たまには甘えて
「人殺し!」
投げつけられた言葉に、呆然と立ち尽くす。
返す言葉も無く、取るべき行動も思いつかず。
出来ることと言えば、ただ恐怖と憎悪に満ちた赤い目を見つめ返すだけ。
全身だけでなく、心までが凍りつく。
どんな凶悪な武器よりも、どれほどに強い殺意よりも、その言葉は彼の胸の奥深くまで抉り抜いた。
――息が出来ない。
「……人殺し!!」
つい昨日までは、はにかんだような笑顔を向けてくれていたはずの少女。
親愛の情を表していた瞳には、もはや憎しみと侮蔑しか無く――
そして。
厚く冷たい不可視の壁は、彼女と少年とを永遠に隔てる。
※
樹々を透かした向こうから、野営地に立てた松明の明かりが微かに見える。
まばらに樹の生えた森の入り口付近で、フランツはひとり愛馬の毛にブラシをかけていた。
聞こえてくる微かな喧騒をよそに、黙々と手を動かす。
明るく真面目な少年で通っているはずの彼だが、今は暗く沈んだ表情をしていた。
翡翠の双眸に揺らめく、深い憂いの陰。
作業に没頭している一方で、彼の思考はただひとつのことに向かっていた。
昨日、野営中に水を汲みに行った先の川べりで出会った、ひとりの少女。
年が近かったこともあって、互いに初対面とは思えぬ気安さで言葉を交わした。
大きな瞳に子猫を思わせる笑顔が印象的な、素朴な少女だった。
そして今日、小さな村の傍で戦いが起きた。
戦場は村の一部をも巻き込み、村人を守るためにフランツたち騎士は奔走した。
そこで――彼はあの少女と再会した。
敵兵を斬り、その返り血に塗れた少年を見る彼女の目は、昨日彼に笑いかけた時のそれでは既に無かった。
まるで魔物でも見るかのように、少女は畏怖と嫌悪の色を顔に浮かべていた。
彼が近づこうとすると、彼女は二、三歩後退り……青ざめた顔で叫んだ。
「人殺し!」――と。
思い出したくも無い記憶を反芻し、フランツは深々と溜息をつく。
少女の豹変。投げつけられた言葉の刃。
どこを違えて、こうなったのか……解らなかった。解りたくなかった。
戦さえ無ければ――あるいは自分が騎士で無ければ、あの決裂は起こらなかったのだろうか。
考えれば考えるほどに、心が底無しの闇へ沈んでいくようだった。
幾度目か解らぬ重い溜息を、胸の底から吐き出したその時。
「何だ、フランツ。こんなところに居たのか」
背後から声をかけられた。
聞き慣れた声に振り向くと、いつの間に来たのか兄のフォルデが立っている。
「兄さん……」
「いつまでものんびりしてたら、夕飯食いっぱぐれちまうよ?」
いつものように飄々とした態度で笑うと、フォルデは弟の傍らに立ち、おもむろに上体を屈めてその顔を覗き込んだ。
「何だ。えらく不景気な顔してるなあ」
「……別に、いつも通りだと思いますけど」
努めて平静に返したフランツに、金髪の青年は苦笑混じりに肩をすくめて見せる。
「実の兄を見くびりなさんな。何年一緒に暮らしてきたと思ってる?」
「……」
口を噤む弟を見やり、兄は僅かに目元を引き締めて背筋を伸ばした。
「まあ、女の子に振られるってのは幾つになっても痛いもんさ。
ましてや、手酷い別れの台詞つきとなれば、ね」
「……知ってたんですか」
兄の言葉と態度から、フランツは彼が事情を見抜いていることを悟った。
察するに、少女に罵られていた場面を目撃したというところか。
「ああ、まあ偶然ね」
覗き見するつもりは無かったんだが、とフォルデ。
どうやら、先のフランツの推測は当たっていたようだった。
再び口を閉ざし、フランツは手にしていたブラシを道具袋へしまい込む。
その背中から視線を外し、僅かに夕日の薄明かりが残る空を仰いでフォルデが言った。
「まあ、人生いろいろあるからな。
我慢しなきゃいけないことも、耐えなきゃならない場面もたくさん出てくるさ」
けどな、とフォルデが続ける。
「無理と無茶はするなってね。これ、我が家の家訓なんだぜ。知ってたか?」
空から弟の顔へと視線を戻し、涼しい笑みを浮かべる兄。
「兄さん……」
その普段通りの笑顔と、包み込むような軽さと温かさを宿した言葉に、フランツの中で何かが弾けた。
拳を握って俯く少年の頭に、ぽんと軽く手が載せられる。
「ほら、泣くなって」
「泣いてなんかいません」
反射的にそう返してから、それを裏切る現実を知る。
「泣いて、なんて……」
言葉に反して、視界が水面に映った景色のように歪んでいく。
否定すればするほど、それをあっけなく無視して零れ落ちる雫。
頬を伝うそれを見られたくないのと、誰かに縋りつきたい一心で、フランツは正面にある兄の胸へぶつかるように顔を埋めた。
「……さん……っ、兄さん……!」
「はいはい。
大人びてると思ってたが、やっぱりまだ子供だな」
よしよし、と兄の手が後ろ頭を撫でてくる。
あやすようなその口調には、からかっているような言い回しとは裏腹に、肉親を思う優しさが滲んでいた。
初めて負った心の痛みと、どうしようもない遣る瀬無さと。
ただ溢れ来る感情のままに、少年は声を殺して泣いた。
髪を撫でる手の温もりに、ふと遠い日を思い出す。
父を亡くした時も、決して泣くことの無かった兄。
不安な夜に泣く自分のために、笑顔で様々な絵を描いてみせてくれた兄。
いつも飄々としている兄にも、辛い時はあったはずだ。
自分の知らないところで、独り涙していたのだろうか?
傍で泣かせてくれる人がいるだけで、こんなにも救われる。
フランツは改めて、兄の影響の大きさを自覚し、その存在に感謝した。
そして同時に、自分も兄を支えられるようにならねばと、心から思った。
どのくらい、そのままで居ただろうか。
「……兄さん」
「ん?」
答えると同時に、その胸に顔を埋めていたフランツが突然ばっと身を離し、フォルデの脇腹あたりを指差して声を上げた。
「ここ、裂けちゃってるじゃないですか!
ちゃんと自分で直してくださいよ? いつも僕が直せるとは限らないんですからね!」
「お前ねぇ……」
呆れたように溜息をついてから、フォルデはやれやれと苦笑する。
いきなり普段通りの小言を言い出したのが、弟なりの照れ隠しだと知っていたから、敢えて何も触れずにおいた。
「戻りましょう、兄さん。将軍にご迷惑がかかったらいけないし」
「はいはい、行きますか」
愛馬の手綱を引いて、フランツがさっさと歩き出す。
まだ赤いだろう目を隠すように、頑なに前を向いているその姿が愛しく、フォルデは自分と同じ色をした金髪にぽんと手を載せる。
ありがとうございます、と呟く声が、微かに彼の耳に届いた。
並んで歩く2人の足音が、樹々に反射して薄闇にこだまする。
最近急に大人びてきた横顔に向けて、フォルデは声に出さずに呼びかけた。
『――たまには、甘えて来いよ?』
たとえ何年経とうと、俺はお前の兄で……お前は俺の弟なんだから。
至って普通の兄弟愛。