Nobody else
その人は、誰よりも強い騎士だった。
「――将軍!」
声を上げ、フランツは駆け抜けざまに手にした槍を振るった。
今しも手にした剣を振り下ろそうとしていた敵方の騎馬兵が、その一撃をまともに受けて吹き飛ぶ。
「将軍、お怪我はありませんか?」
「フランツか……すまない、助かった」
傍らに馬を寄せた彼に、銀の鎧を纏った騎士が礼を述べた。
「真銀の聖騎士」と称されるルネスの智将、ゼト――彼は5人もの敵に囲まれながら、一瞬にしてその全てを倒して見せた。
だが最後の敵を槍で貫いた瞬間、その表情に苦痛の色が閃いたのを、近くで戦っていたフランツは見逃さなかった。
「将軍……僕が先陣を務めます。少し休まれてください」
おこがましい発言だとは思いつつも、フランツは馬を進めながら遠慮がちに言う。
ゼトは自分とは比べ物にならないほど強い。それは重々解っていたが、古傷の痛みに耐えて槍を振るう姿を見て、そのまま放っておくことはフランツには出来なかった。
「大丈夫だ、心配は要らない」
「でも……」
不安げな眼差しで自分を見つめる部下に、ゼトは唇に微かな苦笑を浮かべた。
「……そうだな。先鋒とは言え、確かに単独行動は好ましくない。
フランツ、援護を頼めるだろうか」
「はい! お任せください!」
ぱっと明るい表情になり、フランツが元気良く返事をする。
「では、共に来てくれ。まずは敵の守りを斬り崩す」
「了解しました!」
意気揚々と馬首を返した若き騎士の背中を見やって、炎に似た色彩の髪を持つ聖騎士の口元にほんの僅か、どこか寂しげな笑みが淡く浮かぶ。
だが、それもほんの一瞬のこと。
槍を振って手綱を引いた時には、既にその顔は冷静沈着で有能な将軍のそれに戻っていた。
******
この日の戦闘は、辛くも自軍の勝利に終わった。
天幕の並ぶ野営地からやや離れた場所で、フランツは愛馬の世話をしていた。
既に日は山の向こうに沈み、辺りはうす青い闇に包まれ始めている。他の仲間達は夕食を終え、疲れた身体を休めるべくそれぞれの天幕に引き上げていた。人の気配が薄れると、急に闇が身近に感じられるような気になる。
馬の毛にブラシをかけ終え、ふうと一息ついたところで背後から深みのある声がかかる。
「フランツ、まだ残っていたのか」
「あ、将軍」
やってきたのは、ルネスの将軍ゼトだった。その身にまとわる凛と清澄な空気が、濃密な闇を切り裂いて退ける。
「君も疲れているだろう。天幕へ入って休むといい」
「はい、そうします。この子が落ち着いたら戻りますので」
馬の首を撫でながら、フランツは律儀な口調でそう答えた。
彼の愛馬は乗り手と同様にまだ若く、戦の後に時折落ち着かない様子を見せることがある。その姿が自分に重なって見えて、フランツは何となく放っておくことが出来なかった。
「僕よりも、将軍の方がお疲れでしょう。まだ休まれないのですか?」
「敵を退けたとは言え、まだ安心はできない。引き続き、エイリーク様の御身をお護りしなければな」
呼吸をするのと同じくらいの自然さで、ゼトはそう答えた。彼にとって、何よりも優先すべきは仕える主君の身の安全であり、そのためならば自らの全てを犠牲にすることも厭わない。その忠誠心こそ、高潔なる騎士として彼が他国にもその名を知られている大きな所以だろう。
「そうですか……あの、僕にも何か出来ることはありますか?」
「気持ちはありがたいが、明日からもまた戦いの連続になるだろう。
君はいまや、我々ルネス騎士団の中でも主力と言える存在になっているのだ。戦いに備えて、身体を休めておくのも大切な務めだよ」
「ほ、ほんとですか? 本当に……あっ」
喜色満面に訊き返そうとして、フランツは慌てて口を噤む。ゼトから賞賛を貰うたびにこの言葉を口にするのを、先日咎められたばかりだったことを思い出したのだ。
そんな部下の様子を見て、ゼトは微かに苦笑めいた表情を浮かべた。
「君は強くなったよ、フランツ。
――私も、安心して後を任せられるというものだ」
「え? それはどういう……」
疑問符を浮かべるフランツに、ゼトは静かに微笑んで見せた。
「――私は、間も無く一線を退くことになるだろう。
君達のような心強い後進が居てくれれば、何の心配も無い」
「ど、どうしてですかっ?」
明るい碧の双眸を見開いて、フランツが狼狽えた声を上げる。
「将軍は、我々ルネス騎士団の中核ではないですか! それなのにどうして……」
