おせっかいな旧友


 1

「おや、旅人じゃないか」
 ざわめく葉陰から、陽気な声と竪琴の音が降ってくる。
 風立ちの地に根を下ろす大樹——モンドの「英雄の象徴」の根元に立ち、金髪の少年は驚いた様子もなく頭上を振り仰いだ。
「こんにちは、ウェンティ」
 視線の先、大樹の枝に腰掛けていた小柄な影が、返事よりも先にふわりと下りてくる。

「久しぶりだね。璃月はどうだった? 岩神には会えたかい?」
 愛用のライアーを片手に、ウェンティは好奇心に満ちた瞳を旅人へと向けた。このつかみ所の無い吟遊詩人が、モンドで信仰される風神バルバトスその人であることを知る者は少ない。
 璃月へ行けと助言をくれた当人に対し、空はかの国での出来事を語って聞かせた。迎仙儀式に端を発した、一連の事件の顛末を。

「——へえ、なるほどね」
 話を聞き終えたウェンティは、やや大仰な仕草で肩をすくめる。
「いやぁ、驚きだよ。あの頑固な爺さんが、まさか人間として生きることを選ぶだなんて」
 口ではそう言いながらも、その顔はさほど意外そうには見えない。同じ七神の一柱として、こうなることを薄々予見していたのかもしれないと、空は思った。
「もうしばらく会ってないし、どんな風に過ごしてるのか見に行ってみるのもいいかな」
 いたずらっぽく微笑む彼に、一瞬間を置いて空が問いかける。
「ウェンティは、鍾離先生……モラクスと仲が良かったの?」
 翡翠の瞳をひとつ瞬いて、詩人はうーんと首をひねった。
「まあ、悪くはなかったかな? 昔は璃月にもちょくちょく遊びに行ってたし」
 とは言え、と。幼さの残る顔が苦笑する。
「あの堅物ときたら、とにかく冗談が通じなくてさ。ぶっ飛ばされそうになったことも一度や二度じゃないよ」
「そ、そうなんだ」
 蜂蜜色の双眸に当惑を浮かべ、空はあいまいに頷く。ウェンティの語る「岩神」は、彼自身が知る鍾離の印象とはおよそ結びつかないものだった。

 ——かつて、璃月の神として在った頃の彼を、空は知らない。
 出会った時から、その人は既に「鍾離」という名の凡人だった。岩王帝君と呼ばれていた時代、彼は一体どんな顔を見せていたのだろうか。

「ウェンティ」
「うん?」
「良かったら、昔の話を聞かせてくれないかな。璃月へ行った時のこととか」
「ふぅん……?」
 旅人の申し出に、詩人はわずかに首を傾げた。意味ありげな一瞥を投げた後、軽くうなずく。
「ま、いいよ。ボクもちょうど暇してたしね」
 そう請け合って、ひょいと左手を差し出すウェンティ。その意図を察した空は苦笑しつつ、鞄からつややかに熟れたリンゴを取り出した。



「んー、今日はあまり収穫なかったなあ」
 手すさびに竪琴の弦を弾きながら、緑の詩人がぼやく。
 今日も今日とて、彼はモンド城で自慢の詩を披露して回ったのだが、実入りは芳しくなかった。かろうじて入手できた一本の酒瓶を、愛おしそうに眺める。

「ウェンティ」
 下から呼ぶ声がして、詩人は視線を落とした。予想通り、金髪の少年がこちらを見上げている。
「やあ、旅人」
 ウェンティが手招きすると、少年は軽々と樹上まで登ってきた。危なげなく枝を渡り、彼の傍らに腰を下ろす。
「最近はよく訪ねてきてくれるね。また昔の話を聞きたいのかい?」
 正確に言えば「モラクス」の話を、かな——詩人は声に出さず付け加える。
「うん。ウェンティが良ければ」
「いいよ。じゃ、今日は何を語ろうかな……」
 ライアーをひとつ鳴らして、詩人は懐かしい記憶をたどった。

