君が初めて笑った日
初めて会った時から、彼の笑顔を見た記憶が無かった。
真面目で堅物で無表情で、仲間の輪にもほとんど加わってこなかったアイツ。
どうしても笑わせてみたくって、ひたすら一人で空回りしたっけ。
どうやったら、あの無表情を崩すことができるのか。
失敗するたびに悔しくて、最後はほとんど意地になってた。
絶対に、アイツを笑顔にしてやるんだ!――って。
その野望を、図らずも現実のものにしたのは。
本当に些細な、日常のちょっとした出来事だった。
※
その日も、例によってアイツは一人でいた。
昼休み、友人達と食堂に入った俺は、自然に辺りを見回してアイツの姿を探す。
今ではそれが、すっかりクセになっていた。
視線の端で捉えたのは、食堂を出てどこかへ向かう後ろ姿。
特徴的な金赤の髪が、一瞬だけ視界に残って消えた。
昼食を終えて訓練場に向かうのか、と一瞬思ったが、午後の講義が始まるまでにはまだ結構な時間がある。
それに、彼が消えたのは食堂の東側の出口――訓練場とは反対側の方向だ。
アイツは毎日自室・教練室・食堂を往復する以外、他の場所には滅多に行かないってこと、俺は知っている。
いつもと違う行動――それが無性に気になった。
「悪い、ちょっとヤボ用。先食ってて!」
友人達にそう言い残し、俺は食堂を出てアイツの後を追った。
一瞬見失った後ろ姿は、すぐに発見することができた。
どことなく辺りをはばかるような雰囲気で、用心深く視線を巡らせつつ早足で歩いていく。
いつも背筋をピンと伸ばして、年に合わない落ち着きを見せている普段のアイツとは違った感じだ。
事あるごとに先輩や教官の目をかすめて抜け出している俺とは正反対、成績優秀・品行方正の見本市みたいなアイツにも、人並みに秘密があるんだろうか。
――ますますもって、気になるね。
一定の距離をとりながら追っていくうちに、見たことのないエリアに入り込んでいた。
方角から察するに、ちょうど俺達が寝泊りする宿舎の裏手あたりになるだろうか。
そこまで離れてはいないけれど、いい具合に樹が繁っていて、ここから宿舎の窓は見えない。ということは、宿舎からもこちらを見ることはできないってコトだ。
そして、宿舎の窓からちょうど死角になった位置に、樹に埋もれるようにして古い番小屋のような石造りの建物があった。
自慢じゃないが、隠れ家だの抜け道に使えそうな場所だのには詳しい自信がある。
その俺も、こんな場所があったなんて今の今まで知らなかった。
今度サボる時に使ってやろうとよからぬ算段をする俺をよそに、前を進んでいたアイツはつと足を止めると、辺りを慎重に見回してからその小屋の中に滑り込んだ。
俺も足音を立てないように注意しながら、建物に近づく。
間近で触れた石壁は、もう随分前から人の手を経ていないことを感じさせた。
蔦に絡みつかれ放題で、ところどころ崩れかけている。
多分、昔は見張りが詰めるための物見小屋として使われてたんだろう。必要が無くなって、ずっと放置されていたみたいだった。
息を殺して、扉の無い入口から中を覗く。
中は薄暗かったが、崩れて穴の空いた天井から幾筋かの光が射し込んでいるため、視界は悪くない。
ほのかに黴臭い空気の中、隅の方で屈み込んでいる後ろ姿が見えた。
目を凝らして見ていると、彼はおもむろに抱えていた小さな包みを開き出した。
それをそっと床に置くと、何かに呼びかけるような囁き声を発する。
その声に応えるかのように、闇の中から包みの傍に這い出てきたモノを見て、俺は目を見張った。
あれは……猫?
