今はどうか良き夢を
1
璃月港。
テイワット大陸最大の商業港、質実剛健にして絢爛なる契約の都。岩の神が自ら築いたと伝えられる街には、今日も数多の人々が行き交う。
朱に彩られた建物が並ぶ目抜き通り、その奥まった一角に、ひっそりとその店はあった。
「往生堂」――それは死者を送るための場。まるで避けているかのように、表通りの喧騒もこの一帯には届かない。
奇妙な静寂は、微かに軋む蝶番の音で突然破られる。やや褪せた朱塗りの扉が開き、長身の男性が現れた。最上級の石珀に似た金の瞳が、折からの曇り空を見上げる。
「――あっ! 鍾離ー!」
突如として響いた金切り声に、鍾離と呼ばれた青年が振り向いた。後ろでひとつに束ねた髪が、その動きを追って優雅な軌跡を描く。
「はあっ、はぁ……よ、良かった……」
息せき切って彼のそばに駆け寄って――否、文字通り飛んできた、幼い少女。しかし、彼女がただの人間の子供でないことは、宙に浮かぶその姿からも明白だった。
「パイモンか。どうした」
整った面にわずかな不審の色を刷き、青年が訊ねる。いつもならその隣に居るはずの、金髪の少年の姿がどこにも見当たらなかったからだ。
異邦の旅人と、その「最高の仲間」を自称する少女は、いつもそろって鍾離の下を訪れる。彼女が単身で訪ねてきたのは、これが初めてだった。
「お願いだ、助けてくれ! そ、空が……!!」
青ざめた顔でまくしたてるその姿に、常の陽気さは無い。ただならぬ気配を感じ取り、鍾離の目元が険しくなる。
「落ち着くんだ。空に何かあったのか?」
「それが、急に様子がおかしくなったと思ったら、気を失っちゃって……オイラだけじゃどうしようもないんだ、頼むよ!」
わかりやすいとは言いがたい説明だったが、青年はおおよその事情を察した。そして、事態は一刻を争うであろうことも。
「わかった、行こう」
考えるまでもなく即答した。かの旅人には、先日の一件で世話になった恩がある。それに、鍾離は個人的に彼のことを気に入ってもいた――それこそ、友と呼んで差し支えないくらいには。
「こっちだ!」
一刻すら惜しむように飛び出す少女の後を追って、青年は黒檀の衣を翻した。
※
時は半日ほど前に遡る。
広大な璃月の各地を結ぶ街道から、やや外れた川のほとり。のどかな風景にそぐわぬ緊張感をみなぎらせ、二つの影が戦いを繰り広げていた。
飛来した氷の刃を、少年は軽やかにかわした。ひとつに編んだ金色の髪が、踊るように弧を描く。
その蜂蜜色の双眸が鋭く見据える相手は、アビス教団に与する魔術師。氷の障壁に守られた魔物は、奇妙な文言を唱えながら、手にした杖を掲げた。
次の瞬間、中空に新たな氷塊が出現、旅人の頭上に降り注ぐ。
「あっ、危ないぞ!」
少し離れた上空から、相棒の金切り声。それが耳に届くより先に、少年は既にその場から跳び離れていた。体勢を立て直すと同時に、右手を前方へ突き出す。
「荒星!」
凜とした声に呼応するかのように、魔術師の頭上から突如として岩塊が降ってきた。氷と岩、二つの元素が激しくぶつかり合う。
先に砕けたのは――障壁の方だった。守りを失った魔術師の矮躯が吹き飛び、地に叩きつけられる。
その隙を見逃さず、少年は駆けた。自身が生み出した岩を蹴って跳び、よろよろと起き上がる魔術師へと肉薄する。
最後の抵抗とばかり、苦し紛れに撃ってくる氷弾を、手にした剣で弾き散らした。首筋に走ったわずかな痛みも意に介さず、勢いを鈍らせることなく得物を構え直して。
閃いた刃が、敵の急所を正確に捉える。濁った悲鳴と共に、魔術師の体は地面を跳ねるように転がっていき、やがて倒れたまま動かなくなった。
敵の骸が黒い塵となって消えたことを確認してから、金髪の少年はようやく緊張を解いた。
「空! 大丈夫か?」
戦いが終わったと見て、巻き込まれないよう退避していた少女が戻ってくる。喜びと心配が半々といった表情の相棒に、空と呼ばれた少年は笑顔を返した。
「うん、平気」
一息ついたと同時に、ちくりと微かな痛みが走る。反射的に首筋を押さえる仕草を見て、少女が首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「何か、ちょっと痛むような……パイモン、見てくれる?」