 ウェンティの話が一段落したところで、旅人がふと思い出したように口を開いた。
「そう言えば、訊きたいことがあるんだけど」
「何だい?」
「この前、鍾離先生に好物を訊いたんだ。
 そうしたら、昔に友人と飲んだ酒だけど、今はもう気候が変わったから、同じ味のものは無いって言ってた」
 ウェンティなら知ってるかと思って、と問われ、詩人はふむと考え込む。
「昔の酒、ねぇ。心当たりはなくもないけど」
「それ、手に入れる方法はある?」
 さらに食い下がってくる相手を、ウェンティは翡翠の瞳を細め、小首を傾げてまじまじと見つめた。

「ねえ、君はモラクス——今は鍾離だっけ、彼のことをどう思ってるの?」
 不意の質問に、旅人が虚を突かれた表情で目を瞬く。
「どうって……」
「ずいぶんと彼に興味があるみたいじゃないか。ねえ?」
 しゃく、と旅人からせしめたリンゴをかじって、ウェンティはにっこりと意味ありげに微笑む。
「妹を探すために、七神は現状一番大きな手がかりだから。少しでも情報が欲しい」
「ふぅん……その割に、訊いてくるのは岩神のことばっかりじゃない?」
「別に、そんなことないけど」
 冷静に肩をすくめて否定する態度も、年若い外見と不釣り合いに達観した雰囲気も、至っていつも通りの旅人で。

 しかしウェンティは、彼のまとう風から、ほんのわずかに動揺の気配を読み取っていた。おやおやこれは、と内心でほくそ笑む。
(もしかして、大当たりかな?)
 彼は七神の情報が欲しいだけだと言うが、それなら相手の好物を調達する方法なんて訊く必要はないだろうに。
 これは面白いことになりそうだ——自由を愛する風神は、迷わずその直感に従うことを選んだ。

「よし、決めた!
 久々に、あの石頭を冷やかしに行こうじゃないか」
 一緒に来てくれるよね、と言わんばかりの口調に、旅人が目を丸くする。
「え?」
「というわけで、セッティングはまかせたよ」
「ちょ、ちょっと」
 いきなりそう言われてもと戸惑う少年に、詩人はとっておきの秘密を明かすように声をひそめた。
「実は、この樹の下に秘蔵のお酒を埋めてあるんだ。それを手土産にするのはどうかな?」
 彼の言わんとするところに、空はすぐ気づいたようだった。
「それって……」
「まあ、そろそろ顔出そうかと思ってたし、ちょうどいいかなって」
 探るような視線を受けて、ウェンティは人好きのする笑みを返した。そして、ぼそりと小声で付け加える。
「それに、面白いものも見られそうだしね」
「何か言った?」
「ううん、こっちの話」
 訝しげな旅人に、どこまでも自由な吟遊詩人はすました顔でそう返した。


 2

 水平線へと沈み始めた夕陽が、朱塗りの街並みをさらに赤く染め上げる。
 仕事を終え帰路につく者、仲間とともに食事へ向かう者——夕刻の璃月港は、昼間とはまた違う喧騒に満ちていた。
 大通りの雑踏を避け、街外れに近い一画で佇んでいた旅人は、通りの向こうに待ち人の姿を見つけて手を振る。

「早いな。待たせてしまったか」
 足早に歩み寄ってきた長身の青年は、相手が先に来ているとは思わなかったのか、わずかに驚いた顔をしていた。
「大丈夫、そんなに待ってないから」
 実際、待ち合わせの時間よりもだいぶ早く到着していたのだが、そのことはおくびにも出さず、空は気にしないでと笑ってみせる。
「パイモンは一緒じゃないのか。珍しいな」
「うん。えーと、昼間にちょっと食べ過ぎちゃったみたいで。先に宿で休んでる」
 空の返答に、鍾離は意外そうな表情を浮かべるも、それ以上何か追及してくることはなかった。
「計画」のためとはいえ、自身に内緒で美味しい食事にありついていたと知ったら、彼女は怒るだろうな、と少々罪悪感を覚える旅人である。

