one step closer


 さざ波ひとつ立っていない、凪いだ水面。静寂を映すその鏡を壊すように、わざと水音を立てながら飛び込んだ。近くで羽を休めていた水鳥たちが、慌てて空へと舞い上がっていく。
 頭の先まで水の底に沈めば、海草めいて揺れる己が金の髪と、水面へと立ち昇ってゆく泡が視界に入った。
 青く透き通った空間に、差し込む光の帯。綺麗だと思う一方で、清冽な冷たさに身震いする。
 街の喧騒も、人の気配もない。世界に氾濫する情報から切り離され、思考が澄み渡っていくのを感じた。

 このまま戻れなくなる直前までたゆたっていれば、胸にわだかまる澱みも綺麗さっぱり消えてなくならないだろうか。
 ゆっくりと目を閉じ、頭の中を空っぽにしようと努める。

 後悔の記憶も、割り切れない欲求も——全部、水に溶けてしまえばいいのにと。
 静けさの中、旅人は独りそう願った。


 1

 事の発端は、何気ない軽口の叩き合いだった。

「——ぷはーっ、お腹いっぱいだー!」
 夕食時、旅人は往生堂の仕事を終えた鍾離と共に、彼が懇意にしている小料理屋を訪れていた。
 個室のテーブルに並んだ料理をきれいに平らげ、至福の表情を浮かべる旅の相棒を、空はじとりと半眼で見据える。
「パイモン、ちょっと太ったんじゃない?」
 そのうち飛べなくなりそう、と皮肉交じりにからかえば、ふくふくと丸い頬にたちまち血が上った。
「お、おまえー……デリカシーってものがないのかよ!」
「パイモンだって、俺の懐に対するデリカシーがないし、おあいこだね」
「むーっ!」
 にっこり笑ってやり返す旅人に、空中で地団駄を踏む少女。

「ふんっ! よーっくわかったぞ、お前がそういうつもりなら……」
 何事か思いついたように、パイモンはしたり顔で卓の対面へ向き直る。
「おい鍾離、お前というものがありながら、こいつ浮気してたんだぞ!」
「はあ⁉」
 突然何を言い出すのか。飛び出した予想外の発言に、空は絶句する。
「ほう?」
 名指しされた青年の方はといえば、至って普段どおりの表情で小首を傾げている。興味深そうに注がれる視線が痛い。
「ちょっと、おかしな嘘つかないでよパイモン!」
「嘘じゃないだろ~? リルパァールに『好き』って言われてたもんな!」
「あれはそういうのじゃ……」
「『我が主~』なんて呼ばれてさ。鼻の下伸ばしてたくせに」
「伸ばしてない!」
 ご丁寧に声色まで真似るその口を閉じさせようと、反射的に掴みかかる。伸びてきた両腕をするりとかわし、パイモンはべーっと舌を出して見せた。

「ふむ。その話、ぜひ詳しく聞きたいものだな」
 二人のやり取りを面白そうに眺めていた青年が、そんなことを言い出した。その顔に怒りの色はなく、むしろ楽しげにすら見える。
 とりあえず気分を害した様子はなさそうだと見て取って、空は少しだけ安堵した。パイモンを捕まえるのはいったん諦め、青年の方へと向き直る。
「誤解しないで、先生。そういうのじゃないから……」
 まるで、本当にやましいことがあって弁解しているみたいじゃないか。微妙な気分になる少年をよそに、鍾離は至極当然といった表情でうなずいている。
「お前ほどの人物であれば、その魅力に惹かれる者も多いだろうからな」
「いや、そんなことは……」
 心からの称賛とわかるだけに否定もしづらく、かといって肯定するわけにもいかず、空はあいまいに言葉を濁す。
 どう返事するべきか迷う旅人を前に、青年はふふ、と笑って。
「俺に飽いたか?」

 明らかに冗談だとわかる、その一言が。
 なぜだか、無性に癇に障った。

「——っ、そんなわけない‼」
 その声は、自分でもびっくりするほど大きかった。
 鍾離もパイモンも、驚いたようにこちらを見ている。周囲に人がいる場でなくてよかった、と空は思う。
 そして同時に、少しだけ哀しくもなった。彼にとって、自分の反応はそれほど意外なことだったのかと。

