残香


 1

「おおっ、見ろよ空! 出店がいっぱいだぞ!」
 大勢の人でごった返す通りを見渡して、パイモンが感嘆の声を上げる。
 祭の最中とあって、璃月港の港湾地区は無数の露店が立ち並び、訪れた人々の目を惹こうと景気の良い呼び込みを響かせていた。
「屋台があっちにもこっちにも……うぅ、どれも美味しそうだなぁ……」
 相変わらず食べ物しか目に入っていない相棒の様子に苦笑しながら、空ははぐれないようにねと釘を刺す。いくら宙を飛べる彼女とて、この人波に飲まれたら互いを探し出すのに苦労することだろう。
 
 人混みをぬって歩けば、通りの両脇に並んだ露店が次々と視界に入ってくる。華やかな異国の織物、精巧な細工を施した装飾品、色とりどりの玩具——もし妹が一緒にいたなら、きっと目を輝かせて見入っただろうに。
 重苦しい感傷に沈んでいた空は、香ばしい屋台料理の匂いで満ちる中、一瞬鼻先をくすぐった香りにふと顔を上げた。
 導かれるように視線を巡らせると、すぐ横の露店が目に入った。様々な形、色とりどりの容器が敷布の上に整然と並んでいる。何とはなしにそれらを眺めていた空の視線が、ある一点で止まった。
「ん、どうした?」
 急に足を止めた相棒を、パイモンが不思議そうに覗き込む。そんな彼女に、空は掌大の容器のひとつを指差した。
「ほら、これ。覚えてない? 送仙儀式の時に作ったでしょ、香膏」
「んー……ああ、あれか!」
 パイモンはしばらく考えた後、ぽんと小さな手を打ち合わせる。少年の指した容器の下には、『縹渺たる仙縁』と書かれたラベルが付いていた。
「三種類作って、岩王帝君に選ばれたのがこの香りだった」
「お前、よく覚えてるなぁ」
 感心しながら宙でくるりと一回転した後、少女はあれ、と首を捻る。
「あの時はわかんなかったけどさ、岩王帝君の好みってことは、つまり鍾……アイツが好きな香りってことか?」
「……そう、なるかな」
 言われてみれば、と空は朱色の香合を見つめる。
 少し前、隠された岩神の亡骸に会うため、葬儀屋の客卿を名乗る青年に請われて送仙儀式の準備を手伝った。その時に調達した物品の中に、この霓裳花を用いた香膏があったのだ。その時は、儀式を主導している当人こそ岩王帝君その人であるとは夢にも思っていなかったのだが……。
 
「お、少年、お目が高いねぇ。その香膏はちょっと変わった配合でね、贈り物にぴったりだよ」
 空が興味を持ったと思ったのか、店主が商品を勧めてくる。
「へー、普通の香膏とは違うのか?」
 パイモンの質問に、我が意を得たりとばかりに店主が解説を始めた。
「一般的な霓裳花の香膏は、花の香りを活かすために他の原料は入れないんだ。だが、こいつには複数の原料が使われててね。普通のものとは一味違った香りが楽しめるんだよ」
「へえ……」
 勧められるまま、香りを嗅いでみる。確かに、以前作ったものはもっと鮮烈な花の香りがしていた気がする。今手にとっている香膏は、もっと自然な——言うなれば、花の咲く草原に似た香りだった。
「確かに、ちょっと違うかも」
 空は呟き、手の中の容器を見つめる。
 岩王帝君が好む霓裳花の香り。香膏を捧げに行った時の、岩神像を見上げる精緻な横顔が脳裏を掠めた。この香りは、かの青年に似合うだろうか——?
「どうだい、気に入ったなら安くしとくよ? 気になる子に贈れば喜ばれること請け合いだ」
 店主の声に、我に返った空の頬が微かに赤くなる。
「べ、別にそういうつもりじゃなくて」
 口ではそう言いつつも、すっかり買う気になっている自分に気づく。自分でも理由はわからないが、何故か離れがたく感じる香りだった。
 そこそこ値が張るのではと値札を確認したが、量が少ないせいかさほど高くはない。いくばくかの値切り交渉の後、空はその香膏を購入した。


