sweet + bitter drops


「――オスカー。頼みたいことがあるんだが」

 のどかな昼下がり。
 厨房で片付けに勤しんでいたオスカーの元へやってきた彼女は、開口一番そう告げた。

「やあ、アイクか。どうかしたのかい?」
 笑顔で問えば、言葉を選ぶかのようにしばし沈黙し――ややあって、両者を隔てているテーブルの上を指す。
「……それ」
「ん?」
 一瞬、相手の意図を読みかねて首を傾げたオスカーだが、その指が示している辺りを見て、ああと納得したように頷いた。
「チョコレートの事かい?」
「そう、それだ。
 さっきまで、ミスト達はそれを作っていたんだろう?」
 彼女の言うとおり、先程までこの厨房にはミストをはじめとする女性陣が集まっていた。いま青年が片付けているのも、その残骸である。


 ――聞いた話では、ベグニオンには毎年この日に「女性が男性へ菓子を贈る」という風習があるらしい。
 ベグニオンでは誰でも知っている伝統行事だと、元天馬騎士団のマーシャは言っていたが、クリミアに暮らしていた彼らにとっては初耳だった。
 彼女曰く、菓子と言っても贈られるのは大半がチョコレート。そして女性が贈るそれには、「世話になっている相手への親愛の印」と「想いを寄せる相手への愛の証」という二つの種類があるらしい。
 そもそも、普段恋愛において受け身でいる女性達が、この日だけは自ら男性に愛を囁いても良いという意味合いで始まったのだとか何とか……オスカーの調べた文献には、そんな事が書かれてあった。

 この手の話題に、年頃の少女達が興味を示さないはずも無い。
 マーシャの話でその風習の存在を知ったミストは、ワユやティアマトを半ば引っ張り込む形でこのイベントを実践しようと試みた。その結果、傭兵団内でも一番の料理の腕前を持つオスカーに白羽の矢が立ったというわけである。


「そうだよ。さっきようやく出来上がってね」
 きゃあきゃあと随分賑やかにやっていたから、彼女の耳にもそれが届いたのかも知れないな、とオスカーは苦笑する。
 そんな彼をよそに、アイクはじっとテーブルの上の器――その中に余っている溶けたチョコレートを見つめていたが、やがておもむろに視線を上げる。

「――俺にも、作り方を教えてくれないか」

「…………えっ?」
 一瞬、自分の耳が信じられず、オスカーは思わず訊き返していた。
 ――今、彼女は何て?

「さっきミスト達が作ってた奴を、俺にも教えて欲しいんだが」
「…………」
 一言一句漏らさずにその言葉を聞いて、青年は沈黙する。
 どうやら、自身の聴覚に異常が発生したわけではなかったらしい。

 反射的に窓の外へ目を向ける。
 抜けるような青空が広がっていた。

「どうかしたのか、オスカー」
「……いや、雪でも降ってくるんじゃないかと思って」
「……どういう意味だ?」
 皮肉ではなく、純然たる疑問の表情で首を傾げるアイクに、オスカーはかぶりを振った。
「――何でもないよ。気にしないでくれ」

 年の割にませたところもある妹に比べ、姉の方はひたすら剣の修行に打ち込むだけで、同じ年頃の少女達が胸を踊らせるような事にはまず興味を示さない。その決して長くない人生の大半を男性として生きてきたのだから、それも無理からぬことだろう。
 だからこそ、さっきまで菓子作りに勤しんでいた中にその姿が無いことを疑問にも思わなかったのだが……さて、どういう風の吹き回しだろう、とオスカーは内心で独りごちた。

「珍しいね、アイクが料理に興味を示すなんて」
 正確に言えば、食べる方ではなく作る方に、ということだが――そう告げるオスカーに、男装の少女は僅かに眉根を寄せる。
「……おかしいか?」
「そんなことはないよ。
 やり方を教えるから、作ってみるかい?」
 穏やかに問われ、アイクは無言ながらも微かに頷いた。



 ――とは言うものの。
 普段、食事当番の際に必要最低限の調理しかしていない彼女に、細かく入り組んだ手順の菓子作りはさすがに荷が勝ち過ぎた。
 物覚えは決して悪くなく、むしろ良い方だ。剣の手入れや修繕といった作業は難なくこなしてしまうのに、何故か料理となるとその能力が全く発揮されない。
 やはり人間、向き不向きというものはあるのだな、などと妙に納得してしまうオスカーである。

 勿論、料理の得意な彼が手伝えば、作業はもっとスムーズに進むだろう。
 しかし、アイクは彼の手を借りることを良しとせず、あくまで自分自身で工程を進めることに拘った。それについて、彼女は何も言わなかったが、オスカーにはその心情がおおよそ理解できた。


 ――自身の手で作り上げるからこそ、そこに意味と価値が出来る。
 その人の為に、自ら手間をかけて何かをしようとする……そんな風に思える相手が、この少女にも出来たのだろうか。