「……ふむ。少し、冗談が過ぎたな」
 微妙な空気の中、先に沈黙を破ったのは鍾離だった。すまなかったと詫びるその口調は誠実で、彼が素直に悪いと思っていることがうかがえる。
 ただの軽口だ。過剰反応した自分が無粋なだけ——そうとわかっていても、胸に巣食う暗雲は消えなかった。
 驚きに見開かれた金の瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。

「……嘘じゃなかったら?」
「ん?」
 ぽつりと呟いた空に、青年が怪訝そうに訊き返す。
「もし、俺が本当に浮気してたら、先生はどうするつもりだったの?」
 切れ長の目尻がわずかに下がる。戸惑い、困惑——質問の意味を図りかねている、そんな顔。
 その視線を避けるように、少年はうつむき加減で言葉を続けた。
「本当だったとしても、さっきみたいに笑ってた?」
 どうして、そんなに平然としていられるのか。
 ほんの少しくらい、動揺してくれたってよかっただろうに。
 そんな八つ当たりじみた感情が、心に湧き上がる。

「お、おい、空……?」
 不穏な空気におろおろするパイモンを無視して、少年はさらに続けた。
「飽きたかって訊いて、俺がそうだって返事したとしたら……先生はどうする?」
 真剣に問われていると察したのだろう。鍾離はしばし考えるように目を閉じた後、微かに揺れる視線を旅人へと向けて。
「お前が選択したことならば、俺は——尊重し、受け入れるだろうな」
 静かにそう、答えた。

 あまりにも正しすぎる、その結論。
 あまりにも落ち着き払った、その態度。

「——いつもそうだよね、先生は」
 口を突いて出た声は、自分でも驚くほどに冷たかった。

 人の欲望とは際限のないものだ。ひとつ叶ったとなれば、本能的に次を求めてしまう。
 求めれば、彼は応えてくれる。この関係が受け入れられているのは、十分に幸福なこと。
 けれどいつしか、心のどこかで考えてしまっていた——鍾離の方から自分を求められたことはない、と。

「俺が望めば、受け入れてくれる」
「でも、先生からは何も求めてくれない」

 鍾離のそういう性質を理解した上で、恋仲になることを望んだのは他ならぬ自分ではないか。頭の片隅で、冷静な意識が咎める。
 それでも、止まらない。止められない。
 彼に抱いていた違和感、疑問、不安。考えすぎ、あるいは求めすぎだと封じてきた感情が、ほんの他愛無い冗談を呼び水にどくどくと溢れ出す。さながら、大雨に耐えきれず氾濫する河のように。

 好きだと囁くのも。
 触れたいと手を伸ばすのも。
 抱かせてと願うのも。

(全部、俺ばっかり——)

「本当は、」
 その先を言っては駄目だ。
 理性ではわかっているのに、唇は止まらなかった。

「先生の方こそ、俺に飽きてるんじゃないの?」
「——何?」
 鍾離が負の感情を表に出したところを、空はほとんど見たことがない。帰終機を破壊した賊たちに相対した時と、契約を破ったファデュイに罰を突きつけた時くらいのものだ。
 今、目の前で不興げに眉を寄せる彼は、まさにそれと同じ表情をしていた。

「おい、二人ともやめろよ‼」
 冷たい沈黙が横たわる両者の間に、パイモンがたまりかねたように割って入った。
「オイラが悪かった! ほんの冗談のつもりだったんだよ、だからケンカしないでくれ!」
 必死の形相で制止する相棒を見て、空は我に返る。血の昇っていた頭が、すっと急速に冷えていくのを感じた。
「鍾離、さっき言ったことは嘘だからな。こいつは浮気なんてしてないぞ!」
 懸命にそう訴えるパイモンに、青年はしばし黙った後、わかっているとうなずいて見せた。その端正な面に、先程の不機嫌な表情はすでにない。

「…………ごめん」
「いや……」
 小さく謝罪を口にする少年に、かぶりを振る青年。
 それっきり、気まずい沈黙が横たわる。
 空気を変えようと、何事もなかったかのように明るく振る舞うパイモンの努力も、二人の間に流れる微妙な雰囲気を和ませるには至らず。
 結局、いくらも経たずに店を出る運びとなった。

 いたたまれない気分で、空は街の灯りを見上げる。すぐ隣にいる青年と、視線を合わせるのが怖かった。
 いつもなら鍾離と会った後は、まだまだ話し足りないと思いながら別れるのに、今は一刻も早くこの場を去りたくて仕方ない。彼と過ごしている時に、こんな気持ちを抱くことがあるなんて思いもしなかった。
「気をつけてな」
「……」
 かけられた言葉に、無言でうなずく。