心底驚いた様子の部下を穏やかに一瞥して、ゼトは普段とは違う寂しげな微笑を浮かべ視線を逸らした。
どこか遠くを見つめている、深い暁の色の瞳。
「……君も知っている通り、私はルネスを脱出する際、敵将の槍を受けて右肩に深手を負った。
その時の傷は、今もこの身を苛んでいる――おそらく一生、癒えることは無いだろう」
衣服に包まれた右肩に指を触れさせながら、ゼトは全てを悟った表情でそう言った。
彼の言葉と共に、フランツの脳裏に過去の映像が蘇る。
ルネス陥落の際に別れ、再び邂逅を果たしたあの時――
王女を守って剣を振るうその人の右半身は、流れ出した深紅に染まっていた。
自ら流した血にまみれながら……それでも、その人は苦痛に屈すること無く馬上にあった。その姿はとても凛々しく――この上なく美しいものとして、彼の瞳に強く焼きついた。
――自分には無いその強さに、ずっと憧れてやまなかった。
「剣を握ることも、手綱を取ることも普通に出来る。騎士として戦場に出る上で、支障があるわけではない。
だが――失われたものは、ある。
以前と全く同じように、武器を振るうことはやはり出来ないのだよ」
しばし追想に浸っていたフランツは、ゼトの言葉に現実へと引き戻される。
遠くを見る、強い意志を秘めた深紅の双眸は、どこか寂しさを滲ませているようにも見えた。
「将軍……」
言葉も無く、フランツは上司の顔を見つめる。
彼にとって「真銀の聖騎士」ゼトは、絶対的な憧れと尊敬の対象だった。
この人さえ居てくれれば、祖国を失うという絶望的な今の状況でも、いつか明るい未来が訪れると信じることができる。彼にとってのゼトとは、そういう存在だった。
厳しさと優しさをもって部下達に接し、ひとたび戦いとなれば先頭に立って槍を振るう――フランツの知る限り、ゼトは常に完璧な騎士として皆の前に在った。
――この人が、こんな顔をするなんて。
騎士団を束ねる将軍として、普段は決して表に出さぬ人ゆえの弱さ。
それを自分の前で見せてくれたことを嬉しく感じると同時に、どうにも言い表せぬやるせなさが心によぎるのを自覚する。
同時に、自分達が決して解ろうとしなかったゼトの内なる思いにも気づく。
盲目的に強いと信じていた人も、冷静な表情の裏で様々な悩みや苦しみを抱えているのだと、フランツはこの時初めて実感した。
一生消えぬ傷を負い、以前のような剣技が振るえなくなった後――この人は、どんな思いで自分たち新兵の成長を見ていたのだろう。
そんな上司の内心も知らず、ただ彼に追いつこうと躍起になり、褒められて浮かれていた自分をフランツは恥ずかしく思った。
涼やかな暁の双眸に浮かぶ、どこか淋しげな色。
それが何に由来するものか、フランツはおぼろげにながら悟る。
この人は、苦しんでいる。
後進の騎士達の上に立つ立場にありながら、癒えぬ傷をその身に負い、ただ彼らに追い越されていくしかない自らの運命に。
年を重ねた者がいずれ年若い者達に抜かれてゆくのは、時間に縛られて生きる身なれば当然の理――だが、それがこんなにも早く訪れるとは、彼自身も予想していなかったに違いない。
「我が身はルネス王国のために在る。この傷も、エイリーク様をお護りするために必要であったもの――後悔は無い」
だが、とゼトは静かに言葉を継ぐ。
自らの運命を悟った者のみが見せる、荘厳ですらある美しい横顔。
「以前に比べれば、私は確実に弱くなっている。
不甲斐ないことではあるが、君達が私を越えるほどに成長を遂げてくれたのならば、その上に立つ資格は――私には、もはや無い」
尊敬する上司の口から静かに零れた言葉に、フランツは唇を噛む。
言葉にならない想いが心の中で横溢し、もどかしい気持ちだけが空回りする。
伝えたいことは、それこそ山のようにあるのに。
――何故、大切な時に限って、言葉は無力なのだろう?
食い入るような視線で、フランツは憧れの人の横顔を見つめる。
その理知的な光を宿す紅の双眸も、厳しくも慈愛に満ちた言葉を紡ぐ薄めの唇も、凛としたその佇まいも……何一つ、昔と変わってはいないのに。
もどかしく出口を探す感情が、身の内で急速に肥大する。
己の無力を痛感しつつも、それでも諦めたくない――ただ一途にゼトを想うその心だけが、身体を突き動かす。
「そんな……そんなことはありません!」
気がつけば、自分でも驚くほど大きな声で否定していた。
驚いたように深紅の双眸を見張るゼト。顎をぐっと持ち上げ、その顔を正面から見つめてフランツは言葉を継ぐ。
「将軍は、誰よりも強い騎士です!
