苦いだなんて言わせない
『――ゲームセット。
勝者、ブルーチーム!』
無機質な機械音声が、試合終了の合図と結果を告げる。
同時にスタジアムを埋め尽くす観客から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。それは勝者のみならず、惜しくも破れた者へも平等に捧げられる、健闘を称える声。
その歓声に、今回の勝利者の一人である青年は笑顔で片手を挙げ応えた。
しかし、チームを組んでいた相方の方は、観客に見向きもせずさっさと身を翻し控え室へ向かってしまう。
その事に気づき、青年は慌てて舞台袖の扉へと消える背中を追った。
※
チーム戦を終えて控え室に戻ってきたマルスは、冷たい水の入ったボトルを手に取りながら、横目でそっと相方を窺う。
その視線に気づいているのかいないのか、無言で佇み清潔なタオルで汗を拭っている青年。
彼――アイクは確かに、普段から愛想が良いとはお世辞にも言えなかった。
それでも、自分に向けられた拍手をあんな風に無視するような事は、今まで一度も無かったはずだ。
口数も多い方で無いとはいえ、先程から一言も発していないその姿に、マルスはどこか常と異なる違和感を見いだす。
「ねぇ、アイク――」
それとなく探りを入れるべく、マルスはその名を呼びながら歩み寄り、彼の正面に立った。
その瞬間。
ぐらり、と彼の身体が揺れ、突然マルスの方に倒れかかってくる。
「え……ちょっ、アイク!?」
反射的に腕を突っ張ろうとしたが間に合わず、人ひとりの重みがまともに上半身にかかる。
寄りかかられた側の青年が、見た目通り華奢なだけの体躯であったなら、二人まとめて床に倒れていただろう。剣技で鍛えたしなやかな筋肉を総動員して、マルスは何とか二、三歩後ずさったところで踏みとどまった。
寄りかかるその背中に腕を回して支えながら、肩口に伏せられた顔を覗き込む。目を閉じ眉根を寄せたその頬には赤味が差し、呼吸も心なしか荒い。
「――悪い」
そう呟き、アイクが身体を離した。その足元がおぼつかなげに見えたのは、決してマルスの気のせいでは無いだろう。
退がって距離を取ろうとした腕を掴み、もう一度その身体を引き寄せる。
手を伸ばし、彼の額に触れたマルスはその熱さに驚愕した。
「ちょっと……酷い熱じゃないか!」
こんな状態で、今まで乱闘をしていたというのか。
ここまで体調を悪化させるまで何も言わなかった彼と、それに気づけなかった自分自身とに怒りが湧いたが、とにかく今は彼を休ませることが最優先だと、マルスはひとまずその感情を心の奥へしまい込んだ。
「とにかく、まずはドクターに診せないと……
アイク、歩けるかい?」
「ああ……悪い」
掠れた声で謝罪を口にするアイクの表情や動作からは、気だるそうな様子がありありと見て取れる。
そんな状態でも、一度もラグネルを手から離さなかったあたりは流石だと妙な感心をしつつ、マルスは彼に肩を貸して医務室へと歩き出した。
※
友人を寝台の縁へ腰掛けさせ、マルスはやれやれと息をついた。
ドクターによる診断の結果は――ただの風邪。
ホンモノの人間よろしく、ご丁寧に病気にまでかかるように創ってくれているあたり、あの右手のこだわりと酔狂さは筋金入りだとマルスは思う。
閉まったままだったカーテンを開けてから振り返ると、ベッドに座るアイクはちょうどブーツを脱いだところだった。
それを無造作に床へ放り出すなり、着替えすらせずにシーツの上に身体を投げ出した友人を見て、マルスは苦笑する。
「……その格好のままじゃ休めないだろう?
せめてマントと防具は外さないと」
寝台の脇に立ち、マルスは仰向けに横たわる青年へ手を差し伸べる。
「寝てて良いよ。外してあげる」
「……いや、いい……自分で出来る」
「良いから。ほら、動かないで」
渋る青年を無理矢理押し止め、マルスは手早くマントをはぎ取った。
留め金を緩めて胸当てを外すと、締め付けが無くなって楽になったのだろう、吐息と共にその胸板が大きく上下した。
上着も脱がせた方が良いかと一瞬考えたが、風邪だというのなら身体を冷やさない方が良いだろうと判断しそのままにしておく。
本来なら寝間着に着替えさせるのが一番良いのだが……この青年がそんなものを持っていないことはマルスも承知している。
「――悪い。面倒をかけた」
上掛けをかけ終えたマルスの耳に、低く掠れた謝罪が届いた。
溜息をつきながら枕元の椅子に腰を下ろし、ベッドの上から見上げてくる友人を軽く睨む。
「……どうして、言ってくれなかったんだい。
その様子だと、試合の前から具合が悪かったんだろう?」
心配を色濃く滲ませた咎めの言葉に、アイクは決まり悪げに視線を逸らした。
「……俺が休めば、チームを組むはずのあんたに迷惑がかかる」
「だからって……もし乱闘中に倒れでもしてたらどうするつもりだったんだい?