 こちらを見ているであろう朱金の瞳を、最後まで直視することができないまま。
 かたわらの相棒を促して、空は足早にその場を後にした。



 2

 璃月港から北西に位置する険しい山地は、古来より仙人の住まう地と言い伝えられる。いくつもの峻険な岩山が柱のように天に向かってそそり立つ光景は、まさにそんな伝承に相応しい威容だった。
 林立する岩柱の根元には、清らかな川がさらさらと流れている。透明な水には一片の濁りも見られず、口にすればほのかに甘い。
 これも仙力の恩恵なのだろうか。ひとり水底にたゆたいながら、空はぼんやりとそんなことを考えた。

 あれからしばらく、鍾離とは会っていない。
 珍しくもないことだ。元々そこまで頻繁に顔を合わせていたわけではなく、互いにやらなければならないことも多い。新たな国へ足を踏み入れた時などは、ひと月以上も平気で空くことだってある。
 にも関わらず、パイモンはしきりに喧嘩はだめだ、仲直りしろと懇願めいて言ってくる。自分の他愛無い嘘が発端で空気を悪くしたと、彼女なりに責任を感じているのだろう。
 気に病まなくてもいいのに、と空は思う。別に、自分たちは仲違いなんてしていない。次に会う時は、きっといつも通りだ。
 そう言えば、会いに行くのも常に自分からだった——そんな考えが頭をよぎり、またかと自己嫌悪した。

 あの日以降、こんなことばかり繰り返している。
 仲違いしたとは思っていない——そう強がったところで、気にならないわけもなく。

 長きにわたり、神として在った鍾離。その精神が人間とは違うと、想いを告げる前からわかっていた。
 知識として理解はしても、自身にとって恋愛とは未知のもの。そう語りながらも、彼は空の想いを真摯に受け止め、恋仲になろうと言ってくれたのだ。
 それで十分だと、そう思っていたのに。

 昇っていく泡を追うように、上へと右手を伸ばす。
 やや傾いた陽の光を受け、澄んだ水面が金色にきらめいている。まるであの人の瞳のようだと、空は思った。
 凪いでいるのは、目だけではなく。言葉、態度、情動——鍾離を構成する要素全てが、磐岩のように揺るぎない。
 彼が自分を気にかけ、親愛をもって接してくれているのはわかる。価値を認めない関係を受け入れる人ではないとも知っている。しかし、自分の求めに快く応じる姿を見るたび、まるで山へ叫んだ声に返るこだまを聞いているようだと、心のどこかで感じていた。
 何もかもをわきまえたその振る舞いは、こちらへの関心の無さゆえではないか。
 どれほど愛をささやこうと、彼の心には届いていないのではないか?
 幸福な逢瀬の陰で、空自身も自覚しないまま、不安から生み落とされた疑心は着々と育っていた。そして、ほんのささいな一言をきっかけに、理性という蓋をこじ開け噴き出した——。

 こちらが何食わぬ顔で会いに行ったなら、たぶん彼は何事もなかったように、今まで通り微笑んで迎えてくれるだろう。
 そうであってほしいと思う一方で、それはしゃくだと感じる気持ちもある。
 本人に告げるつもりがなかったとはいえ、あの時口にしたことは、まぎれもない本音だったから。

 彼はそういう人なんだ、そう悟っている自分と。
 ほんの少しでも気づいてほしい、そう願う自分。
 言わなければよかったと後悔したところで、口に出してしまった事実が消えてなくなるわけもなく、かと言って本心を告げて良かったと言えるほど開き直れもしない。

 そろそろ呼吸が辛くなってきた。空気を求めて暴れ出す肺に、現実へと引き戻される。
 冷静になってみれば、なんとも滑稽な状況だった。時間の無駄だ、と空は他人事のように思う。鍾離へ寄せる想いが消えてなくなりでもしない限り、いくら自問自答しようと結論は変わらないのだから。


 溺れる前にいい加減上がろうと、漂うに任せていた手足に力を込めたその瞬間。
 突如、目の前の水面から大量の気泡が迫ってきた。周囲の水が激しく渦を巻き、視界が遮られる。
 何かが水中に飛び込んできたのだ、そう理解したと同時に、ぐいと腕を掴まれて。
 気づけば、身体ごと岸に引っ張り上げられていた。