 2

 その人は、いつも独特の香りをまとっていた。

 黒檀の裳裾が、微風に優雅な弧を描いて翻る。その様を目で追っていた空の鼻先を、ふわり、掠め過ぎた香り。何とはなしに、思ったことを口にする。
「鍾離先生って、いい匂いがするよね」
 驚いたように軽く見開かれた金の瞳と、すぐ隣から刺さる不審げな視線。深く考えずに発言したことを、空は即座に後悔した。
「空……お前、大丈夫か……? お腹空いたのか?」
 小さな相棒が心配そうに顔を覗き込んできて、いたたまれない気分になる。
「ち、違うって! ほら、パイモンもそう思わない?」
「うーん……?」
 パイモンは首を傾げると、傍らに佇む青年の服に顔を寄せた。
「うぅん、確かに何か香りがする……かも?」
 突然匂いを嗅がれることになった当人は、整った面に苦笑いを浮かべながら口を開く。
「良い香りかどうかはわからないが……もしかすると、香のせいかも知れないな」
「香?」
 問い返す空に、鍾離はああと頷く。
「往生堂には、儀式に使う香木や抹香が多数保管されている。その匂いが、服に移ったのかも知れない」
「なるほど……」
 言われてみれば、確かにお香っぽい匂いかも、と空は思う。
「興味があるか? 機会があれば見せてやろう」
 そう告げる彼の、どこか秘密めかした風に微笑むその表情は、微かに甘い感傷と共に空の記憶に刻まれた。



 夜。璃月の中心部から外れた区画に立つ、安宿の一室にて。
 
 重ねた腕の上に顎を乗せ、空は机に置いた小さな紙袋を睨んでいた。
 袋の紙質は極めて薄く、中身が透けて見える——掌に収まる程度の、円い朱色の香合。
 はあ、と溜息をつく。
(これ、どうしようかなぁ……)
 先日、祭りの露店で買い求めた品。あまり考えず勢いで購入してしまったが、今になって後悔の念が襲ってきた。
 元々、自分で使うために買ったわけではない。探索の手伝いや知識の提供など、何かと世話になっている人物に礼として贈ろうと思ったからだった。
 だが、よくよく考えなくとも、男性への贈り物に香膏は不自然ではないか?
 嗅いだ限り、男性がつけていても違和感のない香りではあったけれども、同性の自分から香膏を贈られたところで、彼も困惑するだけではないだろうか。
 何故買う前に気づかなかったのかと自分でも思う。祭りの熱気にあてられていたせいだ、と自分に言い訳するのも虚しかった。
 
 もう一度大きく溜息をついて、空は席を立った。紙袋を取り上げ、皺にならないよう丁寧に鞄へとしまい込む。
 明日は午後から約束がある。午前中に冒険者協会からの依頼を片付けておかねばならない。答えの出ない迷いを振り払い、空は寝台へと潜り込んだ。


 3

 依頼された魔物討伐を終え、璃月港に戻ってきた頃には、既に日は中天高く昇っていた。
 息せき切って万民堂へ飛び込んだのが、約束の時間ちょうど。先に席へついていた待ち合わせの相手が、軽く片手を挙げて居所を示す。
「ごめん先生、予想以上に手間取っちゃって」
「いや、俺も先程来たところだ。気にする必要はない」
 鷹揚に頷いて、青年は空に椅子を勧めた。
 今日の午後は、鍾離に遺跡探索で得た物品を見てもらう約束をしていた。せっかくだから昼食も一緒に摂ろうという先方の申し出を受け、合流場所を万民堂にしたのだった。
「鍾離さん、お待たせ! あっ、旅人も来てたんだ」
 料理を運んできた香菱が、空に明るく笑いかける。何にするー? という声に、空はパイモンと相談の上、無難に本日のおすすめを頼むことにした。


