澪標


 1

「稲妻へ行く方法、見つかったよ」
 食事があらかた片付いた頃合いを見計らって、空はそう切り出した。
「ほう。そうか」
 卓の向こう側で茶を嗜む青年の、形の良い眉が軽く上がる。鬱金の瞳に先を促す意図を見て取って、少年は経緯を説明した。
「——なるほど。南十字船隊か」
「うん。出航の準備ができ次第、こっちにも連絡くれるって」
 説明を聞き終えて、鍾離はそうか、と納得したように頷く。その整った面を彩る微笑みは、友の旅立ちを純粋に寿いでいた。
「道が拓けたな。喜ばしいことだ」
「うん」
 間もなく訪れる別離を暗示する会話は、その二言で終わりを告げた。


「共に行こう」とは言わなかった。
「一緒に来て」とも言わなかった。

 妹を探すためにテイワットを旅する空と、かつて人の神であった者として璃月を見守り続ける鍾離。
 彼らは知っている。互いの道行きは交われども、決して重なり合うことはないと。
 結んだ縁、交わした情に嘘はない。だが、共にそれぞれ譲れないもの、大切な存在がある。故に、交差した時は寄り添えど、自身の拠って立つ所は変えず、進む道を曲げはしない。
 それが、異邦の旅人と、人になった岩神が交わした『契約』だった。



 夕食を共にした日は、決まって青年の自宅まで送っていくのが暗黙の了解になっていた。
 他愛もない話をしながら、夜道を歩いて到着した目的地。扉に手を掛けたところで、ふと鍾離が振り返る。
「——泊まっていくか?」
 静かに投げかけられた問いに、少年は小さく息を呑む。
 二人の間で交わされるその言葉は、ある意図を示す符牒のようなものだったから。
「……うん。先生がいいなら」
 ややあっての返答に頷き返して、青年は玄関の扉をくぐった。その背中を追って、少年もすっかり馴染んだ室内へと足を踏み入れた。


 昼間の曇り空が尾を引いているのか、月明かりの無い夜だった。
 片隅に置かれた霄灯の微かな光だけが、室内をほのかに照らしている。それでも、闇に慣れた目には十分だった。自身の下にある身体に、思い通り指を滑らせることができる程度には。

 敷布の上、紡がれた絹糸のように広がる黒髪を掬い上げて口付ける。そっと名を呼べば、熱に浮かされた黄金の瞳と視線が合った。身の内に他者の肉を受け入れ、浅ましい欲望に身を曝していてなお、その気品は少しも損なわれてはいなかった。

 きつく抱けば、一拍おいて柔らかく抱き返してくる腕。
 道行きは違えども、相通ずる想いは確かにここにあるのだと、そう示すように。

 例えそれが、都合の良い夢想であったとしても——。
 少年は目を閉じ、やがて訪れる暴力的な熱に身を任せた。


 まだ夜も明けきらぬ時刻。
 身支度を整えた空は寝台に腰掛け、薄闇を隔てた背中をぼんやりと眺めていた。
 糊の効いた服を一糸乱れず着こなした姿からは、先程までの蕩けそうな熱の名残はもう感じられない。
 彼はそういう人だった。夜が終われば、そこにいるのは博学多識、気品ある客卿としての鍾離だ。
 自分だけが、彼のそういう一面を知っている。そんな後ろ暗い歓びを覚える一方で、あの時間は泡沫の夢だったのではないかと——いつも、錯覚しそうになる。

 目の前にグラスを差し出され、少年は我に帰った。
 受け取った水には、清心の花が一輪浮かべてあった。口をつければ、微かな苦味と、清冽な冷たさが喉を滑り落ちていく。
 その様子を確認してから、鍾離も空の隣に腰を下ろした。しばしの間、二人並んでグラスを傾ける。

「——稲妻って、どんなところなのかな」
 ぽつりと、何とはなしに呟く。
 特に反応を期待していたわけではなかったが、律儀に返事が返ってきた。
「かつては小さいながら、人々の気質は誠実で、風光明媚な島国だった。だが、鎖国と目狩り令の影響下にある今、どのように変化しているかはわからない」
「鎖国に、目狩り令……」
 突如として外国との交流を拒絶し、民から神の目を取り上げているという雷の神。モンド、そして璃月の神は、いずれも異邦の旅人に対し友好的だった。けれど、今度はおそらく今までのようにはいかないだろう、と空は思った。

 この世界の理に囚われぬ存在である旅人は、遠方であっても一瞬で移動する術を持っている。だが、稲妻でも同じようにその力の恩恵に与れるかは、実際に行ってみるまでは未知数だ。鎖国状態にある稲妻から、自由に璃月へ戻ってこられるのか——それは、試してみなければわからない。

「……しばらくは、会えないかな」
 小さく呟いて、傍らの青年をうかがう。
 鍾離は黙ってグラスの水を揺らしていたが、ふ、と微かに笑う。
「どうした。不安か」
「そういうわけじゃ、ないけど」
 彼にどういう反応をしてほしかったのか、自分でもわからずに空は言葉を濁した。

 自身はテイワットの外から来た者。目的を果たした後、この地を去るのか、それとも残るのか——その時になってみなければわからない。
 だからこそ、彼には今の関係以上を望まないと決めていた。彼に焦がれるこの想いを受け入れ、体を重ねることを許してくれた。もう十分すぎるほどだ。
 その長き生の中で、多くの離別を強いられてきた彼に、いずれ去る身と知りながら共に在ってくれなどと、どうして言えるだろう?

