ウチの後輩に手を出すな
「あら、可愛い坊や。ちょっと遊んでいかない?」
背後から不意に声をかけられ、おれは振り返った。
視線の先には、漆黒のドレスを纏った女性がひとり、微笑みながら立っている。
「……え? あの、もしかしておれのことですか?」
ひと渡り周囲を見回して、女性の目が確かにおれを見ていることを確認し、思わず自分の顔を指差す。
「そうよ。うふふ」
妖艶に微笑んで、その女の人は滑るような動作でするりとおれの傍らに立った。
戦いの合間に、時たま得られる自由時間。
自主練にも飽きたおれは、気分転換がてらに街を適当にぶらついていた。
実は、さっきまである先輩と一緒だったんだけど……あの人、キレイな女の人を見るとすぐに追っかけていっちゃうからなあ。
途中まではなんとかついて行けてたけど、ちょっと目を離した隙に見失ってしまった。
はぁ……隊長の頼みとは言え、お目付け役ってラクじゃない。
全く、これじゃあどっちが先輩なんだか解んないや。
――だけど。
不平を言う口とは裏腹に、内心ではあの人と一緒に街を歩けるのがすごく嬉しかった。
初めて会った時、その独特の雰囲気に目を惹かれた。
最初こそ、変わった人だなあとか、騎士には向いてないんじゃないかとか、そんな風にしか思わなかった。
……でも、それは間違ってた。
子供っぽい笑い方も、どこまで本気か解らない物言いも、ふざけたような軽い態度も。
その裏に、自由であることに責任と誇りを持っている大人の心があるからこそ出来るんだと気づいた時。
おれは、あの人を心底から凄いと思った。
風みたいに自由なのに、その精神は紛れも無く騎士そのもので。
あの人と同じ騎士隊に入れることになって、本当に嬉しかった。
早く一人前だって認めてもらいたくて、一生懸命訓練に打ち込んだっけ。
……現実は、未だに半人前だってからかわれてるんだけど。
ずっと、あの人の背中を追いかけてきた。
いつの頃からだろう?
――それが、単なる憧れとは違う気持ちだと気づいたのは。
正直な気持ちをぶつけても、そのたびに上手くかわされてしまうけど。
その目はいつだって女の人ばかり追って、なかなかおれの方を見てはくれないけれど。
いつもおれを子供扱いして、対等な目線で話を聞いてくれた試しがないけれど。
それでもやっぱり……大好きなんだ。
だからこそ、せっかく二人で街を回れるチャンスだったこの時に、相手とはぐれてしまったのが悔しい。
それに隊長から『妙な真似をしないよう見張っていてくれ』と頼まれている手前、見失いましたなんて言えないしなぁ……。
街は薄闇に包まれ、通りの端々に明かりが灯りつつある。
人ごみを掻き分け、背伸びして見慣れた後ろ姿を探していたおれの背後から、声がかかったのはその時だった。
「まだ若いのね。近くで見ると一段と可愛い顔……」
くすくす。鈴の鳴るような笑い声。
するりとおれの腕に手を絡ませ、女の人が肩にしなだれかかってくる。花の香りにも似た強いそれが、ふわりと鼻先をくすぐった。
「あ……えっと、あの」
「こんな時間にこんな場所で独りきりなんて、とーっても危ないのよ?
お姉さんが守ってあげないとね。ふふ……」
何をどう言っていいのか迷っているうちに、彼女はどんどん話を進めていく。
意味は解らないけどとりあえず断らなければ、と思いつつも、女の人の思わせぶりな言葉が引っかかり、つい辺りを見回した。
……人捜しに夢中で気づかなかったけど……ここって、もしかして街のかなり外れの方?
唯一足を踏み入れていない、北側のブロック。
そこに何があるのか先輩達に訊いてみても、「お前にゃまだ10年早いよ」と言われるだけで、結局教えてもらえなかった場所。
周囲を行き交うのは、おれより年上に見える男性と、薄絹に装身具で美しく着飾った女性ばかり。
薄暗い路地に立ち込める、紫煙と化粧の濃密な匂い。
遅まきながら。
おれは、自分がひどく場違いな空間に来てしまったことを自覚していた。
「あ……」
戻らなきゃ。反射的に思った。
「すいません。おれ、人を捜してるんで……」
そう言ってさりげなく身を離そうとしたおれに、女の人は傷ついた素振りで流し目を送ってくる。
「あら……私じゃご不満?」
「いや、あの、そういうわけじゃなく」
さらに2歩ほど下がると、彼女も同じだけ間を詰める。
「私、そんなに魅力の無い女かしら……?」
「だから、そういう意味じゃなくて!」
焦るおれとは対照的に、彼女は全てを見通しているかのような表情で笑った。
黒い紗のヴェールの奥で、艶やかに紅い唇が吊り上がる。
「怖がってるの? 純情なのね」
くすくす。
忍び笑いとともに、白く細い手が頬を撫でてくる。
彼女の手にした水煙草の煙管が、街の明かりを反射して光っていた。
「大丈夫よ。お姉さんが優しく教えてあげるから……」
さらに一歩後退り……背中が煉瓦の壁にぶつかる。
絶体絶命。
そんな単語が頭に浮かんでは消えた。
「――ウィル。お前、こんな所で何やってんの?」
その瞬間。
背後から聞こえたそれは、まさに天の声に思えた。
振り向くと、そこに立っていたのは――まさにさっきまで捜していた張本人。
「セインさんっ!」
ほっとした気持ちを込めてその名を呼ぶ。
だけど、向こうにはおれの置かれた状況を理解してもらえてないみたいだった。
「お、何? もしかして一丁前に取り込み中?