 香菱の特製メニューに舌鼓を打った後、万民堂を出た三人は石畳の通りを歩き出した。
 てっきり往生堂にでも向かうのかと思っていたが、鍾離は違う方向へと進んでいく。疑問を呈する空に、青年はああ、と頷いた。
「俺の自宅でいいかと思ったんだが、何か不都合があるか?」
「先生の、家……!?」
 あまりにも予想外の言葉に、空は驚愕の眼差しで青年を見る。
 考えてみれば至極当然の話ではあるのだが、鍾離本人が生活感というものを一切感じさせないせいで、その事実に思い至らなかったのだ。パイモンも空と同じような認識だったらしく、星の散る瞳を丸くして素っ頓狂な声をあげる。
「えっ、鍾離、家なんて持ってたのか!?」
「……俺を何だと思っているんだ、お前達は」
 いささか憮然とした表情で、青年は腕を組む。
「凡人として暮らすからには、そのための住処があるに決まっているだろう」
「ごめん、なんて言うか……先生の私生活って、あまり想像できなくて」
 しかし、貨幣を生み出す神であった頃の感覚が未だに抜けていない彼が、果たしてまともな生活を送れているのか。空は心配せずにいられなかった。
 そんな少年の内心は露知らず、鍾離は苦笑めいた表情を浮かべる。
「まあ、滅多に人の来ない家だからな。大したもてなしは出来ないかも知れないが」
「えっ、そうなのか?」
「先生って顔が広いし、家にもいっぱいお客さんが来るんじゃないの?」
 パイモンと空は意外な面持ちで、揃って傍らの横顔を見上げる。
「いや、そうでもない。仕事なら大体は俺の方から出向くし、俺への連絡はほぼ往生堂経由で来るからな。家まで訪ねてくる客はそういない」
 それに、と鍾離は言葉を継ぐ。
「自宅くらいは、独りで心置きなく過ごせる空間にしておきたくてな。無闇に他人を立ち入らせぬよう計らっている面もある」
「ふぅん……」
 相槌を打ってから、空ははたと思い至る。それは、つまり——?
「あ、あの、先生」
「ん?」
「俺達が家に行っても、大丈夫なの?」
 問われた男が、訝しげに金の双眸を細める。
「当然だろう? 駄目であれば最初から招いたりはしない」
 そう、至極真面目に返された。
 少なくとも、私的な空間に招いてもよい程には気を許してくれている——そう思うと、嬉しいような気恥ずかしいような感情が胸の奥をくすぐる。何故か勝手に熱を持つ顔を、空は手の甲でごしごし擦って誤魔化した。


 鍾離の語る四方山話を聞きながら歩くうち、一行は住宅が並ぶ閑静な地区に足を踏み入れていた。旅人である空には、あまり縁のなかった場所だ。
「——まあ、今となっては知る者もいない話だがな……ああ、着いたぞ」
 饒舌に語っていた鍾離が足を止め、目の前の一軒家を示す。
 緋雲の丘の鮮やかな朱塗りとは打って変わった、質実な佇まいの建屋は、周囲の風景に溶け込むようにひっそりと建っていた。
 港から離れた山の手に居を構えたのは、なるべく海産物を目にしたくないからだろうか、などと埒もない考えが空の脳裏に浮かんだが、流石に口に出すことはしなかった。