「では、行こう」
 今日は料理屋ではなく、青年の自宅で夕食を振る舞ってもらう予定になっていた。先に立って歩き出そうとする背中を、少年の声が引き止める。
「実は……その」
「どうした?」
 訝しげな顔で足を止める青年に、どこか気まずそうな表情で旅人が告げた。
「今日は、俺だけじゃなくて」
「?」
 歯切れの悪い回答に、鍾離が首を傾げた時。

「はいはーい、特別ゲストのご登場だよ!」
 底抜けに陽気な声とともに、旅人の背後にある建物の影から、小柄な人影がひょいと顔を出した。その人物を見て、金の双眸が驚きに見開かれる。

「お前……!?」
 バルバトス、と。
 唇だけが動き、その真名をつづる。

「久しぶりだね。へえ、それが今の姿なんだ」
 なかなか様になってるじゃないかと、けらけら笑う旧友を前に、鍾離の表情は次第に驚きから呆れへと変わってゆく。
「……起きていたのか。まだ寝こけているものと思っていたが」
「ちょっと、久々の再会にしてはずいぶんなご挨拶じゃないかい?」
 そう言いながら、ウェンティこと風神バルバトスは、腰に手を当て眼前の長身を見上げた。

「それで、何をしに来た」
「君が人間になったって聞いたからさ。見物がてら、久々に顔を出そうかなって」
 はあ、とため息をつき、鍾離が腕を組む。眉間にくっきりと縦じわを刻んだ彼に、成り行きを見守っていた空が若干すまなそうに声をかけた。
「事前に知らせなくて、ごめん」
「いや……お前のせいではない」
 大方これに言い含められたのだろう? と、呆れの色を宿した黄金の瞳が詩人を指す。「これ」とは何だよ! という抗議の声を黙殺して、鍾離はため息とともにかぶりを振った。
「ここで騒いでいても仕方ない。行くぞ」
 旅人にそう促して、青年がさっさと歩き出す。
「ちょっとぉ、置いてかないでよ!」
 唇を尖らせつつ追いかける吟遊詩人と、そんな二者を交互に見ながら困惑半分、苦笑半分の旅人がその後に続いた。



「ふぅん、ここが今の住まいなんだ」
 璃月港の郊外。静かな邸宅の客間に、一人の客人と闖入者一名が招き入れられた。
 いい処じゃないか、と物珍しげに周囲を見回す詩人に、家主の青年は冷えた視線を送る。
「お前を招いた覚えはないんだがな?」
「旅人は一緒に行こうって言ってくれたもんねー。
 ほら、ちゃんとお土産も持ってきてあげたんだから」
 自慢げに胸を張り、ウェンティはどこからか小ぶりなボトルを取り出した。持ち主の瞳に似た、深い翡翠色のガラス瓶を目にして、ずっと渋かった鍾離の表情がわずかに動く。

「……それは」
 細められた金の瞳は、どこか懐かしげに酒瓶を見ていた。その表情を、旅人が横目でうかがっていることにも気づかずに。
「ボク秘蔵のお酒。とっておきなんだから」
 あとは、これに合う肴があればいいんだけどなぁ。
 悪びれもせず笑うウェンティに、青年は諦めたように息を吐き、右手で奥のテーブルを示す。
「準備ができるまで、大人しく座って待っていろ」
「俺も手伝うよ」
 別室へと消える鍾離を、旅人が追いかける。両者の背中を見送って、詩人はひとり悠々と椅子に腰を下ろした。


 やがて、青年がなじみの小料理屋から取り寄せた料理の数々が卓上に並んだ。
 最後に食卓へ置かれた、黒い陶製の鍋。ふたが開けられた瞬間、湯気とともに食欲を刺激する芳香が辺りに漂う。
「すごくいい香り」
「やはり、お前にはわかるか」
 鼻をひくつかせる少年に、鍾離は流石だなと微笑む。
「新鮮な素材に、時間をかけてじっくり火を通した。味は保証する」
「これ、先生が作ったの?」
 空の問いに、まあな、と青年は鷹揚にうなずいた。意外だと口にしかけた感想を、寸前で飲み込む。彼がそれを聞けば、料理も出来ないと思ったのか、などとへそを曲げかねない気がしたからだ。

