君が大人になる前に


 兵舎の中庭は、午後の柔らかい陽射しに満ちていた。
 きちんと手入れされた樹々が、その根元に涼しげな木陰を作り出している。

 そのうちのひとつ、ちょうど建物の窓から死角になっている樹の下に、一人寝転んでいる青年の姿があった。葉陰から落ちる光が、閉じられたなだらかな瞼や、柔らかそうな甘茶色の髪の上でちらちらと揺れている。

「おい、セイン。お前はまたこんな所で……」
 頭上から降ってきた声に、樹の根元に寝転がっていた青年は、閉じていた目を薄く開いた。
 視界には、いかにも気難しげに眉根を寄せた親友の顔。
 幹に片手を突き、瑚珀の双眸に呆れの色を刷いてこちらを見下ろしている。


「……ああ、ケントか」
「ああ、じゃない。姿が見えないと思ったらまたサボりか」
「……うるさいな。俺だっていろいろ考えることがあるの」

 どこか投げやりなセインの返事に、ケントの表情がわずかに動く。
「……らしくないな。何かあったのか?」

 普段のセインなら、どれだけ小言を言われようが、へらへら笑って受け流すのが常だ。少なくとも、正面からこんなふて腐れた返事をすることは無い。誰よりも近くで相棒を見てきたケントには、その微かな違和感がすぐに察知できた。

 いったん怒りを引っ込め、その隙間から遠慮がちな気遣いを覗かせる相棒に、セインは目を閉じたまま眠そうに答える。
「んー……まあ、ほら。毎日暑いなあって」
「……考えたいこと、というのはそれか?」
 呆れた表情を浮かべつつも、瑚珀の双眸から案ずる色は消えない。
 誤魔化そうとしていることは、どうも見透かされているようだ。セインは内心苦笑した。


 そのまま沈黙していると、傍らに腰を降ろす気配がした。降ってくる、小さな溜息。
「……別に、何も無いならいいのだが」
「考え過ぎだよ。――でも、心配してくれてありがとな」
 薄く目を開けて笑いかければ、白皙の目元が仄かに染まる。
「……勘違いするな。何かあって仕事に支障が出れば、他の皆に迷惑がかかる。それだけだ」
 生真面目な眉を吊り上げる相棒に、セインの笑みが大きくなる。

 本当のところは、何も無いわけではない――長年の付き合いは伊達ではないというべきか、隠したつもりでもケントには何となく解ってしまうようだった。
 彼を信頼していないのではない。むしろその逆だ。彼ほどに誠実で信頼に足る人物を、自分は他に知らない。

 だが……大事に思っているからこそ、明かせないこともある。


 ――言えたら、どんなにか楽になるだろう。

 弟のように思っている後輩に告白された、と。
 だが自分には想っている相手がいるから、それには応えられないのだ、と。


 その相手は、他ならぬお前なんだよ――と。


「あーいたいた、お二人ともこんな所で何やってんですか?」
 唐突に響いたやたら元気な声に、相棒の横顔を盗み見ていたセインは反射的に視線を動かした。
 その先には、兵舎の方から小走りにこちらへやって来る青年の姿。

「突然姿が見えなくなったから、どうしたのかと思いましたよ」
 癖のあるブラウンの髪が光を跳ねる。二人の側までやって来た青年は、木陰に座る彼らをまじまじと見つめて瞳を瞬いた。
「……セインさんだけならともかく、ケントさんも一緒になんて珍しいですね」
 意識してサボりという表現を抜かしたであろうその台詞に、セインは起き上がって顔をしかめた。
「……ウィル、それどういう意味?」
「だってセインさんがサボってるのはいつもの……あ」
 右手で口を押さえ、鳶色の瞳を膨らませるウィル――まるで悪戯がバレた子供のような、ばつの悪い表情。心持ち上目遣いの視線は、明らかに堅物の騎士隊長の様子を窺っていた。