 驚いた拍子に水を飲んでしまい、軽く咳き込む。
「——無事か」
 頭上から響いた声に、空は視線を上げた。髪からぽたぽたと垂れる雫の向こう、腕を組んでこちらを見下ろしているのは。
「魈……?」
 どうしてここに。疑問を込め、その名を呼ぶ。
「お前が水に飛び込んだのを偶然見かけたが、時間が経っても上がってくる気配がなかったからな」
 端的にそう述べて、降魔大聖の名で知られる少年夜叉は淡い金の目を細めた。
「その様子だと、溺れていたわけではないようだが」
「えっと……その」
 衝動的にやった行為の一部始終を見られた上、その理由を問われるのは無性に気恥ずかしい。ばつの悪い面持ちで、濡れた金髪をかき回す。
「……ちょっと、頭を冷やしたくて」
 そう答えた瞬間、整った面に呆れとも怒りともつかない表情が浮かぶのを、空は目の当たりにした。
「言ったはずだ。まぎらわしい真似はするなと」
「……ごめん」
 以前、とある目的のためにとパイモンにそそのかされ、溺れるふりをした前科を思い出す。すぐに駆けつけてくれた彼に真相を説明する時のいたたまれなさといったら、今でも記憶に新しい。
 素直に謝る旅人に、魈は軽くため息をつき。
「帝……鍾離様も、お前のことを気にかけておられる。行動には注意することだ」
 今、一番聞きたくなかった名前を、口にした。

「——鍾離先生、が?」
 半ば機械的に訊き返すと、彼は軽くうなずいた。
「あの方がお前を重要な存在と認めておられることは、我の目から見ても明白だ。
 お前の身に何かあれば、きっと御心を痛める」
 淡々とした口調ながら、その奥には確かな尊敬と憧憬の念が感じられた。
 魈の言うことならば、嘘や世辞であるはずもないし、自分でもそうだろうとは思っている……けれど。
「——そうかな」
「何?」
 ぼそりと呟いた懐疑。それを耳にした仙人の眉がぴくりと動く。
「俺に何かあったら、心配してくれるのは間違いないよ。
 でも先生は、たぶん誰に対しても同じようにすると思う。魈だって知ってるでしょ?」
 かつて岩王帝君に救われ、忠誠を誓った彼であれば、きっと誰よりもそれをわかっている。沈黙する夜叉を横目に、空はゆっくりとかぶりを振った。
 鍾離が自分を重要と見なしているのは事実だろう。実際、彼自身の口から告げられたこともある。けれど、それはテイワットという世界を「記録する者」への期待だった。果たして、そこに彼個人の感情は含まれているだろうか?

「あの人は、やっぱり今でも神様なんだ」
 こぼれた呟きは、半ば自分に言い聞かせるためのもの。
 自分はもうただの凡人だと、鍾離は言う。だが、その本質は神であった頃と変わってはいない。
 彼の視座は人よりも高く、常に大局を見ている。彼が最も愛するのは、璃月という国、そしてそこで生きる人々。
 それでいいんだ、と少年は思う。
 自分だけを見てほしいなどと言う気はない。そんな彼を、自分は好きになったのだから。

「——本気で言っているのか?」
 降ってきた声は、常ならぬ剣呑さを帯びていた。
 冷たい刃のような、それでいて熱のこもった言葉に、空は思わず顔を上げる。
「あの方に何の変化も無いと、本心からそう思うのか」
 欺瞞を許さない、まっすぐな眼差しに射抜かれる。心にわだかまる澱みを見透かされそうで、旅人はただ沈黙するしかなかった。

「あの方は、変わろうとしておられる」
 魈の目に、ほんの少し遠くを見るような色が混じった。
「生きた時間が長くなるほど、変化を受け入れるのは難しい。帝君は、それを誰よりもご存知のはずだ」
 だが、と彼は続ける。
「最も永く生きた身でありながら、あの方は自ら率先して変わろうとする御姿を我らに示された」
「お前から見れば、遅い歩みかもしれない。
 だが、あの方の覚悟と尽力を否定するならば、たとえお前であろうと我は許さぬ」

 正面から喉元へ突きつけられた言葉に、息を呑む。
 厳しい語調から伝わってくるのは、こちらへの非難ではなく、愚直なまでにまっすぐで真摯な思い。
 魈は鍾離を信じている。元より人と交わらぬよう生きてきた彼のこと、神を辞め凡人になるという主君の選択に、戸惑いや葛藤もあっただろう。それでも、変化を選んだ主の歩みを肯定し、その先に光があることを疑っていない。

 それに比べて——今の自分はどうだ?