「おおー、美味しそう! ではさっそく……」
 いそいそと手を伸ばすウェンティ。しかしその手が届くよりも、鍾離が鍋を取り上げる方が早かった。
「お前は駄目だ」
「なんでさ!?」
「決まっている。味も風情もわからない酔っ払いに相伴させるつもりはない」
「ひっどーい! 風神差別! 旅人、何とか言ってやってよ!」
 二者の応酬を苦笑交じりに眺めていた空が、ウェンティの訴えを受けて口を挟む。
「先生、せっかくの料理が冷めちゃうよ」
 歓談は食べながらにしよう、と取りなす少年に、鍾離は渋々ながらも素直にうなずいた。
「さっすが旅人! どこかの頑固爺さんにも見習ってもらいたいよね」
「……口の減らない」
 遠慮のない皮肉と悪態でやり合うその様は、どこか気安くもあって。

「仲がいいんだね」
「ただの腐れ縁だ」
 眉をしかめて即答する鍾離と、ただ微笑んでいるウェンティと。
 対照的な両者の反応を交互に見比べて、空は面白そうに笑った。


 軽い音をたてて、コルク栓が引き抜かれる。
 とくとくとグラスに注がれる液体は、透き通った美しい琥珀色。自身の瞳の色にも似たその酒を目にして、鍾離の表情が心なしか柔らかくなる。
 卓上にある三つのグラスのうち、二つが酒で満たされた。唯一中身の入っていないそれへと視線を移し、青年は対面に座った旅人に訊ねる。
「お前はどうする。茶か、果実水か」
 しばし、迷うような間があって。
 問われた少年は、半分ほど中身の残った瓶をおもむろに指差した。
「俺も、それがいい」
 その言葉を聞いた青年の顔に、ほのかに困惑の色が浮かぶ。
「これは酒だぞ」
「知ってる」
 だって、と。空は緑色の瓶から、鍾離の方へと視線を移して。

「これ、先生の好物なんでしょ?」
 どんな味がするのか、俺も飲んでみたい。

 沈黙を見かねてか、横合いからウェンティが口を挟んだ。
「別にいいんじゃない? ここなら人目もないことだし」
 咎めるような視線を笑って受け流し、詩人は肩をすくめる。
「この場にいる全員、お互い見た目通りの歳じゃないって知ってるんだから。そうお行儀良くしなくてもいいでしょ?」
「そういう問題では……」
 ちらりと旅人を一瞥して、鍾離は反論しかけた言葉を半ばで呑み込んだ。ひとつ息を吐き、首を振って。
「一杯だけにしておくことだ」
 積極的に肯定したくはなくとも、最大限譲歩した結果の一言か。了承を得たとみて、旅人の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、先生」
 いそいそとウェンティから酒を注いでもらうその姿を、青年は複雑な表情で見つめていた。


「こほん。では……久方ぶりの再会を祝して、かんぱーいっ!」
 気取った音頭とともに、グラスを打ち合わせる澄んだ音が響く。
 調子のいい物言いに呆れながらも、鍾離は酒を一口含んで——金の双眸を見開いた。
「先生?」
 どうしたの、と首を傾げる空に、何でもないとかぶりを振り、卓を挟んだ向こうに座る詩人へと視線を移す。
「この深く澄み切った味わい、流石の逸品だ」
「酒はモンドの命だからね」
 心からの賞賛に、風の国の神が誇らしげに笑う。その隣で、旅人が自身のグラスにそっと口をつけていた。まずは様子を見るように二、三回舐めた後、思い切ってグラスを傾ける。
「どうだい、テイワットのお酒の味は?」
 おどけたように問うウェンティに、少年は少し考えてから答えた。
「詳しくないけど、美味しいと思う」
 手にしたグラスをゆらゆらと揺らしながら、青年はその整った面にほんの少し喜色を刷き、二人のやり取りを聞いていた。