そう促され、少女――パイモンはふわふわと宙を滑り、旅人の右側へと回り込んだ。彼が示す箇所を覗き込み、小さな手で口元を押さえる。
「あっ、傷が……少しだけど、血が出てるぞ」
大丈夫なのか? と心配そうな表情を浮かべる彼女に、空は笑ってかぶりを振ってみせた。
「それくらいなら、気にしなくて大丈夫だよ」
念のため、手持ちの薬草で軽く止血と消毒をしてから、少年は相棒と共に璃月港への帰路についた。
彼方に淡く朱塗りの街並みが見え始めた頃、突如としてその異変は起きた。
さして気温も高くないのに、汗が吹き出し全身を濡らす。服が肌に貼り付く感触に、少年は顔をしかめた。
足取りは次第に重く、乱れる呼吸。ついさっきまで軽快に歩いていたはずの道が、突然ぬかるむ泥沼と化したように感じられる。
「空?」
足を止めた少年を、パイモンが怪訝そうに振り返った。彼は言葉を返そうとして――そのまま地面に膝をついてしまう。
「お、おい! どうしたんだよ!?」
うろたえる少女の声に、旅人は大丈夫と返すものの、それが虚勢であることは誰の目にも明らかだった。
無意識に首筋へ触れた右手に、灼けつくような熱が伝わる。加速度的に重くなる身体を叱咤して、少年はふらふらと立ち上がった。
「無理するなって! ど、どこか休めそうな場所は……!」
必死の形相で飛び回るパイモンに先導されて、近くの岩場へと向かう。
いつもなら少し走ればたどり着く程度の距離が、今は果てしなく遠い。歯を食いしばり、少年はひたすら前へと進んだ。
岩壁に手をつきながら進み、ぽっかり空いた横穴に身を隠したところで、ついに力尽きたように少年の身体が崩折れた。
「そ、空!? おい、しっかりしろよ!」
地に伏した少年の身体を、パイモンが小さな手で懸命に揺さぶる。しかしどれほど名を呼んでも、彼が目覚める様子は無く、必死に呼びかける声はただ洞穴の奥へと吸い込まれるのみだった。
少女はしばらくの間、倒れた旅人の周囲をおろおろと飛び回っていたが、やがて意を決したように洞穴を飛び出していき。
後にはただ、静かに倒れ伏す少年だけが残された。
2
「あそこだ!」
パイモンが鍾離に示したのは、岩肌に穿たれた小さな洞穴だった。街道からは死角になっている上、周囲に生い茂る草が入口を見えにくくしている。意図して道を外れない限り、その存在に気づくことは難しいだろう。
洞穴へ飛び込む少女を追って、鍾離もその中へと足を踏み入れる。湿った土の匂いが漂う闇を透かして見ると、前方に人らしき輪郭がうっすらと見えた。
「おーい、空ー! 助けを呼んできたぞ、しっかりしろ!」
洞の入口から少し進んだところに、金髪の少年が倒れていた。パイモンの呼びかけにも反応する様子はなく、ぐったりと目を閉じている。
その様子を一瞥するなり、鍾離は膝をついて力無い身体を抱き起こした。左手を宙にかざし、掌の上に岩元素の結晶を生み出す。ふわりと漂うそれは柔らかな燐光を帯びて、洞穴内部を橙色に照らし出した。
少年の額に触れてみれば、手袋越しにもはっきりと伝わってくるほどの高熱。
青年は顔をしかめ、傍らの少女を振り返った。
「倒れた原因について、何か心当たりはあるか?」
「原因……」
パイモンはしばし沈黙した後、記憶を辿るようにぽつぽつと話し始める。
「オイラ達、アビスの魔術師と戦って……その後、璃月港へ向かってたら、急に空の様子がおかしくなって」
「負傷していたのか」
「首にかすり傷はあった、けど……」
鍾離の意思に応じ、浮遊する明かりがすっと移動して空の首筋を照らす。少女の言う通り、そこには傷らしき跡があった。それ自体は指先程度の大きさしかなく、既に出血も止まっている。だが、その周囲の皮膚は赤黒く腫れ上がり、明らかに異常な状態を呈していた。
しばし難しい表情で考え込んだ後、鍾離がパイモンを振り返る。
「すまないが、乾いた枝を集めてきてほしい。まずは火を起こす」
「わ、わかった!」
慌てて外へと飛んでいくパイモンを尻目に、青年は再び首の傷を検め始めた。
赤橙色の炎に照らされて、岩壁にゆらゆらと影が落ちる。
「――間に合わせだが、これで少しは良くなったはずだ」
応急処置を終え、鍾離はひとつ息を吐いた。
「そ、空は、大丈夫なのか?」