しかも、こんなに酷くなるまで我慢して……」
「――悪かった」
何の言い訳もせず素直に謝るのは、自分でも本当に悪かったと思っているが故だろう。
そうと解っていても、マルスはまだ不満で――不安だった。
彼は本当に、解っているのだろうか?
「君が突然倒れてきて……どれだけ心臓に悪かったと思う?」
「……すまん」
再び謝罪を繰り返すアイクに、青年は大きく溜息を吐いて口を噤んだ。
――解っている。これ以上を求めるのは酷だ。
執拗なまでに彼の身を案じてしまうのは、こちらの勝手。それに応える義務など彼には無いのだから。
そう自分に言い聞かせるマルスに、寝台の中から青年が声をかける。
「もう良いから、あんたは戻ってくれ。
これ以上俺の傍に居たら、あんたにまで伝染るかも知れない」
「……控え室から医務室、さらにここまでずっと君に肩を貸して歩いてきた僕に、今更それを言うのかい?」
「……」
的確すぎる反論に、アイクが黙り込む。
「そういうわけだから。
観念して、病人らしく看病されることだね」
その言葉に、アイクはまだ何か言いたげに口を動かしたが、やがて諦めたように天井へ視線を向ける。
「……伝染っても知らんぞ」
「その時は、今度は君が看病してくれるだろう?」
にっこりと微笑んだマルスに、ベッドの上の青年は呆れ顔で肩をすくめた。
※
とりあえず、熱が出ているのだから冷やすのが先決と、マルスはタオルを持って一旦部屋を出た。
風呂場から洗面器をひとつ拝借し、それに水を張る。
冷たい水にタオルを浸して絞りながら、思うのはかの青年のこと。
――看病すると宣言したはいいものの。
少々強引すぎただろうか、とマルスは反省する。
アイクがここにやってきて以降、故郷の文化や経験が似通っているのもあって、何かと親しくする機会が多かった。
今ここに居る面子の中で、彼と最も近しい位置に居るのは自分だという自負はある。
――だが、それはあくまでもマルス自身から見えている側面に過ぎないのだ。
アイクの方は、果たして自分のことをどんな風に考えているのかは解らない。まして、普段から感情を顔に出さず口数も少ない彼だから、尚更。
そもそも彼は、こちらを友人だなどと思ってはいないかも知れない。
むしろ、何かにつけてお節介を焼いてくるうるさい奴、くらいにしか捉えていないのではないか。
距離が近くなるほどに、親しくなるほどに……笑顔の裏で、常に拒絶を恐れる自分が居る。
否、むしろ恐れているのは、自身の中で日に日に強くなる彼への感情そのものか。
それはきっと、自分が彼に向ける想いが、彼の向けるそれとは似て非なるものだから――。
パシャッと手元で水が跳ね、マルスは我に返った。
(……止めよう)
こんな事をぐるぐる独りで考えたところで、どうせ答えなど出ないに決まっている。
ゆるゆるとかぶりを振って思考を追い出すと、彼は水を湛えた洗面器をよいしょと持ち上げた。
部屋に戻ると、アイクは先程と同じ姿勢でベッドの中に居た。
「お待たせ、水とタオル持ってきたから」
枕元に立って声をかければ、「ん」と微かな返事と共に、紺青の双眸がこちらを見上げてくる。
思考に没頭していたせいで結構な時間が経ったように感じたが、実際はほとんど経過していないようだった。密かに安堵しながら、マルスは抱えてきた洗面器をそっとサイドテーブルに置いた。
「ちょっとこれ、外すよ」
手を伸ばし、彼の頭に巻かれた布をするりと解く。
それを軽く畳んで傍らに置き、ついでに熱の具合を診ておこうと額に触れる。手のひらを乗せたその額は、やはりまだ相当に熱かった。
先程絞った濡れタオルを取ろうと引きかけた手を、不意に掴まれる。
驚いて振り返ると、アイクがシーツの中から手を伸ばし、マルスのそれを捕まえていた。
「ど、どうかしたかい?」
「……あんたの手、冷たいな」