将軍がいらしたから、僕らはここまで戦ってこれたんです。国が奪われて、騎士団の仲間も散り散りになって……それでも僕は、ここまでたどり着きました。
それもみんな、ゼト将軍……貴方が居てくださったから……!」
相手にすがりつかんばかりの勢いで、フランツは必死に訴えた。
「あなたは誰よりも素晴らしい騎士です! 例え僕らが束になったって、将軍に敵うわけなんて無い。
将軍が居てくださるから、僕は逃げずに戦っていけるんです。
だから、お願いです……弱くなったなんて、そんな悲しいこと、仰らないでください……!」
自分にとって、永遠の憧れであり目標でもある人――「真銀の聖騎士」とまで謳われるその人の思いが、フランツにはあまりにも痛かった。
例え、一切の戦う力を失ったとしても、彼はゼトに将軍として立っていて欲しかった。
自分達ルネスの騎士にとって、彼に代わる存在など何処にもいはしないのだと……そのことだけは、どうしても伝えたかった。
この人の全てを守りたい――心から、そう思った。
「フランツ……」
困ったように名を呼ばれ、髪に大きな手が触れる感触。
そこでフランツは我に返り、そして気づいた。
――抱きつかんばかりの勢いで、ゼトの胸にすがっているという自身の状態に。
「すっ、すみません将軍!
あの、その、で、出過ぎた真似をしてしまって……!」
フランツは真っ赤になり、飛びのくように後ずさった。心臓が戦の最中よりも早く脈打っている。
それはまるで、初恋の相手と初めて言葉を交わした時の緊張にも似て――。
「謝ることは無い。
……むしろ、詫びねばならないのは私の方だよ」
おそるおそる視線を上げると、涼しげな双眸に深い慈愛を秘めてゼトが自分を見下ろしていた。
その顔に、先刻までの淋しげな憂いの影は無い。そこに居るのは、常に凛然とした雰囲気を纏うルネスの聖騎士だった。
――自分の発した精一杯の言葉は、この人を少しでも救えたのだろうか?
騎士となった時から憧れてやまなかった微笑みを見上げながら、フランツはぼんやりとそんなことを考えた。
「見苦しいところを見せたな。すまなかった」
「いえ、そんな……」
何と答えていいか解らず、曖昧な返事をするフランツ。
その髪に軽く手を触れ、ゼトは深紅の双眸を柔らかく細める。
「君は優しいな、フランツ」
一瞬だけ掠めて離れた温もりに、心が甘くざわめくのを自覚する。
「……いえ、そんな」
僕はただ――少しでも長く、貴方と共に居たかったから。
憧れてやまない貴方に、ずっと輝いたままの姿で居て欲しかったから――。
言えなかった言葉は、ただ胸の奥に降り積もるばかり。
同じ返事ばかりを繰り返すフランツを訝るでもなく、ゼトは穏やかに彼を見つめる。
「ありがとう、フランツ。
これでますます、君の前で不甲斐ない姿を見せるわけにはいかなくなったな」
知性と慈愛に満ちた、清廉なる眼差し。
その瞳に見つめられ、自身の存在を認めてもらえるだけで、心のどこかがふわりと温かくなるような気がする。
尊敬や信頼という言葉で定義づけてしまうには、あまりにも甘すぎるもどかしさ。
――この感情に名づけるならば、どんな名が相応しいのだろう。
「……お役に立てて、光栄です」
胸の内にある不可思議な感情を押し殺し、フランツは微かな笑みを浮かべる。
そんな二人の姿を、フランツの愛馬が無邪気な瞳でじっと見つめていた。
「――話し込んでしまったな。
フランツ、そろそろ戻った方がいい。君の馬も落ち着いたようだ」
彼の背後で草を食む馬に視線を移し、ゼトはそう告げた。
「はい。では、お先に失礼致します」
丁寧に一礼して、フランツはその場を去るべく歩き出す。
そして、十歩ほど進んだところで立ち止まり、背後を振り返った。
「将軍……」
視線の先には、背を向けた時と変わらぬ位置に立っているゼトの姿がある。
その精悍なシルエットに向かって、フランツは静かに口を開いた。
「例え、将軍が剣を取られなくなっても……僕が、真の騎士として認められる日が来ても。
僕はずっと、将軍の背中を追い続けます」
――貴方は、誰よりも強い騎士だから。
闇の向こうにいるゼトが、瞠目したように見えた。
その影に深々と頭を下げると、フランツは踵を返して天幕の方へと駆け去っていった。
その人は、誰よりも強い騎士だった。
今までも――そしてこれからも。
フラゼトはいい先輩・後輩同士でほのぼのしつつも、信頼なのか愛情なのか境界の微妙な関係なのが個人的な理想です。