宙を滑るように寄ってきたパイモンが、意識の無い少年の顔を心配そうに覗き込む。外していた手袋をはめ直しながら、青年は厳しい表情を崩さずにかぶりを振った。
「おそらく、原因は毒だろうな」
「ど、毒!? でも、空はアビスの呪いを浄化できるのに……」
「呪いではない。もっと物理的な……動植物から採取、調合した類の毒物と見る」
単純であるが故に、盲点となりうる――そう独りごちて、静かに横たわる少年へ視線を戻す。
「ある程度の処置はしたが、俺は専門家じゃない。出来るだけ早く、医者に診せるべきだな」
とは言え、と鍾離は嘆息する。
街へ連れ帰り、すぐにでも清潔な寝床で休ませてやりたかったが、この高熱では下手に動かすのもはばかられる。少なくとも彼の意識が戻るまでは、今しばらくここで待つしかない。
「空は俺が見ていよう。お前も、今のうちに休んでおくといい」
青年の提案に、パイモンはしばらく迷った後、素直にうなずく。
「じゃあ、そうさせてもらうぞ……ふわあぁ」
大きなあくびと共に、少女は敷布の上にこてんと寝転がった。
程なく寝息を立て始めた姿を眺め、鍾離は慈しむように目を細める。倒れた旅人の身を案じながら、助けを求めに飛び回っていたのだから、疲れるのも当然だろう。
入口の方から、風の唸るような音が聞こえてくる。強風が吹いているのか、焚き火の炎が揺らめいた。
鍾離は傍らに積んであった枝を取り、二つに折って焚き火に投げ込んだ。火を絶やしてしまえば、周囲の温度は一気に下がる。自身はともかく、怪我をしている少年に影響があってはならない。
その時、風の音に混じって、微かな呻き声がした。視線を向けると、横たわっていた少年が微かに身じろぎする。
にじり寄って顔を覗き込めば、ゆっくりと青白い瞼が上がった。
「……う、……あれ、俺……」
「目が覚めたか」
ぼんやりと瞬きを繰り返す蜂蜜色の瞳と、見下ろす鬱金の瞳がかち合う。
「……せん、せい……?」
何故ここに、と問う視線に、鍾離は手短に告げた。
「お前が倒れたと、パイモンから聞いた」
「そ、っか……来てくれた、んだ」
わずかに嬉しそうな微笑みを見せた後、少年は肘をついて上体を起こそうとした。その拍子に、掛けていた薄い毛布がずり落ちる。
「まだ熱がある。動かない方がいい」
「大丈夫、だよ。これくらい」
青年の制止も聞かず、空は起き上がろうとするも、途中でふらりとバランスを崩す。倒れ込む上半身を、鍾離がとっさに抱き止めた。
「無理をするな」
「へ、いき、だって……」
なおも諦めずもがく両手が、青年の肩を掴む。しかしそれも一瞬のことで、力なく外れた手と共に、少年の身体がずるずると倒れ込んだ。
「今下手に動けば、回復を遅らせる。大人しく寝ていることだ」
諭す言葉に食い下がろうとする声は、もはや意味ある言語の体を為していなかった。二、三度身じろいだ後、小柄な体躯が動かなくなる。
彼が完全に眠りに落ちたことを確かめてから、ふ、と鍾離は息をついた。自身の膝の上に乗っている頭を見下ろし、しばし思案する。
寝床に戻してやりたいのは山々だが、下手に動かして起こそうものなら、この強がりな少年はまた無理にでも起き上がろうとするに違いない。
(……このまま寝かせておくか)
そう結論づけると、青年は腕を伸ばし、引き寄せた毛布を少年の身体にそっと掛け直した。
※
ぱち、と炎が爆ぜる。
先程まで荒れ狂っていた風も、今はいくらか凪いでいた。火が消える心配をしなくてもよくなったことに安堵しつつ、鍾離は岩壁に背を預けて目を閉じる。
人ならぬ身である彼にとって、眠りは本来必須ではない。普段は凡人の生活様式に合わせて睡眠を取っているだけで、こうして寝ずの番を務めたところで支障は全くなかった。
瞑目したまま、右大腿部に乗る重みに意識を向ける。時折わずかに動くものの、目覚める気配はない。この枕ではさぞかし寝心地も悪かろうが、そこは我慢してもらうしかないな、と鍾離はひとり苦笑した。
やがて風はすっかり止み、外から微かに虫の声が響き始める。
その中に一瞬、人の声を聞いた気がして、鍾離はまぶたを上げた。パイモンの寝言かと思ったが、どうもそうではないらしい。
空耳だったか、と首を傾げた時。
「……う……」
その微かな声は、ごく近いところから聞こえた。
視線を下げれば、自身の膝の上、眠る少年が苦悶の表情を浮かべていて。
(……!)
