水底に眠る獣


 スネージナヤから来た商人との商談を終え、「公子」タルタリヤは港湾地区を歩いていた。
 迎仙儀式での事件に端を発した混乱も収まり、璃月はかつての平穏と盛況を取り戻していた。タルタリヤにしてみれば、それは実に退屈で面白くない日常であったが、女皇のためとあらば大人しく機を窺うより他にない。
 ――それに、今は強く興味を惹かれる対象が璃月にいる。それを思えば、今しばらくこの地に滞在することも悪くないと感じられた。

 人波に溶け込みながら北国銀行への帰路をたどっていた青年は、前方に見覚えのある姿を見つけて立ち止まった。
 波止場周りにまばらに立つ露店の前、一人の青年が佇んでいる。一目見て上質と解る黒檀の衣を、一分の隙もなく着こなした長身。海風を受けて緩やかになびく髪に招かれるように、タルタリヤはそちらへと近づいた。

「やあ先生。買い物かい?」
 横合いからかけられた声に、露店を眺めていた青年が振り向く。
「……、タルタリヤ殿か」
 一瞬の間があったのは、「公子」殿といういつもの呼び方をとっさに引っ込めたせいだろう。その名を呼ばなかったのは、いま現在、璃月での立場が大変よろしくない自分を慮ってのことか……それとも、単に面倒を避けるためか。まあ後者かな、とタルタリヤは苦笑した。

 往生堂の客卿。その正体は、七神の一柱たる岩神モラクス――そして今となっては、「鍾離」という名の一介の凡人。
 先の騒動を経てもなお、二人は折に触れて食事や酒を共にする間柄であった。出し抜かれた悔しさはあるものの、タルタリヤは特に鍾離に対して遺恨を持ってはいなかったし、鍾離の方も、一歩間違えば璃月に破滅的な被害をもたらしていたかもしれない公子に対し、特に悪感情を抱いている様子はなかった。
 もっとも、神であった身からすれば気にするほどのことではないのかも知れない。タルタリヤとしては侮られているようで業腹ではあったが、いずれその傲慢を力で打ち負かしてやれると思えば、これはこれで悪くなかった。

 そんな内心はおくびにも出さず、人懐こい笑顔でさらりと皮肉を口にする。
「またいつもの無駄遣いかな」
「人聞きの悪い。俺は無駄な買い物をしたことなど無いぞ」
「はいはい、その大した自信はどこから来るんだろうねえ」
 皮肉とも冗談ともつかない応酬を交わしながら、タルタリヤは露店に並ぶ品々を眺める。
「で、何を探してるの?」
「ああ、返礼の品をな」
 世話になっている相手に、感謝の意を込めて菓子を贈る――そういう風習が先月あったことにタルタリヤがすぐに思い至ったのも、他ならぬ彼自身、そろそろ返礼を用意しなければなどと考えていたところだったからだ。
 しかし、とタルタリヤは思う。
 見れば、この露店に並ぶ品は工芸品だの装飾品だの、そこそこ値が張りそうなものばかり。この青年の趣味で立ち寄るには相応しい品揃えかも知れないが、日頃の感謝を表す贈り物の返礼品を探すには、いささか不向きなのではないか。
「……菓子のお返しにしては、ちょっと大袈裟すぎない?」
 鍾離が手に取っている、精緻な銀細工の杯に視線を向けて、タルタリヤはそう指摘した。
「だが、日頃世話になっている相手へ贈るのだから、これくらいは妥当ではないか?」
「いやいや重いって!」
 呆れたように両手を肩の上に挙げる青年を、鍾離は怪訝な表情で見ている。
「消え物、って言うでしょ? こういうのはね、後に残らないものが重すぎなくてちょうどいいんだよ」
「ふむ、そういうものか」
 いまいち実感のなさそうな顔を見るにつけ、やはり彼が常人の感覚を理解する日は遠そうだ、とタルタリヤは肩をすくめた。
「しょうがないなぁ。俺もちょうどお返しを買わなきゃと思ってたし、ついでに付き合いますか」
 ほらこっち、と青年の腕を引く。完全に納得したわけではない雰囲気を漂わせつつも、彼は反論せずその場を離れた。



