密やかな唇の祈り


 夜明け前。

 前方に敵と思しき集団が現れたとの報せが斥候よりもたらされ、宿営地はにわかに慌しい空気に包まれていた。
 騎士たちが戦の準備を整える間に、戦えぬ者たちは荷を持って後方へと避難する。

 配置につく仲間達の間をぬって、ヒースは宿営地の端に繋いでいた自身の騎竜のところへと向かっていた。
 愛竜ハイペリオンはよく訓練されていて、性質も極めて穏やかではあるが、何かの拍子に暴れて人や家畜を傷つけないとも限らない。それに大食漢の彼は、以前隊の備蓄食料を丸ごと平らげてしまったことがあり、それ以来ヒースは馬を繋いでいる所よりもさらに離れた場所に彼を置くようにしていた。

 宿営地が片付けられた後も、輸送隊の荷物を収めた天幕はそのまま残っている。
 それを回り込んだ時、ヒースは視界を掠めた光景にふと足を止めた。


 2つ並んだ天幕の間から、樹を利用した即席の厩が見えている。
 そこで、何やら言葉を交わしている2人の騎士。

 そのうちの片方、赤銅色の鎧を纏った青年と、ヒースは何度か話をしたことがあった。
 ケント――自身と変わらぬ若さで、キアランの騎士隊長を務めている人物。

 その隣にいる緑の鎧の青年は、言葉こそ交わしたことはないものの、良くも悪くも目立つ言動で記憶にある人物だった。
 ケントの相棒で、キアランの副騎士隊長たる青年――名を確か、セインといったか。

 ヒースと2人との間には結構な距離があり、話している声までは聞こえない。
 深緑の鎧の青年は、大仰な仕草を交えながら相棒に何事か話しかけている。一方のケントは眉一つ動かさず馬の準備をしており、その横顔からは話を聞いているのかいないのか判然としない。時折唇が微かに動くので、相槌くらいは打っているのだろうが……。

 ひたすら喋り続けているらしい相棒に、一足先に馬の準備を終えたケントが険しい視線を向けた。
 説教でもしているのか、打って変わって忙しく動く唇。
 そんな彼に対し、緑を纏う青年は相変わらずの笑顔で何事か返し……それを聞いた紅の青年がますます眉を吊り上げる。
 その様子に、ヒースは少なからず驚きを覚えた。
 ケントという青年は、自分が見る限り常に冷静沈着で、真面目な表情を崩すことが無い。部下に対して厳しい顔を見せることはあっても、怒りや苛立ちといった感情にその面が染まるところは見たことがなかった。
 そんな彼の冷静な表情が、相棒に対する時だけは明らかな変化を見せる。
 それだけでも、セインという青年が彼とどれほど近しい存在であるのか解るような気がした。


 彼と初めて会話した時の光景が、ふと脳裏を過ぎる。
 あの時、常に真っ直ぐこちらを見て会話するその態度は、非常に礼儀正しく非の打ち所のないもので。
 それに――彼は、現在は国を追われた逃亡兵でしかない自分を見下すこともなく、まるで他国の騎士に対するような敬意を持って扱ってくれた。
 自身の国と主君を心から大切にし、自らのだけでなく他人の誇りも尊重する誠実な姿勢――正しき騎士の見本であるかのようなその人となりに、ヒースは半ば憧れにも似た印象を持ったものだった。

 自身が望んで得られないものを、全て持っている彼。
 それでいて、持たざる者と対等に接することのできる真っ直ぐな心。

 ――惹かれていないと言えば、嘘になるだろうか。


 ヒースの視線の先では、緑の青年が相棒に追い立てられながら出撃の準備を終えていた。
 それを見届け、溜息をつきながら馬に乗ろうとしたところで、名を呼ばれたと思しき動作で振り返るケント。
 そんな彼に、相棒の青年がすっと近づいて――

 その行為があまりにも自然すぎて、見ていたヒースもほとんど違和感を感じなかった。

 ほんの一瞬、掠めるように触れて離れた青年の唇が、柔らかい微笑みとともに言葉を紡ぎ出す。

『無事で』
 声こそ聞こえなかったけれど、その唇は確かにそう動いていた。


 愛馬を駆って前線へと向かう2人を見送って、ヒースは小さく溜息をついた。
 そういう関係だったのか――と、何故か妙に納得している自分自身に気がつく。

 自分の記憶にある限り、かの緑の青年は常に冗談めかした態度で、騎士とは思えないような軽い言動ばかりしていたはずだった。
 そんな彼に、あれほど真剣な目をさせるとは……よほど惚れられているらしい。
 潔癖そうな印象のケントが、同性の親友にそういった関係を許しているのは意外だったが、それだけ彼もセインという青年を大切に想っているということなのだろう。


 そこから導き出される、ひとつの結論。
 すなわち――『他者の介入の余地無し』。


 ちり、と微かな痛みが走る。

 やはり惹かれていたのだろうか――自分は。
 あの、不器用なほど真っ直ぐで、穢れを知らぬ誇り高き真紅の騎士に。


 確かな形を掴む前に消えた想いを願いに変えて、ヒースは心密かに祈る。
 刹那だけでも愛した彼が、どうか幸せであるように――と。



支援会話を見て、コイツはケントに惚れてると思いました。(色眼鏡)



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