「――ウィルもああ言っているぞ。少しは日頃の行いを改めろ」
 言いながら立ち上がったその顔は、既にいつもの無表情だった。細められた瑚珀の双眸に、先刻までの気遣う色はもう見えない。
 ケントは騎士隊を統べる立場として、職務に従事している間はほとんど感情を表に出すことは無い。彼が本当はとても感情豊かであることも、与えられた職務に対する責任感から普段それを抑制していることも、セインはよく知っている。
 彼が多少なりともその豊かな感情の片鱗を垣間見せるのは、こうして自分と2人になった時だけ。その事実を承知しているだけに、セインは少し残念に思った。

 特に気分を害した様子のないケントに、安堵の表情を浮かべるウィル。そんな彼の解りやすい反応を見ながら、セインは肩をすくめた。
「はいはい、善処イタシマス」
「また適当な返事を……」
 不快げに眉を寄せる相棒の視線をかわして、セインは立ち上がると服を軽くはたく。その腕に、ウィルがするりと手を絡ませた。
「ほらセインさん、馬の乗り方教えてくれるって約束だったじゃないっすか。教えてくださいよ!」
「……したっけか? そんな約束?」
「あっ、もう忘れてる。酷いなあ、俺はちゃんと覚えてますよ!」
「悪い悪い。俺、女のコとの約束で手一杯だからさぁ」
 いつものようにふざけて軽口を叩きながら、セインは横目で相棒の様子を窺った。
 ケントは毎度のことと思っているのか、例によって呆れた表情でこめかみに手を当てている。そんな彼の姿に、セインは後ろめたさと同時に安堵を覚えていた。

 視線を戻すと、見上げてくる無邪気な双眸が楽しそうに笑っている。
 邪な計算など何も無い、セインに構ってもらえたことがただ嬉しくて仕方ないといった、その表情。

 この人懐こい青年が、自分がケントを想っていることを知った上で、自分に想いを寄せているなんて。
 時々、その現実が信じられなくなる。


 一方通行の想いで描かれた、微妙なトライアングル。
 さすがのセインも、この時ばかりは困惑と罪悪感で天を仰ぎたい気分だった。



 その数日後、セインはまた同じ中庭の木陰で寝転んでいた。

 最近は、暇を見つけてはここで眠るでもなく目を閉じている。
 始めは律儀に様子を見に来ていたケントも、近頃は姿を見せなくなっていた。愛想を尽かすということをしない彼だから、おそらくは気を遣っているのだろう。実に不器用な気の遣い方だが、その彼らしい配慮は今のセインにとってはありがたかった。

 瞼の裏でちろちろと揺れていた光が、ふと不自然に翳る。
 傍らにやって来た気配を、戦場で鍛えられた青年の感覚は逃さず捉えていた――それが一体誰のものであるかも。

 隣に居座った気配は、躊躇うかのような間を経た後、ゆっくりと距離を詰めようとしている。
 身体の脇の草がかさりと鳴ったのを機に、セインは目を閉じたまま口を動かした。


「――何しに来たんだ、ウィル?」
 あからさまに伝わる、動揺の気配。
 目を開ければ、びっくりしたようにダークブラウンの双眸を見開いた後輩の顔が上にあった。

「あれ、起きちゃったんすか? 気づかなかったらキスしちゃおうかなーとか思ってたのに」
 どこまで本気か解らないウィルの言葉に、セインは灰緑の双眸を細めた。
「……冗談。お前にやすやすと唇盗ませるほど、俺は甘くないよ?」
 口の端を吊り上げながらそう言ってやると、ウィルはあははと笑って頭を掻いた。

「うーん、やっぱダメっすか。これでも結構、気配消すの上手くなったつもりなんですけどねぇ」
「全然ダメだね。近づいてくるのバレバレだったし。
 それに。――寝てる隙にこっそり、なんてフェアなやり方じゃないね」
 先輩騎士の容赦無いダメ出しに、ウィルの表情が傍目にも明らかなほど落胆の色に変わる。セイン自身も表情の変化が激しい方だという自覚があるが、この青年はそれ以上にその瞳の色を様々に変えていく。それが彼の無邪気で天真爛漫な性格を、より強く印象付ける方向に働いていた。
 セインはそんな後輩の様子を見て、微笑ましい気分で苦笑する。経験したことは無かったが、弟を持つというのはこういう感じなのかと、ふと思った。