 両手で自身の頬を叩く。パン、と思いのほか景気の良い音が響いた。
 虚を突かれたような表情を浮かべる魈に、空は自嘲混じりに笑ってみせる。
「ごめん。目が覚めた」
「……?」
 唐突な行動に疑問符を浮かべつつ、少年夜叉が視線をそらした。毒気を抜かれた様子の横顔に、空は静かに問いかける。
「魈から見て、鍾離先生は変わったと思う?」
 問いに対して考えるように黙り込んだ後、彼は小さくかぶりを振った。
「あの方の御心を推し量るなど、分を超える行いだ」
 再びの沈黙。一瞬、告げるべきか迷う気配があって、ただ、と続いた。

「——お前の話をする時の鍾離様は、いつも安らいだ表情をされている。
 お前があの方にもたらした影響は決して少なくないと、我は思う」
 え、と間の抜けた声が漏れた。
 予想外の返答に、どういう意味かと問うよりも早く。
 もう行く、と告げて背を向けた夜叉の姿は、まばたきの間にかき消えていた。

「……お礼を言う時間くらい、くれてもいいのに」
 苦笑しながら、少年は微かに残った風の痕跡に向かって、小さくありがとうと呟いた。
 姿は見えずとも、きっと彼には届いているだろう。そんな確信とともに、晴れ渡った青空を見上げる。

 ——鍾離は、変わろうとしている。
 魈が告げた言葉を、空は心のなかで何度も繰り返した。



 3

「貴方様の方からおいでになられるとは、嬉しいこともあったものですね」
 玉京台の片隅。琉璃百合と霓裳花がひっそり咲くこの場所から、常に璃月港の変遷を見続けてきた老女が感慨深げに微笑んだ。
「近くまで来たものでな。久々に、茶を馳走になりたくなった」
 彼女の向かいに座るのは、黒髪に金の瞳の青年。勧められた茶を口にして、相変わらず絶品だ、と呟く。

 かつて岩王帝君と呼ばれた魔神と、その旧知たる仙女。彼らが和やかに茶を楽しむ様を、行き交う人々は誰一人として気に留めることはない。
 仙人は人里離れた山峡に住まうもの、と凡人は信じている。今しがたすれ違った相手が、人ならざる者であるとも気づかずに。
 伝承に語られる存在が市井で暮らし、人と共に歴史を歩む——それが璃月という国だ。

「不自由はしていないか」
「いいえ、何も。子どもたちも皆よくしてくれて、つつがなく過ごしております」
「そうか。息災で何よりだ」
「貴方様も、穏やかに日々を送っておられると聞き及び、安心しておりました。
 ——特に、かの旅人とは良き縁を結ばれたようで」
 そう語る彼女の口調には、敬意と親愛、そしてどこか茶目っ気のようなものもにじんでいて。
「耳聡いな」
 形の良い唇にうっすらと苦笑いを浮かべ、鍾離が呟く。
「ほっほっ。この場所で日がな一日過ごしておりますれば、風の噂にいろいろと聞こえてくるものでして」
 それに、と彼女は続けた。
「先の月逐い祭以降、あの子はよく貴方様の近況を聞かせてくれるのですよ」
「貴方様の話をする時のあの子は、それはそれは楽しそうな様子で。
 お二人が良い関係を築けていること、このばあやの目から見てもよくわかります」
「……そうか」
 呟き、金の目を伏せる鍾離。
 そんな彼の様子を見て、ピンばあやは黙って急須を手に取ると、残り少なくなった椀へと茶を注いだ。


