たまには甘えて


「人殺し!」

 投げつけられた言葉に、呆然と立ち尽くす。
 返す言葉も無く、取るべき行動も思いつかず。
 出来ることと言えば、ただ恐怖と憎悪に満ちた赤い目を見つめ返すだけ。

 全身だけでなく、心までが凍りつく。
 どんな凶悪な武器よりも、どれほどに強い殺意よりも、その言葉は彼の胸の奥深くまで抉り抜いた。
 ――息が出来ない。


「……人殺し!!」

 つい昨日までは、はにかんだような笑顔を向けてくれていたはずの少女。
 親愛の情を表していた瞳には、もはや憎しみと侮蔑しか無く――

 そして。
 厚く冷たい不可視の壁は、彼女と少年とを永遠に隔てる。



 樹々を透かした向こうから、野営地に立てた松明の明かりが微かに見える。
 まばらに樹の生えた森の入り口付近で、フランツはひとり愛馬の毛にブラシをかけていた。

 聞こえてくる微かな喧騒をよそに、黙々と手を動かす。
 明るく真面目な少年で通っているはずの彼だが、今は暗く沈んだ表情をしていた。
 翡翠の双眸に揺らめく、深い憂いの陰。

 作業に没頭している一方で、彼の思考はただひとつのことに向かっていた。

 昨日、野営中に水を汲みに行った先の川べりで出会った、ひとりの少女。
 年が近かったこともあって、互いに初対面とは思えぬ気安さで言葉を交わした。
 大きな瞳に子猫を思わせる笑顔が印象的な、素朴な少女だった。

 そして今日、小さな村の傍で戦いが起きた。
 戦場は村の一部をも巻き込み、村人を守るためにフランツたち騎士は奔走した。

 そこで――彼はあの少女と再会した。
 敵兵を斬り、その返り血に塗れた少年を見る彼女の目は、昨日彼に笑いかけた時のそれでは既に無かった。
 まるで魔物でも見るかのように、少女は畏怖と嫌悪の色を顔に浮かべていた。

 彼が近づこうとすると、彼女は二、三歩後退り……青ざめた顔で叫んだ。
「人殺し!」――と。


 思い出したくも無い記憶を反芻し、フランツは深々と溜息をつく。
 少女の豹変。投げつけられた言葉の刃。
 どこを違えて、こうなったのか……解らなかった。解りたくなかった。
 戦さえ無ければ――あるいは自分が騎士で無ければ、あの決裂は起こらなかったのだろうか。
 考えれば考えるほどに、心が底無しの闇へ沈んでいくようだった。

 幾度目か解らぬ重い溜息を、胸の底から吐き出したその時。

「何だ、フランツ。こんなところに居たのか」
 背後から声をかけられた。
 聞き慣れた声に振り向くと、いつの間に来たのか兄のフォルデが立っている。

「兄さん……」
「いつまでものんびりしてたら、夕飯食いっぱぐれちまうよ?」
 いつものように飄々とした態度で笑うと、フォルデは弟の傍らに立ち、おもむろに上体を屈めてその顔を覗き込んだ。
「何だ。えらく不景気な顔してるなあ」
「……別に、いつも通りだと思いますけど」
 努めて平静に返したフランツに、金髪の青年は苦笑混じりに肩をすくめて見せる。
「実の兄を見くびりなさんな。何年一緒に暮らしてきたと思ってる?」
「……」
 口を噤む弟を見やり、兄は僅かに目元を引き締めて背筋を伸ばした。

「まあ、女の子に振られるってのは幾つになっても痛いもんさ。
 ましてや、手酷い別れの台詞つきとなれば、ね」
「……知ってたんですか」
 兄の言葉と態度から、フランツは彼が事情を見抜いていることを悟った。
 察するに、少女に罵られていた場面を目撃したというところか。

「ああ、まあ偶然ね」
 覗き見するつもりは無かったんだが、とフォルデ。
 どうやら、先のフランツの推測は当たっていたようだった。
 再び口を閉ざし、フランツは手にしていたブラシを道具袋へしまい込む。
 その背中から視線を外し、僅かに夕日の薄明かりが残る空を仰いでフォルデが言った。
「まあ、人生いろいろあるからな。
 我慢しなきゃいけないことも、耐えなきゃならない場面もたくさん出てくるさ」
 けどな、とフォルデが続ける。
「無理と無茶はするなってね。これ、我が家の家訓なんだぜ。知ってたか?」
 空から弟の顔へと視線を戻し、涼しい笑みを浮かべる兄。
「兄さん……」
 その普段通りの笑顔と、包み込むような軽さと温かさを宿した言葉に、フランツの中で何かが弾けた。


 拳を握って俯く少年の頭に、ぽんと軽く手が載せられる。
「ほら、泣くなって」
「泣いてなんかいません」
 反射的にそう返してから、それを裏切る現実を知る。

「泣いて、なんて……」
 言葉に反して、視界が水面に映った景色のように歪んでいく。
 否定すればするほど、それをあっけなく無視して零れ落ちる雫。

 頬を伝うそれを見られたくないのと、誰かに縋りつきたい一心で、フランツは正面にある兄の胸へぶつかるように顔を埋めた。
「……さん……っ、兄さん……!」
「はいはい。
 大人びてると思ってたが、やっぱりまだ子供だな」
 よしよし、と兄の手が後ろ頭を撫でてくる。
 あやすようなその口調には、からかっているような言い回しとは裏腹に、肉親を思う優しさが滲んでいた。

 初めて負った心の痛みと、どうしようもない遣る瀬無さと。
 ただ溢れ来る感情のままに、少年は声を殺して泣いた。


 髪を撫でる手の温もりに、ふと遠い日を思い出す。
 父を亡くした時も、決して泣くことの無かった兄。
 不安な夜に泣く自分のために、笑顔で様々な絵を描いてみせてくれた兄。

 いつも飄々としている兄にも、辛い時はあったはずだ。
 自分の知らないところで、独り涙していたのだろうか?

 傍で泣かせてくれる人がいるだけで、こんなにも救われる。
 フランツは改めて、兄の影響の大きさを自覚し、その存在に感謝した。
 そして同時に、自分も兄を支えられるようにならねばと、心から思った。


 どのくらい、そのままで居ただろうか。

「……兄さん」
「ん?」
 答えると同時に、その胸に顔を埋めていたフランツが突然ばっと身を離し、フォルデの脇腹あたりを指差して声を上げた。
「ここ、裂けちゃってるじゃないですか!
 ちゃんと自分で直してくださいよ? いつも僕が直せるとは限らないんですからね!」
「お前ねぇ……」
 呆れたように溜息をついてから、フォルデはやれやれと苦笑する。
 いきなり普段通りの小言を言い出したのが、弟なりの照れ隠しだと知っていたから、敢えて何も触れずにおいた。

「戻りましょう、兄さん。将軍にご迷惑がかかったらいけないし」
「はいはい、行きますか」
 愛馬の手綱を引いて、フランツがさっさと歩き出す。
 まだ赤いだろう目を隠すように、頑なに前を向いているその姿が愛しく、フォルデは自分と同じ色をした金髪にぽんと手を載せる。
 ありがとうございます、と呟く声が、微かに彼の耳に届いた。


 並んで歩く2人の足音が、樹々に反射して薄闇にこだまする。
 最近急に大人びてきた横顔に向けて、フォルデは声に出さずに呼びかけた。

『――たまには、甘えて来いよ?』
 たとえ何年経とうと、俺はお前の兄で……お前は俺の弟なんだから。




至って普通の兄弟愛。



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