「先生はどう?」
 そんな鍾離の様子を見て、旅人が水を向ける。
「そうだな。とても……懐かしい味だ」
「昔と同じ?」
「ああ」
 うなずく動作に合わせ、彼の手の中で琥珀色の液体が揺れる。
「今になって、再びこの酒を味わう機会を得ようとはな」
 感慨深げにそう呟くと、青年は金色の目を細めてグラスを眺めた。穏やかなその表情に釣られるように、旅人も微笑む。
「良かった」
 その傍ら、グラス片手に自分たちを眺める風神の意味ありげな笑みに、会話を交わす二人が気づくことはなかった。


 3

 窓の外はすっかり夜の帳が下り、行燈の明かりが室内を橙色に照らす。
 食卓に並んでいた料理は、既に大半が片付けられていた。空いた食器を下げに行っていた鍾離が、別室から戻ってくる。
 再び椅子に腰掛けた青年の視線が、旅人の前にあるグラスに向いた。席を外す前と比べ、その中身が明らかに増えているのを見とがめて、当人ではなく隣の詩人を睨む。
「一杯だけだと言ったはずだが?」
「まぁまぁ、いいじゃないか。せっかく楽しい酒の席なんだ、堅いことは言いっこなしにしようよ、モラクス」
「『鍾離』だ。お前はまたそうやって……」
 言外に自身の仕業と認めながら、まったく悪びれない詩人のしたり顔に、青年のまなじりがつり上がる。

 そんな二人の様子を、ちびちびと酒を飲みつつ黙って眺めていた空が、おもむろに席を立った。そのままテーブルを回り込んで、鍾離の隣の椅子にすとんと腰を下ろす。
 脈絡のないその行動に、青年は面食らったような視線を少年へと向けた。
「どうした?」
「……何となく、動きたかっただけ」
 視線を避けるかのように、うつむき加減でグラスに口をつける旅人。その様子を怪訝な表情で見ていた鍾離は、正面でニヤニヤと頬杖をつく詩人に気づき、顔をしかめる。
「何だ」
「別にー」
 ふふふ、と意味深に笑って、ウェンティはグラスの中身を一気に干した。


 程なくして酒も尽き、中身のない瓶だけが卓上に翡翠の影を落とす。
 竪琴の調べに乗せて、上機嫌な詩人が口ずさむのはモンドの古い詩。澄んだ歌声は美しく、先程まで皮肉を言い合っていた青年も、この時ばかりは黙って耳を傾けていた。
 その隣に座る旅人は、歌の邪魔をしないように気遣ってはいるものの、先程から大小あくびを繰り返している。そんな彼の様子に気づき、鍾離が声をかけた。
「休むのなら、空き部屋を使うといい」
「大丈夫」
 首を振って答えるも、その声は普段に比べてだいぶぼんやりとしていた。目は眠気に抗うかのように、しきりにまばたきを繰り返している。
 その様を見た青年は、温かい茶でも持ってこようと席を立とうとして。

 服を引っ張られる感覚に、鍾離は反射的に振り返った。
 その目に映ったのは、上衣の袖をつかんでいる少年の左手。
「どうした、空?」
「え? ……あ」
 問われて初めて気づいたかのように、空は自身の手を見て、つかまえていた腕をぱっと放した。
 つんと視線をそらした横顔に、隠しきれない焦りと戸惑いがにじむ。わざとらしく酒に口をつける仕草からは、自分で自分の行動に困惑している内心がうかがえた。

「ごめん、何でもない」
「……?」
 旅人の不可解な言動に、青年は首を傾げた。鈍いなぁ、と聞こえよがしに呟く声は、いつもの戯言と無視する。
 そっぽを向いてグラスを傾けるその横顔は、あからさまに追及を望まない空気を醸し出していて、それ以上理由を訊ねるのもはばかられた。
 酔っている様子もなさそうだし、おそらく眠気のせいだろう——そう結論づけると、鍾離は改めて台所へと向かった。



