……よく分かったな」
 苦笑する彼の表情に、どこか嬉しそうな色が垣間見えた気がしたのは、空の願望に過ぎなかったろうか。

 祭りに沸く街の喧騒も、この場所までは届かない。宝石をばら撒いたような夜景だけが、音もなく眼下に広がる。
 夜、彼が時折ここで璃月港を見下ろしていることを、少年は知っていた。
 自身が一から創り、育て上げた地。過去の発展を、今日の栄華を、この最古の神はこうしてずっと見守ってきたのだろう。
 神の座を返上し、凡人の「鍾離」となってすら、彼はこうして同じ場所で、同じ視点で璃月を眺めている。めでたき祭りの日に、まるで民から一線を引くように。
 もうその必要は無いのだと、空は伝えたかった。もはや貴方は神ではなく、信仰を捧げられる側ではない。だから、祭りを共に楽しんでもいいのだと。

 けれど、上手く言葉に出来そうになかったから。
 代わりに旅人は、こうして青年の傍らに並び立つ。

「……そういえば、魈のことを随分と気にかけてくれたようだな。俺からも礼を言う」
 心地良い沈黙を破ったのは、鍾離の方だった。
「彼にはこれまで負担をかけてきた。願わくば、契約の終了を機に、自由に生きてくれればと思ってはいるのだが……」
 そう簡単にはいかないようだ、と。金の双眸が、遠く水平線を見つめる。
「まあ、これからどう生きるかは本人が決めることだ。
 お前さえ良ければ……今後も、魈の力になってやって欲しい」
 その頼みにもちろん、と頷いた後、空は可笑しそうに笑い出した。
「凡人になったっていうのに、そうやって他の人の心配ばかりするんだね、先生は」
 神様を辞めたんだから、もっと自分のことを考えたっていいのに。思ったことを正直に告げれば、石珀の瞳が当惑の眼差しで見下ろしてきた。
「いや、俺としては十分自儘に振る舞っているつもりなんだが……」
 腑に落ちないと言いたげな表情で、鍾離が首を捻る。その様子がおかしくて、旅人はまた笑った。どうやら、この青年が凡人の生活に慣れるには、まだしばらく時間がかかりそうだ、と。

「そういえば先生、霄灯は飛ばした?」
「ああ……。霄灯に願いを書いて飛ばす、海灯祭の風習だな。しかし」
「『忘れていた』?」
 続く台詞を先読みして、空がくすくすと笑う。どこか決まり悪げにうむ、と唸るその様子からして、どうやら図星だったらしい。
「ずっと、願いを聞く側だったからな。自分で願を掛けるという発想が無かった」
「そんなことだろうと思った。はい」
 空が差し出した手には、小振りな霄灯がひとつ。
「俺が作ったので良ければ、どうぞ」
「一番簡単なやつだし、先生の方がずっと上手く作れるだろうけど……」
 照れたように笑う少年に、鍾離はいや、とかぶりを振ってみせた。
「良く出来ている。有り難く使わせてもらうとしよう」
「じゃあ、俺も一緒に。ずっと手伝いや露店巡りに駆け回ってて、飛ばし損ねてたんだよね」
 空は自分のぶんの霄灯を取り出し、願いを書き入れるために屈み込んだ。しばし、辺りに静寂が落ちる。
「よし、出来た。先生は?」
 少年が顔を上げた時には、既に鍾離は書き終えた後だった。もう少し悩むかと思ってたんだけどな、と空は意外な心持ちで立ち上がる。

 二人並んで、それぞれの霄灯を放つ。ふわりと舞い上がったそれらは、夜風に乗ってゆっくりと海の方へ流れていく。やがて、港の上空を彩る光の群れに合流するのだろう。
 しばし無言のまま、ふたつの霄灯を見送って。
 行こう、と空は傍らの腕を取った。祭りはまだ終わっていない。祝祭に沸く街の中、この不器用な元・神様を連れ回す時間くらいはあるはずだ。

「まずは、万民堂で腹拵えだね」
 歩き出した空が、そう言えば、と思い出したように問う。
「先生は、霄灯に何て書いたの?」
「人に知られると叶わない、と言うだろう?」
 だから秘密だ。そう言って、青年は悪戯っぽく微笑んだ。


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