 目を伏せる少年の傍ら、鍾離は水を一口含んで。
「なに、待つのは苦でもない。数年、数十年だろうと、俺にとっては瞬きに等しいからな」
 そう言って、穏やかに微笑んだ。

「……そっか」
 それでいいのか、と問おうとした言葉を飲み込み、空は息を吐き出した。
 彼が言うのならば、きっとそれでいいのだろう。他者を気遣うためだけに、自身が良しとしないことを無理にする人ではないと知っているから。
 少しだけ、心が軽くなった気がした。


 それじゃまた、と。
 いつも通りの挨拶をして、暇を告げる。

 一度だけ振り返れば、薄明の向こうで、石珀に似た瞳が優しくこちらを見送っていた。





 稲妻へ渡してもらう約束を取り付けてから、しばらく経った日の朝。
 空のもとに南十字船隊の使者が訪れ、出港の準備が整ったことを告げた。

「いよいよだな、空!」
 にわかにはしゃぐパイモンに頷いて、少年は璃月の町並みを一望する。
 あとは自分達を待つだけだと使者は言っていた。急いで向かわなければならないが、一言挨拶をする時間くらいは許されるだろうか。
「パイモン、何か適当に食べるものを買っておいて」
「おう。いいけど、お前はどうするんだ?」
 首を傾げるパイモンに、空は一瞬の間をおいてから答えた。
「鍾離先生に挨拶してくるよ」


 この時間なら往生堂に居るのではないかと訪ねてみたが、そこに鍾離の姿はなかった。
 まだ自宅に居るのかもしれなかったが、流石にここから彼の住まいまで足を伸ばす時間は無いだろう。
 顔を見て出立を告げられなかったのは残念だが、何も今生の別れというわけでもない。空はそう割り切って、荷物から取り出した紙に急ぎペンを走らせる。
 そうして記した言伝を、鍾離先生に渡してほしいと往生堂の「渡し守」に預け、空はパイモンとの合流場所へ急いだ。



 以前に訪れた時と変わらず、死兆星号は孤雲閣の沖合に停泊していた。
 風の翼でふわりと降り立った旅人に、船前方に立っていた北斗が振り返る。
「おう、来たか!」
「待たせたな、北斗船長!」
 手を振って応えるパイモンに、南十字船隊を率いる女傑はからからと笑った。

 全ての出航準備を終え、船上はにわかに騒がしくなる。
 錨が巻き上げられ、次々と張られる帆が潮風を孕んで大きくはためいた。それらをぐるりと一瞥し、北斗が声を張り上げる。
「よぉし! 南十字船隊、出航だ!」
 号令一下、海面を滑るように船が動き出した。昇ったばかりの太陽を水平線の向こうに見ながら、稲妻へ向かうべく速度を上げていく。
 うっすらと朱の混じった青空の下、孤雲閣の独特な島影が次第に離れてゆく。その様子を何とはなしに眺めていた空の瞳が、ある一点で釘付けになった。

 甲板の上を駆け、船尾の縁から身を乗り出す。
 孤雲閣で最も高い岩山。かつて岩神が海の魔神を縫い止めた岩槍の名残、その天辺に、誰かが——

 空は目を見開く。
 こうしている間にも、船は孤雲閣からどんどん遠くなっていく。もう既に、それが見える距離ではない。それでも、理解した。感じ取った。
 ——静かに、真っ直ぐに自分を見ている、何よりも焦がれた黄金の瞳を。

 少し前の思い出が、脳裏によみがえる。
 塩の魔神の遺物を海へ還した後、水平線の彼方に遠い昔を見ていた横顔。テイワットを去っても、この世界の記憶をどうか覚えていてほしいと願った声。
 あの日と同じ場所に、あの時と同じ姿の、彼がいる。

 ——鍾離先生。
 唇だけを動かし、その名を呼ぶ。

 空は右手を宙に掲げ、大きく左右に振ってみせた。
 相手から見えるかどうかなんて、はなから考えなかった。伝わらなくてもいい、ただ自分がそうしたかったのだ。
 彼が自分の旅立ちを見送ってくれている、それがただ純粋に嬉しくて。

 孤雲閣のシルエットがおぼろに霞み、やがて蒼穹に溶け消えるまで、少年は笑顔で手を振り続けていた。



 波を白く蹴立てながら、その船は水平線へと真っ直ぐに進んでゆく。
 視界の中で小さくなる船影を見据えて、鍾離は目を細めた。

 遠ざかる船の上、ちぎれんばかりに手を振っていたのが見えた。あの距離でよく気づいたものだと、我知らず口元に微笑みが浮かぶ。
 夏の香りを湛えた海風に、束ねた黒髪と服の裾を遊ばせながら、青年は静かに目を閉じた。もうその姿を視認することは叶わない旅人へ、独り思いを馳せる。

 約束など無くてもかまわない。
 互いの道が再び交わる日は、きっと遠からず訪れる。


「何せ、待つのは慣れているからな」

 呟く声は、彼方の船影に届くことなく。
 誰にも聞かれぬまま、潮風にさらわれ遥かな空へと溶けていった。


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互いに多くは望まないけどクソデカ感情はある、そんな二人が好きです。



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