 淹れ立ての茶を手に戻ってきた青年の視界に映ったのは、卓に突っ伏し眠っている旅人の姿だった。いつの間にかライアーの音は止み、騒々しい吟遊詩人の姿も見当たらない。
 重ねた腕に頭を乗せ、微かに寝息をたてる空の傍らにそっと茶器を置くと、鍾離は周囲に視線を巡らせる。
 ほのかに冷たいそよ風が、青年の頬を撫でた。庭に面した窓が少しだけ開いている。外に出てみれば、ひとり縁側に腰掛けて庭木を眺める詩人がいた。

「いい風だね」
 傍らに佇む長身を振り仰いで、ウェンティが笑う。
「帰ったのかと思ったぞ」
「さすがに、挨拶もなしに出て行ったりはしないよ」
 肌寒さを感じさせる夜風も、酒で温まった身体を冷ますにはちょうど良かった。微かな葉ずれの音とともに、二人の衣の裾がなびく。
「彼、眠そうだったからね。そっとしといてあげようと思って」
「先に休めと言ったのだがな」
 室内を横目で一瞥し、鍾離は小さく息を吐く。
「寝たくなかったんでしょ。きっと楽しかったんだろうね」
 それくらい察してあげなよ、と言わんばかりの口調に、青年が眉をしかめる。
「そもそも、お前が余計に酒を飲ませたせいだろう」
「本人が飲みたいって言ったんだもの。無理に飲ませたわけじゃないしー?」
 わざとらしく語尾を上げ、つんと顎をそらすウェンティ。そして相手が反応するより先に、それにしても、と言葉を継ぐ。

「君がわざわざ好物に挙げるくらい、モンドの酒を気に入ってくれてたなんてね」
「……空から聞いたのか」
 顔をしかめる青年に、ウェンティはおっと、と人差し指を立てた。
「旅人を責めないであげて。きっと彼は君のためを思って、ボクに相談してきたんだから」
 まるで秘密を明かすかのように、詩人は声をひそめる。
「君に好物を訊いたら、昔の酒だって言われた。今でも手に入るのか——ってね」
「空が、そんなことを?」
 鍾離は瞠目する。
「そう。だからボクは、隠しておいた秘蔵の蒲公英酒をこうして持参したってわけさ」
 感謝してよね? と得意げな詩人をよそに、青年は何かを考える表情で黙り込んでいた。


 一時、会話が途切れ、庭を望む軒先に静寂が訪れる。
 その沈黙を破ったのは、いつもの笑顔に少しだけ真面目な色を浮かべた詩人。
「君は彼に言ったそうだね。
『気候が変わったせいか、もう昔と同じ酒は飲めない』って」
「ああ」
 鍾離は首肯する。
 実際、この気まぐれな風神が顔を見せなくなった後、自身でモンドの酒を取り寄せてみたことはあった。けれど結局、かつて七神達と酌み交わした時と同じ味に巡り会うことはできなかった。

「じゃ、今日飲んだお酒はどうだった?」
 問われて、先程まで口にしていた酒の味を思い返す。遠い記憶の中に残る、ほろ苦くも爽やかで、とても懐かしい——
「……昔と、同じだ。古い友と酌み交わした、あの酒の味だった」
「そっか。——ねえ、どうしてだと思う?」
 意図の見えぬ問いかけに、鍾離は困惑する。
「それは……お前が保管していた、当時の酒だからだろう?」
「さて、それはどうかな?」
 詩人の緩い笑みに、いたずらな色が混じった。それはまるで、手品の種明かしをするかのような。

「僕が持ってきたお酒だけど、実はね……皆で飲んだあの頃より、ずっと新しい時代のやつなんだ」
「……何?」
 常に揺るがぬ金の瞳に、当惑の色が差す。
「モラクス、君は酒の味が変わったと言ったけれど、それは違うよ」
「確かに気候の変化は多少あったかも知れないけれど、モンドの酒は今も昔も変わってない。
 改良はされていても、その根幹は昔のまま。連綿と受け継がれてきた、風と自由の味だ」
 呼び名を訂正することも忘れ、鍾離は詩人の顔を凝視する。珍しくも困惑を色濃く表したその面へ、ウェンティ——否、風神バルバトスは穏やかに笑いかけた。

