Only one
「お気をつけて、美しいお嬢さん方〜」
タクシーに乗り去ってゆく最後の女性客に、極上の笑顔でひらひらと手を振る。
車が走り去り、テールランプが朝もやけの中に消えたのを見届けた後、セインは踵を返して煌びやかな店の中へと戻っていった。その顔から先刻の笑顔は消え、代わりに悪戯な子供を思わせる微笑が口元に浮かんでいる。
最後の客を送り出した店内は、眩いほどの照明も落とされ必要な分の明かりだけになっていた。
洒落たスーツを着こなした男達は既にほとんどが引き上げており、店じまい後の後始末を担当する清掃係がフロアの掃除を始めている。
「セイン」
フロアを横切って控え室へと向かう青年の背に、低く声がかかった。
「あ、チーフ」
振り向くと、この店の経営を仕切っているチーフマネージャーが立っている。
「また随分と話し込んでいたな。他の連中はもう上がったぞ」
「いやぁ、情熱的なお嬢さん方で。なかなか離してもらえなかったんですよ」
へらりと笑いながら言うセインに、上司は肩をすくめた。
「悪い癖だな。お前は客に対して尽くし過ぎる。
確かに、俺達の仕事は客に誠心誠意奉仕することだが……引き際を心得ておかねば、自分が痛い目を見るぞ」
「ええ、そりゃもう、重々承知してますって」
調子よく答えるセインを一瞥して、チーフはひとつため息をつくと、くゆらせていた煙草を傍の灰皿に押し付ける。
「……お前には期待している。俺だけじゃなく、上の奴等もな。
下手な真似をして、今の地位を棒に振らんように気をつけることだ」
今や、お前はこの店きっての稼ぎ頭なんだからな。
そう告げると、彼は踵を返して店の奥へと消えていった。
「……はいはい、よーく解っておりますよっと」
冗談めかして独りごちた後、セインは視線を巡らせてカウンターの方を見た。
その上は綺麗に片付けられており、中に人の姿は無い。
誰もいないカウンターをしばらく見つめた後、肩をすくめて彼は更衣室兼控え室となっている部屋へと向かった。
ナンバーワンになりたいわけじゃない。
地位や名声なんてどうでもいい。
ただ、毎日を楽しく生きていたいだけ。
「Staff Room」とプレートの掛かった扉を開け、無駄に広いスペースにソファだのロッカーだのが詰め込まれた中へと入る。
俺以外の連中はもう帰ったのか、いつもなら複数の人影があるその部屋に人の気配は無い。
すぐに着替える気にもならなくて、部屋の真ん中に置かれた革張りのソファに身を投げ出す。
だらけた姿勢で天井を眺めてると、不意にドアノブの回る音がした。
上体を起こした俺の目に、ゆっくりと開く扉が映る。
そこから現れたのは――黒と白の制服を着た、見覚えのある姿。
「あれ、ケント?」
俺が声を発すると同時に、相手も驚いたように少し目を見張る。
俺と同じように、他に人が残ってるなんて思ってなかったんだろう。
「お前、まだ居たんだ? カウンターに居なかったから、もう帰ったんだと思ってた」
「……表に、ゴミを出しに行っていたから」
そう答える彼の無表情な瞳には、微かに困惑の色が見て取れた。
明らかに、俺との距離を測りあぐねている気配。
俺の座るソファを避けるようにしてロッカーへと向かう、その後ろ姿を目で追う。
明るい色の髪に、モノトーンの衣装がよく似合っていた。
ケントは、この店で働いているバーテンダーだ。
元々はこの近辺の小さなバーにいたところを、たまたまそこに立ち寄ったうちのボスが見初めて、半ば強引に引き抜いてきたらしい。こういうことに関しては目の付け所がいいんだよな、あの人は。
専属バーテンダーとして雇われている立場だから、こいつは俺達ホストみたいな接客は一切しない。いつも店の奥に設えられたカウンターの中で、黙々とグラスを磨いたりカクテルを作ったりしていた。
もちろんうちのボスが気に入るくらいだから、ホストにしたっておかしくないくらいの器量は持ってる。けど、こいつはこんな場所で働いているのが不思議なほど、真面目でお堅い優等生だった。まずもって、ホストには向かないだろう。
……だからって、バーテンダーに向いてるとも思わないけど。
こいつが最初に店にやって来た時、俺は妙な奴が来たもんだと思った。
見るからに真面目そうな奴で、おそらく続かないだろうな、なーんてことを考えただけだった。
けど、チーフが彼を店の皆に引き合わせた時――俺は不意を突かれた。
その琥珀の瞳は、この喧騒の中に在ってさえも、ただ静かに目の前の物事を見つめていた。
あらゆる澱みを受け入れ、また拒絶するその光。
そこには欲も打算も無く、虚飾を知らない純粋な精神がそのまま表れたような目だった。
その瞳と正面から視線が合った瞬間……俺は本気でヤバイって思ったっけ。
心に空虚を抱えた女性達とも、欺瞞と野心に満ちた男達のものとも違う。
今まで出会ったことの無い――何者にも似ていないその真っ直ぐな瞳に、一瞬で心奪われた。
――誰かを本気で欲しいと思ったのは、初めてだった。
「悪い、そこの灰皿取ってくんない?」
俺の頼みに、ケントは怪訝な表情をしながらも、素直に棚の上から灰皿を取る。
――そう、そもそも俺は煙草なんて吸いやしない。
これはケントを傍に来させたいがための、単なる口実。
身を屈め、テーブルに灰皿を置いたその手を捕まえて引き寄せる。
強張る身体を優しくソファに押し付け、俺はそのまま唇を重ねた。
髪に指を差し込んで、いっそう深く口接ける。弱々しい腕が抵抗するように胸を押すけれど、遠慮なのかためらっているのか、暴れたりする気配は無かった。
困惑気味の唇の感触をひとしきり楽しんでから、俺は身体を離した。
逃げられないように、腕だけは捕まえたままにしておく。
「……悪い冗談は止めてくれと言ったはずだ」
無理に抑えた声音の中に、隠し切れない非難が滲む。
実は、こんな風なコトをこいつにするのは初めてじゃない。
何度かこうして触れてみたけれど、その度にこいつは疑いの眼差しで俺を見る。
まあ、商売的にもキャラ的にも、信用を得るのが難しいってことはよく解ってたけどさ。
「冗談なんかじゃない」
目を伏せたその耳元へ囁くと、捕まえた身体が微かに震える。
戸惑いと疑念を秘めた琥珀の瞳が、俺の真意を探ろうとするかのように細められた。
ホントのところ、遊びならどれだけマシだったか。
仮にもナンバーワンだの稼ぎ頭だの言われてるホストが、よりにもよって男に惚れちまうなんて、笑い話にもならない。
――それでも。
好きなものは好きなんだ。これだけは、自分でもどうしようもない。
ほら、恋は盲目ってよく言うじゃない。
あの日、俺はその琥珀の瞳に捕まった。他の誰にも似ていない、不器用で真っ直ぐな一人の男に。
「――どうして、私など」
ぽつりと呟いたその声に、俺は幾分自嘲気味に笑ってみせる。
どうして、って?