 鍾離と共にタルタリヤが向かったのは、少し離れた場所にある別の露店だった。
 片や異国の色彩を纏う長身の美丈夫、片や美術品めいて整った造作の、これまた長身の麗人。そんな両者が一緒にいる様は、否が応でも人目を惹く。近隣の店を見ていた客達――特に女性――に、浮足立ったざわめきが広がった。
 しかし当の本人達は、そんな周囲の視線も意に介さず、店先の商品を眺めているのだった。

 色とりどりに飾り付けられた台に並べられた菓子は、工芸品と言っても通りそうな細工だった。糖蜜の甘い香りが、潮の匂いと混じり合って鼻先をくすぐる。
「見事なものだな」
 感心したように呟く鍾離の視線は、ある一点を見つめていた。蓮の花を象った蜂蜜色の飴細工――誰かを思い出させる、柔らかな色彩。
 往生堂の客卿として、その豊富な知識で各方面から頼りにされている彼であれば、付き合いのある者から少なからぬ「感謝の品」を貰っているだろうことは想像に難くない。にも関わらず、彼が返礼を贈ろうとしている相手について、タルタリヤはあるひとつの確信を持っていた。

 形の良い顎に手を添え、真剣に品物を見定める横顔に向かって、ところで、と切り出す。
「『返礼』ってさ――あの旅人に?」
「そうだ」
 至極当然のように、青年が頷いた。だろうね、と口の中で呟く。
 そう、つまりは。

「――ライバル、だね」
「何?」
 笑顔で告げるタルタリヤに、鍾離が首を傾げる。
「ハハッ、何でもないよ」
 相手が言葉の意味を理解できないと見越していたかのように、タルタリヤは人好きのする笑みでその場を流した。

 「本命」については後でじっくり考えたかったので、ここでは買わないでおくつもりだった。陳列された商品から適当に複数個を見繕い、タルタリヤは同行者を振り返る。
「先生、決まった? 一緒に支払っとこうか?」
 さも当たり前のように申し出たものの、鍾離はいや、とかぶりを振った。
「大丈夫だ。自分で払う」
 おや珍しい、と湖水色の目を見張れば、ややムッとしたような視線が返される。
「他者へ贈る物だ、自分の金で買うのは当然だろう」
「へえ、成長したもんだ。以前箸をくれた時は俺にツケてきたくせにねぇ」
「あれはあくまで見立てただけだからな」
 皮肉を言うも平然と返される。数千年ものの面の皮は流石に厚い、とタルタリヤは半ば感心した。


 会計をする鍾離に背を向けて、タルタリヤは蒼穹を見上げる。
 さて、自分は何を贈ろうか。鍾離があれだけ真剣に選んでいたのだ、こちらはより周到に、強く印象に残るものを用意せねばなるまい。

 ――まだ誰のものでもない、あの旅人のために。

 今日のことではっきりと解ったが、鍾離には未だ自覚がない。自身がかの異邦人に対して向ける感情の本質を理解していない。だが、タルタリヤは見抜いていた。それが、自分の抱く想いと同じであることを。
 このまま出し抜くこともできようが、それは彼の趣味ではなかった。わざわざアドバイスを送ってやったのもそのため。競争相手が居た方が、より張り合いが出るというものだ。
 あの凡人一年生には、もう少し自覚を持ってもらわねばならない。相手が強大なほど、こちらが不利であればあるほど――戦いというものは面白くなるのだから。

(ここで支払いに乗ってくれれば、ちょっとばかり嫌がらせが出来たのに、ね)
 いやはや残念、と。
 相手に向けた背中の裏で、青年はただ肉食獣の如くしなやかに、獰猛に笑った。


OFUSEで応援 Waveboxで応援


公式からのホワイトデー供給で頭がおかしくなった結果の産物です。



PAGE TOP