すぐさま額に触れ、脈を取る。熱は相変わらず高いが、脈拍に異常は無い。容態が悪化したわけではなさそうだと見て取って、青年はひとまず安堵する。
「ま、って……く、な……」
鍾離の視線の先で、旅人は眉を寄せ、うわ言を呟いている。微かに頭を左右に振るような仕草は、さながら頑是ない子供のよう。
(うなされている、のか)
悪い夢でも見ているのだろうかと、青年が考えていたその時。
「……蛍……!」
絞り出すように発せられたその名に、鍾離は聞き覚えがあった。少年が探していると語っていた、双子の妹。
見守る青年の前で、何かを求めるように宙へと伸ばされる右手。
届くことはないと知りながら、そうせずにはいられない――わななく指から悲愴な決意を感じ取り、鍾離は反射的に金の瞳を伏せた。
正体不明の神に連れ去られた半身の行方を求め、七神に会う旅を続ける少年。
ただひとりの肉親と生き別れた哀しみ、不安――平時は押し隠していたそれらの感情が、肉体の弱った隙を突き、夢という形を取って表れたか。
目を閉じ、ひとつ息を吐いてから、鍾離は顔を上げた。一度はそらした黄金の双眸が、決して届かぬ幻を掴もうとする少年の手を再び捉え、見据える。
神の座を下り只人となった今、この旅人の目的のために自身がしてやれることはほとんどない。原初の契約がこの身を縛る限り、テイワットという世界の理を語ることすら許されはしないのだから。
何の助けにもならない気休めなど、きっと彼は望まない。
そうと解っていても。
伸ばされた手を、取らずにはいられなかった。
「――大丈夫だ」
小さく震える手を握り、鍾離はささやく。
頼りなく宙を掻いていた指が、ゆっくりと、すがりつくように握り返してくる。臆することなく剣を振るう普段の姿からは、想像も出来ないほど弱々しい力で。
「大丈夫だ」
もう一度、繰り返す。
終わらない旅はない。どれほど長く困難な旅路であっても、いつか必ず終着点へ至る。
その時、旅人の曇りなき瞳にどんな景色が映るのかはわからない。それは、神であろうと知る由のないこと。
この世界において、神とは決して万能の存在ではない。長き時を生きたところで、この身はただ過去を記憶するのみ。未来を知る術など持たず、明日に何の保証も出来はしないのに。
それでも、鍾離はあえて口にした。
大丈夫だ――と。
黄金の瞳が見守る中、いつしか少年の表情からは、苦悶の色が消えていた。唇はうわごとを発しなくなり、やがて穏やかな寝息へと変わっていく。
その変化は、まるで青年の言葉が聞こえたかのようで。
そんなはずもなかろうに、とひとり苦笑しつつも、わずかでも気休めになっていればいいと鍾離は思う。
再び深い眠りについた少年に安堵し、繋いでいた手を離そうとして。
しばし考えた後、軽く握り直す。
ただの自己満足に過ぎないとわかっている。それでも、今しばらくはこのままでいてやりたいと、そんな気持ちになったのだ。
こんな時、凡人ならばきっと神に祈るのだろう。
ならば自分は――かつて神であった者は、何に祈るべきだろうかと、鍾離は自嘲めいて笑う。
せめて、夢の中だけでも安らかであれと。
祈りを捧げる先がなくとも、彼は心からそう願った。
3
泥のような眠りの中から、ゆっくりと意識が浮上する。
まだ惰眠を貪りたいと主張するまぶたを叱咤して、無理矢理に目を開く。二、三度瞬きの後、徐々に晴れる視界にまず入ってきたのは。
「起きたか」
こちらを見下ろす、綺麗な顔。
ずいぶん近いな、などとぼんやり考えて――唐突に意識が覚醒し、空はがばりと上体を起こした。一瞬、めまいに襲われてふらつく身体を、大きな手に支えられる。
「急に動かない方がいい」
「ご、ごめん……」
謝りながらも、目下の落ち着かない状況から一刻も早く抜け出したいという思いで、少年の頭は占められていた。この端正な顔が目の前にあるのは、とにかく心臓に悪い。
渋い表情の鍾離に悟られぬよう、さりげなく一定の距離を確保してから、空はようやく一息ついた。そして、真っ先に浮かんだ疑問を口にする。
「あの、俺、もしかして」
ずっと、先生の膝で寝てた……?