「昔と違うのは、酒そのものじゃない。
 君を取り巻く環境と、君自身の気持ちの方さ」

「今日の酒が、昔と同じ味だったのなら。
 それはあの頃みたいに、一緒に酒を楽しんでくれる『友』がいたからじゃないかな?」
 ——君自身も、薄々気づいてたんじゃないかい?

「……」
 腕を組み、瞳を閉じて。
 しばらくの間、鍾離はそのまま黙り込んでいた。
 そんな旧友の姿を見ることなく、視線は樹々に向けたまま、そよ風のように詩人が笑う。

「誰と、どんな景色を見て、どんな気分で過ごすか。
 酒の味っていうのは、環境によっていくらでも変わるものなんだよ」
 気づくきっかけをくれた旅人に、感謝しないとね?
 その言葉を受けて、鍾離は室内へと目を向ける。
 少し開けたままの窓から、テーブルに伏せて眠る少年の姿が見えた。規則正しく上下する肩と金の髪を見つめ、青年は目を細める。
「……ああ、そうだな」
 その穏やかな横顔を眺めて、ウェンティは満足そうに微笑んだ。

「少なくとも、そんな顔が出来るようになっただけでも、君が神を辞めた意味はあったと思うよ」
 そう言って、詩人は手にしたライアーの弦を戯れに爪弾いた。その表情に、自ら神の座を降りた同胞を咎める色はない。かつて共に杯を交わした初代の七神も、もはや残るは二人だけだったというのに。
 鍾離は——かつての岩神モラクスだった者は、旧き友に謝意と少しの罪悪感をもって告げる。
「——感謝する。バルバトス」
 おや、とウェンティは翡翠色の目を見張った。
「あの頑固爺さんが、またずいぶんと素直になったもんだね」
「……礼には礼を。それだけのことだ」
 仏頂面で横を向く青年に、けらけらと笑う少年。
「いやあ、今日は面白いものがいっぱい見られた! それだけでも、わざわざ来た甲斐があったってものさ」
 そう言って、ウェンティは立ち上がった。軽やかな身のこなしで、翠緑のケープを翻す。

「それじゃ、ボクは先に戻るよ」
 ひらひらと手を振る背中に、ウェンティ、と呼び止める声。
 意外そうに振り向いた詩人を、鍾離は正面から見据えた。遥か昔、酒を片手に璃月へ降り立った彼を迎えた時と同じ——神であった頃と変わらない、悠久の時を刻んだ黄金の瞳で。

「今度は俺が、璃月の酒を持ってそちらを訪ねよう」
 だから、ちゃんと起きていろ。

 その言葉に、ウェンティは翠の双眸を瞬いて。
「——ふふっ。それは楽しみだね」
 心からの笑顔を残し、吟遊詩人は夜風に溶けるように姿を消した。



 自由な風の気配が完全に消えたのを確認してから、鍾離はひとり部屋へと戻った。
 騒々しい客が去り、静けさを取り戻した室内。テーブルでは、先ほどと変わらない姿勢で旅人が寝息をたてている。
 気持ちよさそうに寝ているところを起こすのも忍びないが、泊めるにせよ帰らせるにせよ、このままにはしておけない。鍾離は少年の肩に手をかけ——ようとして、テーブルの上の紙巾に、流麗な文字で書き置きが残されているのに気づいた。
 取り上げて目を通した途端、形の良い眉がぐいと寄る。

「あの、呑兵衛詩人が……!」
 あいつはやはり変わっていない。メモをくしゃりと握り潰し、鍾離はため息をついた。


OFUSEで応援 Waveboxで応援


普段クールな空くんのデレが見たかったと供述しており

鍾離先生とウェンティは良き腐れ縁であってほしいですね。



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