「——どうやら俺は、彼の機嫌を損ねてしまったようだ」
 唐突に発せられた言葉に、老女は手元から視線を移す。
 対面に座る青年は、海の向こうに広がる璃月の景色を見ていた。
「俺は未だ、人の感情の機微を理解したとは言えない。それでも、旅人とはそれなりに良い関係を築けていると思っていた」
 そこで一度言葉を切り、鍾離はふっと息を吐いた。湯呑から立ちのぼる湯気が微かに揺らぐ。
「互いに人どうしとして付き合いたいと、そう努めてきたつもりだったが……相手からすれば、ずっと歯がゆく思っていたのだろうな」
 茶を注ぎ終えた相手に目線で礼を示すと、鍾離は器の中の自身を見つめた。揺らめく水面に映るその姿は、人か、それとも——
「……あの子は、なんと?」
 急須を卓へ置き、ピンばあやが短く問う。それを受け、青年はしばしためらうように黙り込んだ。長きにわたる付き合いの仙女も、そのように迷う様子の彼を目にするのは初めてだった。

「——自分に飽いたのか、と」
 沈黙を経て開かれた唇が、吐息まじりにそう呟く。
「望みを受け入れるばかりで、俺の側からは何も求めてこないと、そう言っていた」
「……なるほど。そのようなことを」
 相槌を打つ旧友に一瞬視線を移した後、青年は再び海へと目を向けた。
「旅人が俺の元を訪ね、しばしの時を共に過ごす。それが、彼の旅路を妨げない適切な距離感だと考えていた」
 だが、と。
「あれが、旅人の本音であるならば。
 ——俺の選択は、間違っていたのかもしれないな」
 その述懐を耳にして、ピンばあやは非礼と知りながらも、思わず青年の顔をまじまじと見つめてしまう。

 彼女の知る「岩王帝君」に、迷いはなかった。
 胸の内ではきっと無数の葛藤があって、幾度となく自問自答を繰り返してきたことだろう。それでも、かつての彼はそのような素振りを決して他者に見せなかった。
 人を導く神として、常に正しき道を歩んだ。同胞を失い、友を自らの手で誅し、摩耗に侵されても、己の選択は正しかったのかと疑問を呈することもなく。
 しかし今、目の前の「鍾離」は、自身の行動が誤っていたかもしれないと言った。以前の彼であれば、決して口にしなかったであろう言葉を。
 凡人として生きるようになったからか、あるいはかの旅人がもたらした影響なのか。正確な答えは、おそらく本人にもわからないだろうけれど。

 ——この方は、変わりつつある。
 仙女はそう思わずにいられなかった。


 潮の香りを含んだ風に、ぽつぽつと植えられた琉璃百合が揺れている。そよ風が奏でる旋律の合間を縫って、ピンばあやはそっと口を開いた。
「この璃月の神として、貴方様は限りなく正しく在られました。
 人を導き、禍を祓い——民の声に耳を傾け、その願いに応え続けてこられた」
 いったん言葉を切り、ゆっくりとかぶりを振る。
「人ならざる者に、人の欲がないのは道理。
 ですが、貴方様はもう俗世を生きる身です。そろそろ、自らの望みを口にしてもよいのではありませんか?」
 信仰の対価として、ずっと人々の願いを聞き届けてきた彼は、神の座を降りてなお、その行動原理を変えていないのだろう。元より、変えるという発想自体がなかったのかもしれない。
 無理もない、と彼女は思う。そういう生き方しかしてこなかった御方なのだから。

「互いに望み、望まれる——あの子はきっと、そのような関係を貴方様と築きたいのでしょう」
 信仰と恩恵ではなく、尊敬と感謝を。
 神から人になった青年と、異邦の旅人。ひとりの人間同士として手を取り合おうとする、両者の思いは同じはずだと。

 彼女の言葉を受け、鍾離は思考する。
 ——自分はかの少年に対し、「恋人として」何かを望んだことがあっただろうか?

「……なるほど」
 短くない黙考を経て、形の良い唇に自嘲めいた苦笑が浮かんだ。
「やはり俺は、まだ人として未熟だな」
「ほっほっ、大丈夫ですとも。
 契約の本質は対等——それを誰よりも知る貴方様であれば、理解は容易いはずです」
「対等、か」
 数千年の長きにわたり、自らが人々に説いてきたその理念を、鍾離は改めて口にする。そんな彼の姿を見つめ、老女が感慨深げに微笑んだ。
「いずれにせよ、貴方様が日々平穏に過ごしてくだされば、それに勝ることはありません」