手首を捉えたまま、青年がぼそりと呟く。おそらく、微かに湿り気を帯びた手の冷たさを気持ち良いと感じた故に出た、無意識の動作だったのだろう。
高鳴る胸の内を悟られぬよう平静を装いながら、マルスはそっと手を伸ばし、包むように彼の頬へ触れる。
熱のある身体に、水に触れたばかりの掌を当てられて、青年は心地好さそうに目を細めた。
――ああ、駄目だ。
頭を軽く左右に振って、マルスは彼の顔から目を逸らしながら手を引っ込める。
今の彼の姿は――正直、直視しづらい。
熱に浮かされて潤んだ瞳だとか、上気した顔だとか……何より普段は自信に満ちている彼の、僅かながらも弱っているその様子自体が。
彼に対し内心浅からぬ想いを抱いている青年にとっては、それら全てが甘美なる毒であった。
「……あ、そ、そう言えば、さっきドクターから貰った薬は?」
自身の意識をその誘惑から引き剥がすため、マルスは半ば無理矢理に話題を逸らした。
そんな青年の内心に気づいた風も無く、アイクは枕元に無造作に放ってあった紙袋を取って差し出す。
受け取って中身を出してみると、それは小さな瓶に入った水薬だった。
まるで苔でも煎じたかのような、どろりと濁った濃緑色――味や見た目に気を遣う必要など無いと言わんばかりのそれに、アイクが顔をしかめる。
「……見るからに苦そうだな」
嫌そうに呟く様が子供のようで、マルスは苦笑しながら瓶を振ってみせる。
「良薬は口に苦しって言うだろう?
早く治す為なんだから、無理にでも飲んでもらわないとね」
無理にでも、の部分に反応したかのように、青年はぴくりと眉を動かした。
「……嫌だと言ったら?」
「『無理にでも』って言っただろう?」
観念することだね、とにっこり笑いながら瓶を示す青年に、アイクは深々と溜息をついて目を閉じる。
「――なら、口移しででも飲ませるか?」
「……えっ!?」
突然放たれたその言葉に、マルスの心臓が飛び跳ねた。
焦りの表情を隠しきれずに振り向けば、寝台の上の青年は面白そうに口の端を吊り上げる。
「……そんな顔をするな、冗談だ。
心配しなくてもちゃんと飲む。子供じゃあるまいし」
むか。
その言葉を耳にした瞬間。
マルスの胸に、少なからぬ苛立ちが沸き起こる。
冗談に決まっている。そんなことは解っていた。
けれど、それでも……それでも。
一瞬でも期待してしまった自分が、まるで馬鹿みたいで。
自分の気持ちなど知らないくせに――いや、知られていても困るのだが――そんな風に軽々しく煽っておいて、おまけに冗談だと?
思考と想いに雁字搦めにされた自分とは対極にある、無知ゆえの彼の純粋さが、酷く妬ましかった。
(……人の気も知らないで……)
腹立たしさと虚しさと、切なさと。
胸の内で複雑に入り交じる感情に突き動かされるように、マルスは手の中の瓶をきつく握りしめ――おもむろにその蓋を捻る。
「――マルス? どうかした……」
異変に気づいたアイクの言葉を遮るように。
マルスは瓶の中身を一気に呷り、そのまま彼に覆い被さった。
口内の液体が全て彼に移ったことを確かめてから、ゆっくりと背筋を伸ばし上体を起こす。
驚いたように見開かれた紺青の双眸に、多少なりとも意趣返しが出来たと溜飲を下げて。
「――これで、満足?」
つんと顎を反らして問うと、アイクはがりがりと髪を掻き毟った。
「……まさか、本当にやるとは思わなかった」
呟いたその顔が赤いのは、単に熱のせいなのか。
してやったりという満足感。
ただしその代償は、舌を刺す強烈な苦味。
「っていうか、苦っ」
顔をしかめながら、マルスは軽く舌を出す。
いかにも不味そうな色の薬は、全くもってその見た目を裏切らない苦さだった。
――もっとも。
その苦さも感じないくらい、触れた唇は甘かったけれど。
まだ、微かに余韻の残る下唇。
一瞬だけ薬指でそこを掠めて、マルスは笑った。
2011年発行のアイク受小説本「liKe a shInin' Super Star!!」より。