 そうであれば、それは彼女にとって良い傾向だとオスカーは考えていた。
 いくら男性のように育てたところで、彼女が紛れもなく女性であるという事実は覆らない。男として生きるという道を否定する気は無いけれど、女として生きる幸せも選択肢に含めて良いのでは無いか。
 生まれ持った性質を無理矢理に歪めれば、必ずどこかで反動が生じる。それがやがて、彼女自身を傷つけ、壊してしまうことになりはしないか――オスカーにはそれが気がかりだった。

 だからこそ、アイクが普通の年頃の娘のように、気になる相手の一人でも出来たのだとしたら。
 それはとても素晴らしく、祝福すべきことだろう。
 これをきっかけに、彼女は女性としての生き方の可能性に気づけるかも知れないから。


 ――けれど。
 同時に寂しさのようなものも感じていることを、オスカーは否定できなかった。

 共に過ごしたのはまだほんの数年だが、自身に同じ年頃の弟が居ることもあって、彼はアイクのことをさながら実の妹のように思っていた。
 そんな彼女が、自分の与り知らないところで変わっていく。
 知らない誰かに心を開き、いつかは不器用ながらも笑顔を花開かせられるようになるのか。
 それが嬉しくもあり、寂しくもあり……そしてほんの少しだけ、悔しくもあった。


 ――これではまるで、娘を嫁に出す父親の心境のようではないか。
 オスカーは独り苦笑する。

 そんな彼の思いなど露知らず、不器用に器具を操るアイクは、真剣そのものの横顔を見せて作業に没頭している。
 時折指示を出しながら、オスカーはそんな姿を慈しみに満ちた目で見守り続けた。



 日も大分傾き、夕食の支度にかかる頃合いが迫った頃。
 ようやく「それ」は形となった。

 それは確かに見た目もいびつだし、味もそう褒められたものでは無いだろう。それでも、剣の修行中と同じくらい……もしくはそれ以上に真剣な表情で作業に挑んでいた彼女の想いに比べれば、そんなものは些事でしかあるまい。

(――これを貰う相手は、幸せ者だな)
 優しい眼差しで少女の横顔を見守りながら、オスカーは思った。

「よく頑張ったね、アイク。
 この短時間でよくここまで作れたものだ」
「……あんたの教え方が良かったからだ。
 俺一人じゃ、こんな物は絶対に作れなかった」
「私は口を出しただけで、作業は一切手伝っていないからね。
 これは紛れもなく、君が自分の手で作ったものだよ」
 穏やかな笑顔でそう告げてやると、アイクは無表情な面にほんの少しだけ照れたような色を浮かべた。

「このままじゃ、渡すのに具合が悪いね。
 ミスト達が使った包装紙が残っていたはずだから――」
 少女に背を向け、背後の棚へと手を伸ばした青年の耳に、低い呟きが届いた。

「――いや、必要ない」
「え? だけど……」
 訝しげな表情で振り返ったオスカーの前に、ずい、と突き出された皿。


「渡す相手は、目の前に居るからな」

 その上に乗っているのは、少しいびつで、けれど想いのこもった――


「…………えっ?」
 一瞬、頭が真っ白になる。
 常に冷静で聡明なはずの青年が、発するべき言葉を失ってただ立ち尽くす。

 そんな彼を真っ直ぐに、迷いのない目で見つめて。
 彼女は口を開いた。

「あんたに、渡したかった。
 ――迷惑だったか?」


 自分はこれを、どういう意味に受け取れば良いのだろう。

 世話になっているからという「親愛の印」?
 それとも――


「……ありがとう。嬉しいよ」
 悩み迷う感情にはひとまず蓋をして、オスカーは微笑みながらアイクの手から皿を取り上げた。
 例えどちらであったとしても、彼女が切り傷を作りながら完成させたそれを、突き返せるわけがなかったから。

「無理にとは言わないが……」
 彼の表情を困惑と見てとったのか、やや声を落としたアイクに、青年はかぶりを振る。
「嘘は言っていないよ。ちょっと驚いただけでね。
 だって普通、渡す相手当人にその作り方を聞くなんて思わないじゃないか」
「……そうか?
 だって、作るなら美味い方が良いだろう? だったら一番料理の出来る奴に聞くのが当然だと思ったんだが」
 何かおかしかったか? と首を捻るアイク。その考え方がとても彼女らしくて、オスカーはくすくす笑った。


 彼女に了承を得てから、皿の上に乗った一口大のチョコレートを一粒、口に運ぶ。
 ちょっと焦げたような香りと共に、舌の上で溶けたそれは甘く――少しほろ苦かった。
 それは、今の彼自身の心境によく似ていたかも知れない。

「……うん、美味しいよ」
「そうか。良かった」
 ほんの少しだけ、その頬に赤みが差すのを。
 オスカーは見ない振りをして、二つ目のチョコレートに手を伸ばした。






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