 ——きっと『彼女』も、そう思っていることでしょう。
 そんな言葉を、聞いたような気がして。
 鍾離は無言で湯呑を取り上げ、ゆっくりと香り高い茶を含んだ。



 4

 今日も、何の変哲もない一日になるはずだった。
 冒険者協会で引き受けた依頼をこなし、パイモンと軽口を叩き合いながら報告に向かう。報酬を受け取ったら、少し遅めの昼食をとって、その後は……一つ所に留まらない旅人の身とはいえ、平時は大体こういう日課の繰り返しだ。そう、想定外の事態が起こらない限りは。

 何の予兆もなかったのだ。
 璃月港へ続く道の脇、静かに佇む七天神像を何とはなしに見上げて、引き続き進もうと振り返ったら。
 像に祀られた張本人がそこに立っているだなんて、誰が予想するだろうか。

「息災だったか」
 錯覚かと思わず両目を擦ってみたが、その人物は消えるどころか、微笑みながら声をかけてきた。ああ現実なんだ、と空は他人事のように思う。
 かたわらに居たはずの相棒はと言えば、青年を見た瞬間、即座に姿をくらましていた。がんばれよ! という囁きを置き土産にして。
 彼女なりに気を遣ったのだろうが、この状況でいったい何を頑張れと言うのか。最初の驚きから冷静さを取り戻し、旅人は顔に出さないよう内心でため息をついた。

「お前が良ければ、少し時間をもらいたい」
 やや距離を置いて佇んだまま、鍾離が告げる。その美貌を見つめ、一度深呼吸をしてから、少年は自ら前へと踏み出した。
 次に彼と会う時は、いつも通りに接しようと決めていた。今の自分は、自然体を保てているだろうか? 一歩、二歩、腕を伸ばしてギリギリ触れないくらいの位置まで近づき、その長身を見上げる。
「どうして、俺がここにいるって分かったの?」
「お前の元素力は特徴的だ。璃月にいれば、足取りは追える」
 事もなげにそう告げた後、鍾離はもっとも、と続けた。
「よほどのことがない限り、そんな真似はしない。お前の自由に干渉したくはないからな」
 言われるまでは考えもしなかったが、確かに彼ならその程度、出来ておかしくはないだろう。納得すると同時に、あえてそれをしない理由もこの人らしい、と空は思った。
「……じゃあ、どうして?」
 使わないようにしていた手段を用いてまで会いに来たのは、つまり「よほどのこと」があったのか。先程とは違う意図を込め、再び青年に問う。
「気にかかっていることがあったからな。一度、話をすべきだと」
 そう言いかけて、鍾離は唐突に口をつぐんだ。息を吐き、小さく首を振る。
 彼がこんな風に途中で言い淀むのは珍しい。空は意外な心持ちで、次に続く言葉を待った。

「——お前の顔が見たかった」
「え」

 一瞬、何を言われたのかわからなくて。
 その意味を理解した瞬間、体温が一気に上がったような感覚に襲われた。
「あ、え、っと……」
 顔が熱くなる。何かしら返事をしなければと思うのに、言葉がうまく出てこない。
 もっと大胆なことだってしている仲なのに、何故こんな他愛のない一言に今さら動揺しているのか。自分で自分が不可解だった。
「迷惑だったか?」
 問われて、ぶんぶんと大きくかぶりを振る。うまく紡げない声の代わり、全力の身振りで返した答えに、青年はそうかと微笑んで。
「この程度の睦言ですら、俺はお前に言ってこなかったんだな」
 そう呟いた唇には、わずかな自嘲の色がにじんでいた。

「少し、歩かないか」
 促されるまま、二人並んで歩き出す。
 時は昼下がり。周囲に広がる風景はのどかそのものだった。街道を外れて進む彼らの髪を、風がさやさやと撫でていく。
 鍾離と居る時は、沈黙も心地よく感じられた。何も話さず景色を眺めていても気にならないし、いたたまれないと思ったこともなかった。しかし今だけは、この静寂に戸惑いを覚えずにはいられない。こちらから何か話すべきかと、旅人が思い始めた矢先。
「先日、お前に問われたことについてだが——」
「え?」
 反射的に訊き返すと、細められた朱金の瞳がこちらを一瞥した。
「俺が、お前に飽きているのではと訊いただろう」
「あー……あれは、その」
 ばつの悪い表情で、少年はがしがしと金の髪を掻き回した。なかったことにすると決めた矢先に、彼の方から言及してくるとは。
 一瞬、しらばっくれようかとも思った。売り言葉に買い言葉で、つい困らせてみたくなっただけなのだと。
 だがこうなった以上、ごまかして有耶無耶にするのは違うと思い直す。