正直、それは俺自身が訊きたい。
「お前は綺麗だ。俺が今まで見てきた誰よりもね」
そう告げると、驚いたように琥珀の目が見開かれ、白皙の頬がはっきりと赤く染まる。
俺の視線を避けるように俯くケント。誰が見ても整った外見をしてるのに、こいつはこの手の台詞には全く免疫が無いらしかった。
まったく、今の世の中には目の腐った奴しかいないのかねぇ?
こんなに魅力的な人材を放っておくなんて、勿体無いったら。
「……そういう台詞は、女性に言えばいい」
「お前がいい。お前じゃなきゃダメなんだ」
逃れようとする肩を押さえて、俺は琥珀の瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「からかうな」
「本気だよ」
速攻で切り返すと、睨みつけてくる視線がわずかに緩む。
俺の手を振り払おうと抵抗していた力が弱まった隙を突いて、俺は再びその身体を引き寄せて腕の中に収めた。
さらさらと硬質の髪を梳いてやると、触れているその身体から次第に緊張が解けていくのが解った。
「……どうせ、遊びの癖に……」
耳元で吐息混じりに呟く声に、俺は悪戯っぽく囁き返す。
「本気だって証拠、見せてあげようか?」
何かを言いかけた唇を、自分のそれで再び塞いだ。
今度は軽く触れただけで離し、きちんと糊の効いた襟から覗く首筋に唇を落とす。顎のラインに沿って耳の下辺りまで移動させると、腕の中の身体がびくんと反応した。
それに気を良くして、手のひらで胸の辺りを撫でる。
掠れた甘い溜息と共に、体重が俺の方へ預けられてくるのを感じた。
もう店には誰もいないし……せっかくだから、このまま一気に落としちゃおうか?
そんな良からぬ算段をしつつ、襟元のタイを引き抜いてボタンに手を掛けた時。
「痛って……!」
「い、いい加減にしろ!」
後頭部に走った衝撃と共に、ケントの叫び声が降ってきた。
「こんな場所で……することじゃないだろう!」
耳まで真っ赤にして、ケントは俺の手を押しのけながら睨んでくる。握り締められた拳が微かに震えていた。
ちょっと残念だけど、こういうお堅いところがまたイイんだよねぇ。今のご時世、本当に珍しいほど純なタイプ。
「はいはい、悪かったよ」
両手を挙げて降参の意を示す俺の手からタイを奪い取り、ケントは赤くなった顔をそむけるようにしてソファから立ち上がった。
「なあ、今度俺の家に来なよ」
ロッカーを開けているケントの背中に声をかける。
「……身の危険を感じるんだが」
怒ったような、それでいてどこか困ったような微妙な表情で唸るケントに、俺はにっこり笑って見せた。
「当然。それが一番の目的だからねぇ」
「……呆れた奴だ」
溜息をつくケント。願望が見せる贔屓目かも知れないけど、その顔に俺への嫌悪は無いように思える。
――これって、脈ありと思っていいのかな?
まあ、脈が無くても振り向かせるつもりでいるんだけどね。
「なあ、いいだろ?」
「――考えておく」
しばしの間をおいて、小さく返ってきた返事。
社交辞令かも知れないけど、真に受けておきたかった。
「オッケー。その言葉、忘れないでよ?」
一度色よい返事がもらえなかったからって、諦める俺じゃない。
むしろこれからが勝負――この堅物をいかにして落とすか、それを考えると俄然やる気が湧いてくる。
こんなコト言ってたら、またぞろ「遊びだろう」と疑われるのが目に見えてるからナイショだけどね。
「まあ見てて。いつか絶対『ハイ』って言わせてみせるからさ」
「……妙な奴だな、お前は」
そう言って、ケントは微かに苦笑らしき表情を浮かべた。
ナンバーワンになりたいわけじゃない。
地位や名声なんてどうでもいい。
ただ――たった一人の相手に、好意を持たれたいだけ。
それだけが唯一、俺の望み。
書き始めた日にたまたまテレビつけたら、歌舞伎町のホスト特集が映ってつい見てしまった記憶があります。