知らないよー、もし隊長に知れたらどうなるか……」
「ち、違いますよっ!」
思わず憤然とした声を上げたおれに、いつものからかうような笑顔を浮かべているその人。
――その目が、全てお見通しだと言っているように見えたのは、おれの気のせいなんだろうか。
戸惑うおれを他所に、セインさんの視線が寄り添っている女性の方に移動した。
「あら……保護者のご登場かしら?」
「おお、これはお美しいご婦人。
ご歓談中、割り込む無礼をお許しください」
丁寧な口調でそう告げて、深々と礼をする。
……本当、女性の前ではそつの無い人だよなあ。
「すみませんねえ。コイツ、まだまだ子供でそーいうことには疎くて。
せっかくですけど、今日のところは見逃してやってもらえませんか?」
セインさんの調子いい言葉に、女の人が苦笑しながらおれの腕を離した。
「時間切れみたいね。……残念だわ」
解放されたことに安堵を感じつつも、セインさんの言葉にちょっとカチンと来てしまった自分が居る。
助けてもらっといて、勝手な言い分だとは思うけど。
「その代わりと言っちゃなんですけど、俺で良ければ喜んでお相手させて頂きますよ?」
ちょ、ちょっと!?
焦るおれの内心を読んだかのように、女の人が面白そうに微笑んだ。
「ふふ……遠慮しておくわ。
私、初々しい子が好きなの。貴方は魅力的だけど、ちょっと慣れ過ぎてるかしら」
「それは残念」
言葉の割にはそこまで残念そうでもない顔で、セインさんは笑いながら一歩下がる。
「じゃあね、坊や。
今度来る時は、保護者抜きでいらっしゃいな」
匂い立つような笑い声を残して、女性は路地の奥へと去っていった。
「……やれやれ。
こーいう場所に興味持つのは解るけど、せめて自衛できるようになってからにしろよ?」
「す、すみませ……って、好きで来たんじゃないですよ!
元はと言えば、セインさんが勝手に居なくなったのが原因じゃないですか! どれだけ捜したと思ってるんです!?」
あまりと言えばあまりなセインさんの言い草に、思い出したようにまくし立てる。
「ん? 別に無理して捜さなくたっていいだろ?
はぐれたならはぐれたで、それぞれ一人で宿に戻れば済むんだし」
「そ、それはそうですけど……」
正論を返されて、おれは思わず口ごもる。
確かに、特別な用事があったわけでもなく。
ただ、おれが勝手にセインさんについて来ただけだ。
ケントさんからお目付け役を頼まれてはいたけれど……それだって、絶対遂行しなきゃならない任務ってわけじゃない。
だからセインさんの言ってることは至極真っ当なわけで……でも、おれとしては少しでもセインさんと一緒に居たかったからでもそれはセインさんには関係ないわけで言ってもどうせはぐらかされるか笑われるだけだろうし………あーもう!
「…………うー」
理性と感情がぐるぐると渦を巻いて、まともに思考できない。
下を向いて唸るしか出来なくなったおれの頭に、ぽんと手が載せられる。
「ほら、戻ろうぜ?
あんまり遅くなると、またケントの奴がうるさいからな」
顔を上げた視界に、くるりと背を向けて歩き出すセインさんの姿。
また置いていかれてはたまらないので、おれも無言でその後に続く。
すっかり辺りは暗くなり、建物の窓から明かりと微かな喧騒が漏れ出している。
通りを歩き出してしばらくした後、不意に前を歩くセインさんの足が止まった。
「お前さ――」
「はい?」
背中を向けたまま、セインさんが訊いてくる。
「もし俺が来なかったら……あのまま、彼女について行ってたのか?」
――え?
「……いえ、来なくても断ってましたよ。
そもそも、セインさんを捜してる途中でしたし」
戸惑いながらも、おれは正直にそう答える。
セインさんが何故、いきなりそんなことを訊いてきたのか理解できない。
その声は、いつもの口調とは違って、どこか自信なさげで……。
「――そう、だよな。
まあ、お前みたいなお子様には10年早いよな!」
妙に明るい声でそう言うと、セインさんはくるりとこちらを振り向いた。
そして突然上体を屈め、おれの耳元で笑い混じりに囁く。
「ここに来るより先に――まずは俺を口説き落とせるようになれよ?」
おれが、何か反応するよりも早く。
セインさんは再び前を向き、夜の通りを歩き出していた。
その背中を見ながら、おれは一人首を傾げる。
もしかして――
これって、嫉妬してくれてる?
「……そんなわけ、無いよなー」
口の中で呟いて、おれは前を行く背中を小走りに追いかけた。
ウィル相手だとどうにも素直になれないセイン先輩なのでした。