 招かれるままに足を踏み入れ、廊下を進んだ先にあったのは、鍾離の私室と思しき部屋だった。
 価値あるものと認めれば値段を見ず買おうとする彼のことだから、自室はさぞ物で溢れているのだろうと思っていたが、空の予想に反して室内は整然と片付いていた。一見簡素な印象を受けるが、調度品はどれも質の良さを感じさせるものばかりで、家主の確かな審美眼を示していた。
 遠慮がちに室内へ踏み込んだところで、空はすんと鼻を鳴らした。ここ最近、すっかり嗅ぎ慣れた香りが漂っている。
「同じ匂いだ」
 独り言のつもりが、律儀に返事が返ってきた。
「俺が使っている部屋だからな」
 呟きを聞かれていたことに赤面する空には気づかず、鍾離は思い出したように口を開く。
「ああそうだ、以前言っていたな。往生堂で使っている香を見せると」
 衣の裾を優雅に翻し、壁際の棚へと歩み寄った。そこから何かを取り出し、再び空の前に戻ってくる。差し出された手に乗っているのは、小さな香炉。
「これが、お香?」
「ああ」
 渡された香炉に顔を近づけると、確かに覚えのある香りが鼻先をくすぐった。
(同じだ……でも)
 少し違うかも、と空は思う。
 匂いの大元は、この香で間違いないだろう。けれど、青年から感じた香りは、それだけではなかった気がするのだ。
 例えるならば、晴れた日に草原で寝転がった時のような——穏やかな陽光を受けた、温かい草木と土の香り。それがこの香由来でないとするならば、それはもしかすると、鍾離自身が生来持つ匂いなのかも知れない。

 香炉を棚に戻す後ろ姿を見つめながら、空は先日からずっとつきまとっている「迷い」について考えを巡らせる。
 ——既に魅力的な香りを持っている彼に、わざわざ香膏を贈る必要などあるだろうか?
 彼がまとうその香りは、不思議と周囲の人間を落ち着かせる。それを他の匂いで——まして、自分が祭りの熱に浮かされて選んだようなもので上書きするのか。そう考えると、空はいたたまれない気持ちになってしまう。
 
「さて、まずは茶を淹れてくるとしよう。そこに掛けていてくれ」
 飴色に磨き込まれた椅子を指してから、青年が部屋を出ていった。残された少年は、示された椅子へ所在なげに腰掛ける。
 抱えた鞄の中で、紙袋がかさりと微かな音をたてた。



 遺跡の仕掛けを解く手がかりになるかも知れないと、持ち帰ってきたいくつかの発掘品。それらに刻まれたぼろぼろの文字を読み取り、文献を調べ、あれこれと意見を交わし——そうしているうちに、陽はだいぶ傾いていた。
 窓の外が薄く朱に色づき始めたことに気づき、空は卓の上に広げた物品を片付けた。調べ物に飽き、早々に居眠りを決め込んでいたパイモンを、ほら行くよと揺すって起こす。
「ありがとう、先生。俺達はそろそろ戻るよ」
 暇を告げる少年に、鍾離は頷いて席を立つ。見送ってくれるのだろう。
「またいつでも訪ねてくるといい。お前達なら歓迎だ」
 柔らかく笑う綺麗な顔に、空の胸がざわりと騒ぐ。
 この青年が自分に好意的な態度を示すたびに、決まって心が落ち着かなくなる。何故かはわからないけれど、ひどくそわそわした心地になるのだ。
「う、うん。それじゃ……」
 椅子から立ち上がろうとした時、鞄の中にあるもののことを思い出す。
(あ、あの香膏……)
 後ろ手に鞄を探り、指先で紙袋の感触を確かめる。そのまま取り出そうとして——
「どうした?」
 手を、離した。怪訝そうな表情の鍾離が、部屋の入口でこちらを振り返っている。
「……ううん、何でもないよ」
 無理やり笑顔を浮かべて、空は立ち上がった。腰の後ろでかさりと寂しげに鳴った音には、聞こえないふりをして。

 外に出ると、綺麗な夕焼けが目に飛び込んできた。玄関先で見送る青年に挨拶をして、宵闇迫る街へと踏み出す。
「またなー、鍾離!」
 隣でぶんぶんと手を振るパイモンに気づかれぬよう、空はそっと溜息をついた。