言葉にするのもためらわれたが、どうやら表情から伝わったらしい。至極真面目な顔で、青年がああと頷いた。
「寝心地は良くなかったろうが、ひとまず休めたようで何よりだ」
「うわぁ……」
何をどうしてそんな状況になったのか、全くもって記憶が無い。前後不覚に陥っている間、自分はこの青年に一体どれだけ迷惑をかけたのか。
恥ずかしさと申し訳無さが同時に襲ってきて、空は思わず顔を覆った。
「何かもう、ごめんなさい……」
正座して身を縮める少年を眺め、鍾離がくすりと笑う。
「その言葉は、俺よりもまず彼女に言ってやるといい」
ずいぶんと心配していたぞ、と告げられ、空は慌てて視線を巡らす。
「そうだ、パイモン!」
見れば、焚き火を挟んだ向こう側、眠っていた少女がちょうど起き上がったところだった。あくびと共に伸びをして、起きている二人に気づく。
「あっ、空! もう大丈夫なのか!?」
慌てて飛んでくる少女に、空はだいぶ良くなったよと笑ってみせた。
「よ、良かった~……。オイラ、一時はどうなることかと思ったぞ」
「心配かけてごめん。それと、鍾離先生を呼んできてくれてありがとう」
つぶらな瞳を潤ませる相棒に謝罪と礼を伝えた後、傍らで見守る青年へと向き直る。
「先生も、助けてくれてありがとう」
「その礼は、お前が完全に回復した後に受け取ろう」
至極真面目な表情でそう答えて、鍾離は右手を差し伸べた。
「動けるようなら、すぐに璃月港へ戻るぞ。
俺はあくまで応急処置をしただけだ。出来るだけ早く、専門医に診せた方がいい」
「うん」
そこまでしなくてもと思わないでもなかったが、そうやって甘く見た結果がこの体たらくだ。迷惑をかけたにも関わらず、文句ひとつ言わず自分を案じてくれる彼の厚意を無碍には出来なくて、空は素直に従うことにした。
手を貸すか、という申し出には笑顔で首を振り、自分の足で歩き出す。
璃月港へ向かう道すがら、ふと空は自身の右手を見た。
――眠っている間、ひどく悪い夢を見ていた気がする。
暗闇の中、遠ざかっていく妹の背中。必死に追うも一向に追いつけず、ただ必死に名を呼び手を伸ばすしかできない、そんな夢。
やがて彼女の姿は見えなくなり、泥のように粘りつく闇が自分を押し包んだ。必死にもがいても、囚われた身体は動かない。伸ばした手は空を切り、叫ぶ声も届かず、ただ無力感と絶望に押し潰されそうになった時。
何もつかめず、ただ無為に宙を掻くだけだった手を、誰かが握ってくれたような気がした。
あたたかい。そう思った瞬間、微かな声が聞こえた。
大丈夫だ――と。
(あれは……)
本当に、夢だったのだろうか?
空は自問する。
曖昧な、けれど確かに残る感触を確かめるように、右手を握っては開いて。
(もしかして――鍾離先生が?)
先に立って歩く、すらりとした長身を見つめる。
その後ろ姿は、いつも通り凛として、少しだけ近寄りがたく。
まさかね、とかぶりを振って、空は先を行く背中を追いかけた。
鍾離先生に空くんを膝枕してほしいだけの人生でした。