 前髪をひとつかき上げ、セインは身を起こそうとする。しかし、傍らに座るウィルが再び顔を覗き込んできたため、それは叶わずに終わった。
 くるりと丸い瞳を期待と不安に輝かせ、青年は悪びれたところの全く無い口調で告げてくる。

「じゃあ、もしも正面から頼んだら?」
「……ん?」
 質問の意図が掴めず、セインは灰緑の双眸を瞬く。
 想いを寄せる先輩騎士の顔を見下ろして、ウィルは明るい表情で笑った。

「俺だって騎士ですからね。正々堂々、正面から言いますよ。
 ――セインさん。キス、しちゃダメですか?」

 邪気の無い……それでいて、この上なく真剣で真っ直ぐな瞳が見つめてくる。
 そこに灯っている熱を帯びた煌きに、自分とよく似た感情を見たと思った。


 少し眉を上げて、セインは自分を覗き込む後輩の顔をじっと見上げる。
 そしておもむろに右手を上げると、人差し指でその鼻先を勢いよく弾いた。
「痛って……!」
 反射的に上体を反らして鼻を押さえたウィルに、セインは少年めいた顔に成熟した色を含ませてにやりと笑った。

「……百年早い」

 片手で後輩を押しのけると、無駄の無い動作でセインが立ち上がる。その背中を目で追って、ウィルは唇を尖らせて声を上げた。
「ひ……百年って! そんなの俺もセインさんもとっくに死んでるじゃないですか!」
「ん、そう? じゃあまけて90年にしといてやるよ」
「同じですよっ! 酷いなあ、何で真面目に答えてくれないんですか!」
 慌てて追ってくる後輩の声を黙殺する振りをして、セインは悟られないように息をついた。


 それくらいなら良いだろうと――許してやれと、頭のどこかで誰かが囁く。
 だが、セインはそんな内なる声にかぶりを振った。

 想いに応える気が無い以上、変に期待を持たせるだけ残酷というものだ。

 子供のうちなら、まだ間に合う。
 子供であれば、いくらでもやり直せる。
 手に入らぬと判っているものにしがみつくより、諦めて新しい選択肢を探す方が良いと思えるから。
 自分だけを見てくれなければ嫌だと、見てくれないならば要らないと、幼い独占欲のままに叶わぬ想いを切り捨てられるから。
 ウィルがそう出来るうちに、セインは全てを終わらせてしまいたかった。

 大人になって、現在(いま)に執着することに安寧を覚えてしまったなら。
 ――彼は、諦めることをしなくなってしまうかも知れない。
 セインが例え誰を好きでも、どうあっても振り向いてもらえなくても……それでもいいと、好きでいられればそれでいいのだと、思うようになってしまうかも知れない。
 そうなれば、禍根は深くなる一方だ。
 修復不可能な傷を負わせても、無理矢理諦めさせなければならなくなる。そうなればセイン自身もウィルも……そしてセインの想う相手であるケントも、その心に消えない傷を残すこととなるだろう。それは、決してセインの望む結末では無い。

 今ならまだ、傷は浅くて済む。
 待っているであろう、未来の幸福――傷跡は、すぐに消えてしまうだろう。


 まだまだ子供だと、高を括っていた。
 だが、子供は大人が思うよりも、はるかに早いスピードで成長するものだ。

 早く決着をつけなければ、とセインは思う。
 なるべくなら、傷つけることはしたくない。だが、譲れない――叶えたい想いが自分にも、ある。
 絶望的な現実を突きつけられない限り、彼はきっと自分を諦めないだろう。それが痛いほど判っているから、セインも正直に答えなければならないと思う。


 心を過ぎるのは、いつも一番近しい距離にある面影。

 ――そろそろ、覚悟を決める時が来たようだ。
 こんな形で背中を押されるとは、夢にも思っていなかったけれど。

 風にかき乱された髪を掻き上げて、セインは晴れすぎた空を振り仰いだ。


 早く、この想いを伝えなければ。
 執着という名の鎖を、断ち切ってしまわなければ。

 彼が大人になってしまう、その前に。



セインの「百年早い」って台詞が書けて満足。
ウィルは表裏の全く無い、常に素直に頑張る子で居て欲しい。横恋慕しててもあくまで元気に爽やかに。



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