「ごめん。完全に八つ当たり。
 だけど……正直、ずっと思ってたことだった」
 素直にそう白状すると、鍾離は訝しそうに眉を持ち上げた。
「俺に対する不満ならば、八つ当たりではないだろう?」
「いや……まあ、そうなんだけど……」
 問題はそこじゃない、と困惑半分、苦笑い半分の空を、赤みがかった琥珀の瞳が見つめた。
「その点については、はっきり否定しておきたい」
 断言する口調は、気休めを疑う余地などないほどに明瞭で。
 差し挟む言葉も思いつかず、空はただ沈黙でもって続きを促す。

「あの時は、俺も少々言葉が足りなかった」
 せせらぎの音が微かに聞こえてきて、どちらからともなく足を止めた。見下ろす先に、段が重なった特徴的な形状の池が広がる。雄大な景色を懐かしげに一瞥した後、青年の目が再び旅人を捉えた。
「過程はどうあれ、お前が選択したのならば、最終的に俺はその意志を尊重する」
 だが、と鍾離は続ける。
「だからといって、嫌でないとは言っていないぞ」
「……え?」
 ぽかんと見つめ返せば、それまで揺るがなかった視線がふと逸れた。腕を組み瞑目する仕草に、慣れない行為を試みるようなたどたどしさを、空は感じ取る。
「もしお前が、俺から離れることを望んだとしても」
「理由も訊かず、話し合いもしないまま、素直にお前の手を放すことはできないだろう」
 考え考え、言葉を選びながらのそれは、紛れもなく鍾離自身の思いの吐露だった。
 持って回った言い方も、自身についてめったに語らない彼が、精一杯こちらに気持ちを伝えようと努めた結果なのだと察せられたから。
「……先生」
 少年はただ、眩しげにその横顔を見る。

「お前は、俺ならそうしかねないと思ったのか?」
「…………ちょっとだけ」
「ははっ、ずいぶんと信用がない」
 まあ、自業自得ではあるな。そう言って、鍾離はほろ苦く笑った。
「昔の俺であれば、そうしていたかもしれない。だが、今はもう無理だな」
「それは、どうして?」
「さて、何故だろうな」
 煙に巻くような、どこかいたずらめいた微笑みで肩をすくめる。ごまかしているのか、それとも本当に彼自身にも理由がわからないのか。どちらともつかない様子に迷う空の前で、青年は笑みを収め真面目な表情へと戻った。

「少なくとも今の俺は、お前との関係を大切にしたいと思っている」
「ただ、それがお前に伝わっていなかったのは、俺の不徳の致すところだ」
 大いに反省しよう、と。
 真顔でそう言われて、空は腹の底からこみ上げる笑いを抑えきれなかった。
「何故笑う」
 合点がいかない様子の青年に、ごめんと上がった口角のまま告げて。
「なんて言うか、先生らしいなって」
 そう続ければ、ますます不可解な表情で首を傾げられる。どことなく子供じみたその仕草が、空をいっそう微笑ましい心地にさせた。ずっと心にまとわりついて離れなかった、ちっぽけな後悔や不満なんて、全部どうでもよくなってしまうくらいに。
 ひとしきり笑った後、その頬に触れようと手を伸ばして——

「おい! おまえら‼」
 背後から突如響いた大声に、空は反射的に青年から距離を取る。振り返れば、腰に手を当ててご立腹のパイモンがそこにいた。
「オイラのこと忘れてただろ⁉ 仲直りしたんなら早く言えよな!」
「自分から姿を消したくせに……」
「こっちはお昼ごはんを我慢してまで、空気を読んでやったんだぞ!」
 小さな体で目一杯ふんぞり返る相棒に、空は苦笑いを浮かべる。元は彼女の軽口が発端とはいえ、たくさん心配をかけたのは事実だ。この後の昼食は少し豪勢にしてあげようと考えつつ、かたわらの青年を振り返る。

「俺たち、これからお昼だけど、先生も一緒にどう?」
 是非にとうなずくその顔は、そこはかとなく嬉しそうで。
 とても人間らしい表情だと、空は思った。

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空鍾は二人とも達観してるおかげで、喧嘩するところが全く想像つきませんね。

2023.05.31 公開



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