 4

 夜。賑わっていた食事処もひとつ、またひとつと店じまいを始め、提灯の明かりが減ってゆく時刻。
 月明かりを受けて仄白く浮かび上がる石畳の上、あちこちに視線を巡らせながら金髪の少年が歩いていた。足元を睨んでいたかと思えば、道端の溝を覗き込んでみたり、と落ち着かない様子でうろついては溜息をつく。
 鍾離の下を辞した後、空はパイモンと共に宿へ戻った。屋台で買い込んだ軽食で夕飯を済ませた後、寝る前に翌日の準備をしようと鞄を開け——そこで初めて、あの紙袋が見当たらないことに気づいたのだ。
 結局、相手に渡せなかった贈り物。自分で使うあてもなければ、失くしたとしても少々勿体無いだけで、わざわざ探すほどのこともない。
 ——その、はずなのに。
 気づけば、先に眠ったパイモンを起こさぬよう、そっと宿を抜け出していた。

 宿の周辺から、通ってきた道を逆にたどり直す。ある程度の距離を遡って探してみたが、見つからなかった。
 あるいは、もっと先か。空は宵闇の向こうを透かし見る。
 この向こうは閑静な住宅が並ぶ居住区、すなわち鍾離の自宅周辺だ。今、彼が居るであろう場所に近づくのは、いろいろな意味で気が進まなかった。
 何度目かの溜息を吐き、重い足取りで元来た道を引き返そうとした時。

「——空?」
 身体が強張る。聞き間違えるはずもない。ずっと聞いていたいほどに心地好く、けれど今だけは聞きたくなかった、深く響くその声を。
 ぎこちなく振り返れば、こちらへ歩み寄ってくる長身のシルエット。いつも通りの悠然とした足取りで、その人は硬直する空の前に立った。
 
「……鍾離、先生」
 予想外の邂逅に、掠れた声で名を呼ぶのが精一杯だった。そんな少年を、端正な面に疑念の色を刷いた鍾離が見下ろす。
「どうした、こんなところで。宿に戻ったのではなかったのか?」
「あ……ええっと、その」
 誤魔化さなければと思うのに、一向に上手い言い訳が出てこない。言い淀む空の様子をしばし無言で見ていた青年は、おもむろに上着の内側に手を差し入れた。
「——これを、探していたのか?」
「……っ!?」
 彼が懐から取り出したそれを見て、空は息を呑んだ。白い薄紙で折られた、小さな袋——つい先刻まで、自分が必死に探していたものに間違いなかった。
「どこで、それを」
 かろうじて絞り出せた問いに、答えが返ってくる。
「お前が帰った後、部屋に落ちていたのを見つけてな」
 最悪だ、と空は自分の迂闊さを呪った。渡すことを諦めた贈り物を、よりによって贈るはずだった当人の部屋に忘れてくるなど、笑い話にもならないではないか。
「大事なものかも知れないから、今晩中に届けておこうと思ったのだが、どうやら正解だったようだ」
 差し出された紙袋を、空は錆びたブリキ人形のような動作で受け取った。
「……ありがとう」
 礼を述べて、少年は視線を足元に落とす。月光を照り返す石畳の白さがやけに目についた。
 
 目を伏せていても、鍾離がこちらを見つめているのが解る。その石珀に似た金の瞳に、自身が隠したい何もかもを見透かされてしまいそうで、空はただ俯くしかできなかった。
 薄紙の袋からは、特徴的な容器が透けて見える。この博識な青年であれば、中身を開けずともそれが何であるか瞬時に察しがついたことだろう。
 その「中身」を知って、彼は何を思っただろう? 自分がそれを持っていたことを、彼はどう解釈しただろうか?
 両者の間に横たわる沈黙が、重苦しく少年の身体にまとわりつくようだった。何か言わなければ、と思いながらも、何を言っても不自然になりそうで、ただ唇を動かしては閉じるのを繰り返す。

「——それは、贈り物か?」
 一言の下に核心を言い当てられ、心臓が跳ねる。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、鍾離はそうか、と呟いた。身を竦ませる少年の耳に、感慨深げな声が届く。
 
「……お前にも、そういう相手が出来たのだな」
「…………はい?」
 空は思わず視線を上げた。振り仰いだ端正な顔には、何やらしみじみと慈しむような色が浮かんでいて。
 ——何か、ひどい勘違いをされている気がする。
 