現れたのは、痩せこけた小さな子猫だった。
辛うじて立っているという風情で、よろよろと包みの傍に寄ってくると、その中身に齧りつき始める。
その様子を、アイツは穏やかな目で眺めていた。
微かに伺えるその横顔は、俺が今まで見たことが無いような表情を浮かべていて。
――とても、優しい瞳。
こいつはこんな顔も出来るんだと、その時初めて知った。
ガラッ。
「!」
不意に響いた音に、その横顔が凍りついた。
同時に俺も愕然とする。
もっとよく見ようと身を乗り出した瞬間、手を掛けていた壁が僅かに崩れたんだ。
しまったと思っても、後の祭り。
「……せ、セイン……!?」
振り返り、俺の姿を認めて立ち上がる彼。
青ざめた表情で、何かを言いかけた唇が震えてる。
「……あー……えーと。
悪い。出て行くトコ見かけたから、つい気になっちゃって……さ」
言い訳しながらも、俺は相手の動揺ぶりに疑問を感じてた。
後をつけられたことはショックかも知れないが、それだけなら咎めこそすれ、こんな絶望的な顔をすることなんてないはず。
頭を掻きながら、相手の様子をそれとなく観察し――
不意に、答えらしき推測にたどり着く。
背後を……一心に餌を食んでいる子猫を隠すかのような、彼の立ち位置を見て。
宿舎で生き物を飼うことは、当たり前ながら禁止されてる。
例え子猫を拾ったとしても、自室で面倒を見ることはできない。
だからと言って、宿舎じゃなければイイってわけでもない。
要するに――彼のやってることは、立派に規律違反なんだ。
誰にも、気づかれちゃいけなかった。
その秘密を、俺に見つけられた。
真面目な優等生で通っている自分が、規則破りをしてるってことを他人に知られたくなかったのか。 あるいは、それを教官に告げられることを恐れているのか。
「ケント……あのさ、」
「……解っている」
言葉を選ぶ俺の機先を制するように、彼――ケントは堅い口調で言って項垂れた。
その様子を見て、俺は直感で悟る。
ケントが恐れているのは、自分の優等生という看板に傷がつくことでも、教官の覚えが悪くなることでもない。
秘密が発覚することで――この子猫が野に放り出される。
それこそを、こいつは心配してるんだ。
そう。
コイツが一部の口さがない奴らの言うような、「出世にしか興味のない人間」だったなら、俺はきっと興味なんて持たなかった。
本当はイイ奴なのに、ちょっと感情表現がヘタなせいで、周りに誤解されたままってのが他人事ながらあまりにも勿体無くて。
ちょっと笑顔でも見せれば、人はきっと寄ってくるはずなのに。
それだけの資質を、コイツは持っている。
俺みたいに上辺だけの人当たりの良さじゃなく、人を信頼させるに足る誠実さがある。
それに。
いつでも精一杯努力している姿を見ていると、コイツのためなら少しくらい骨を折ってもイイかなって気にさせられるんだ。
……これについては、単に俺がお節介なだけかも知れないけど。
餌を平らげた子猫が、か細く鳴いて身体をケントの足に擦りつける。
辛そうな目をして、その小さな身体を抱え上げようとケントが腰を屈めかけた時。
「秘密にしよう」
「――え?」
一瞬、何を言われたのか解らないという顔で、ケントが俺を見つめる。
その目に笑い返して、俺は彼の足元にいる黒い毛のカタマリを抱き上げた。
「なー、お前もココに居たいよな?」
目線の高さに持ち上げられた猫は、俺の問いかけに同意するかのように細く鳴いた。
「し、しかし……」
慌てたように、ケントが言いかける。
規則違反が判明した場合、それを知っていて隠していた人間にも責任が問われる。おそらくはそれを危惧しているんだろうことが、その表情から読み取れた。
親友って仲でもない、単にお節介でつきまとってるだけの俺のことまで心配してくれるなんて……本当、どこまでイイ奴なんだか。
「コイツが独りでも大丈夫なくらいに育つまでの話だろ?
大丈夫、俺も協力するからさ。こう見えても、隠蔽工作には慣れてんのよ?」
軽い口調で、規則違反はお前だけじゃないってことを示唆する。
実際、俺がちょいちょい講義をサボって問題児扱いされてるのは、ケントも重々解っていることだろうし。
「このことは、俺とお前、2人だけの秘密な! OK?」
笑顔でそう宣言した俺に、ケントもつられて表情を緩めた。
「セイン。――ありがとう」
深々と頭を下げた後、とても自然に……ケントは微笑んだ。
他の誰でもない、俺だけに向けられた。
ずっと見たいと思い続けてきた、心からの笑顔。
不覚にも、俺はその表情にしばし見惚れてしまった。
自他共に認める女のコ大好きなこの俺が、同じ男の笑顔に目を奪われるなんて、前代未聞ってか由々しき事態だ。
――でも。
まあいいか、と思った。
そして同時に、コイツが笑顔のままでいられるなら、どんなことでもしよう――とも思った。
こんなに綺麗に笑えるのに……それを表に出せないなんて、あまりにも勿体無さ過ぎて、哀しいことだから。
そんな風に考えている自分自身を、俺は驚きつつも客観的に受け止めていた。