「ちょ、ちょっと先生!? 俺はそんな……」
「ハハッ、そう動揺することもあるまい。いいことだと思うぞ」
 その笑顔を見て、空は確信した。鍾離は、自分がこれを意中の相手に渡すために用意したと解釈しているのだ。
(確かに目的としては合って……ないよ! 何考えてるんだ俺!?)
 何故か一瞬納得しかけた自分を、即座に否定する。混乱している暇はない、ともかく誤解を解かなければ。
 
「いや、だからそうじゃなくて」
「残念ながら、俺はそういった方面には疎いからな。相談には乗ってやれんが、話を聞くくらいは——」
「……先生っ!」
 埒が明かない。息を吸い込み、相手の言葉を強く遮る。
 このまま勘違いさせておけば、適当に誤魔化してこの場を乗り切れたはずだった。そうと分かっていても、空の心は何故かそれを良しとしなかった。
 ひた隠そうとしてきた真実を語るのは勇気が要る。けれど、この青年に誤解されたままでいるのは——もっと辛い。
 彼に嘘はつきたくない。その思いが、ぐずぐずと迷っていた心を蹴飛ばした。

 深々と、胸の奥底から息を吐き出して。
「贈る相手なら、目の前にいるよ」
 どうとでもなれと腹を括り、空は袋を持った手をぐいと突き出す。
「……何?」
 面食らったように見つめてくる山吹の双眸を、真っ直ぐに見返して。
 
「これは、鍾離先生に渡したかったものだから」
 はっきりと、告げた。
 
「俺に……?」
 余程驚いたのか、鍾離は瞠目したまま言葉に詰まっている。常に落ち着き払った態度を崩さない彼の、そんな珍しい姿が見られただけでも、覚悟を決めた甲斐はあったかなと空は思った。
「何故だ? 本当に、俺が貰っていいものなのか?」
「この前の祭りで、露店を見てた時にそれを見つけて……その、先生に似合うかなって、何となく思って」
 疑問を宿したその瞳に、空は言葉を選びながら理由を告げる。
「先生にはいろいろ手伝ってもらって、お世話になってるし……そのお礼、みたいなものというか。そんな感じで、あの、別に深い意味は無い、んだけど」
 説明しているうちに、だんだん自信が無くなってきて、声が小さくなる。その様子を見る鍾離の表情から、次第に疑念が消えていき、柔らかな微笑みへと変わった。それは喜びと同時に、どこか安堵しているかのような——。
 
「——そうか。なら、ありがたく受け取ろう」
 黒手袋に包まれた指が、そっと紙袋を取り上げる。まるで、壊れ物を扱うような仕草で。
 再び青年の手に戻った紙袋を横目で見ながら、空はためらいがちに訊ねた。
「その……嫌、じゃない?」
「嫌なものか。お前が俺のためにと選んでくれたのだろう? ならば、受け取らない理由は無い」
 青年は鬱金の瞳を細め、手の中の袋を見つめている。その姿を見ているうち、無性に気恥ずかしい思いに駆られ、空は慌てて踵を返した。
「そ、それじゃ俺、戻るから!」
 返事を待たずにその場から走り去る。後ろから鍾離の声が聞こえた気がしたが、振り返らずただ通りを駆けた。


 5

 帰離原。モンドと璃月港を結ぶ街道が貫くこの地には、かつて栄えた都があり、その名は治めていた二柱の魔神に由来するのだという。
 微かに寂寥を孕むのどかな景色の中を、空は小さな相棒と連れ立って歩く。璃月の冒険者協会で受け取った、ある人からの伝言。そこに示されていた待ち合わせ場所はもうすぐだ。

 道の前方、まるで巨大な樹と融合したような独特の建物——望舒旅館へ続く橋のたもとに、男が一人佇んでいた。萩花州の川面を渡ってきた風が、長衣の裾と束ねた髪をさやさやと揺らす。
 その姿を目にした途端、胸を満たす温かな感情。一瞬、声を発するのを忘れてしまった空の代わりに、パイモンが手を振って呼びかける。
「おーい、鍾離ー!」
 振り向き、二人の姿を認めた青年が、金の双眸を細め微笑んだ。

 心なしか軽い足取りで歩み寄り、空はその長身を見上げる。
「お待たせ、先生」
 あの夜以来、鍾離と会うのは一週間ぶりだった。大して長くも無い期間なのに、もう随分と顔を見ていないような気がする。
「呼び立ててすまなかったな」
「気にしないで。でも、どうして望舒旅館に?」
「こちらに来る用事があったものでな。良ければ、一緒に食事をと思ったんだ」
 知り合ってからというもの、鍾離とはたびたび食事を共にしてきた。何かにつけて誘ってくれるあたり、彼は誰かと食卓を囲むのが好きなのかもしれない、と空は思っていた。
 
「やった~! 望舒旅館の食事は久々だなぁ!」
 くるくると宙を舞い、全身で喜びを表現していたパイモンが、あ、と不意に声を上げた。一転して不安そうな眼差しで、傍らの青年を見つめる。
「……ところで鍾離、支払いは大丈夫なのか?」
「ああ、抜かりは無い。代金は俺が持つから、心配しなくていいぞ」
「へへっ、そう来なくっちゃな! 早く行こうぜ!」
 勇んで飛び出す小さな背中を、やれやれと見送る空の肩に、ぽんと手が置かれた。
「では、俺達も行こう」
 旅館の方を指し、青年が歩き出す。その後について行こうとした足が、ふと止まった。
 一瞬、鼻先をふわりと掠めた香り。いつも彼がまとうそれとは違う、微かに甘い花のような——。
 
「この、香り……」
「気づいたか?」
 肩越しに振り返った石珀の瞳が、笑みの形に細められる。
「そう、お前が贈ってくれた香膏だ」
 秘密を打ち明ける時のように、わずかに声を潜めて。その綺麗な顔を直視できず、空は視線をずらす。
「……わざわざ、つけてきてくれたんだ」
「良い機会だと思ってな。お前も、贈ったものがどう使われるかは気になるだろう?」
 形の良い顎に指を添え、わずかに首を傾ける。この青年が己が知識を披露する時の癖だ。
「霓裳花に樹木を混合することで、華美になりがちな花の香りを抑え、爽やかな印象に仕立ててある。男性がつけても違和感のない、実に上質な香りだ」
 そう語る彼は、いつになく上機嫌に見えた。
「良い見立てだな。気に入った」
 世辞は言わない人だと知っているが故に、空はただ照れ隠しに水面を眺めるしかできなかった。

 そんな少年の内心を知ってか知らずか、鍾離が問う。
「お前は何故、この香りを選んだ?」
 え、と間の抜けた声が漏れる。何故香膏を、ならいざ知らず、その質問は予想外だった。
「それは……先生に似合いそうだなって思ったから」
 反応を見なくとも解っていた。それが、鍾離の求める答えではないことを。
 
 しばしの沈黙の後、男がゆっくりと口を開く。
「この香り——おそらくは『縹渺たる仙縁』と見たが」
「……うん。値札にそう書いてあった」
 やっぱり、この人にはお見通しだった。
 素直にそう認めれば、鍾離はそうか、と頷いて。
 
「——覚えていたんだな」

 彼の言わんとすることを、空はすぐに理解した。
 送仙儀式の折、岩神像に捧げた三つの香膏。その中からひとつ、岩王帝君の選んだ香りが何であったのか。


「おーい、二人とも何やってんだよ! 置いてっちゃうぞー!」
 道の先から、待ちかねたパイモンが叫んでいる。鍾離は苦笑して、青空に浮かぶ旅館を指した。
「さあ、行くぞ。この贈り物の礼をしたいからな」

 二人並んで歩き出せば、傍らからいつもとは違う芳香が薫る。
 自分が選んだ香りを、彼が身につけている——その事実が、空には無性に嬉しく思えた。


OFUSEで応援 Waveboxで応援


おまけの後日談も書きました。



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