距離と視線、ときどき戸惑い


 試合が無い時のスタジアムの観客席は、人の気配も無く極めて閑散としている。
 独りでくつろぎたい時、ここが意外と適した穴場であることを、青年は知っていた。

 座席に深くもたれ、よく晴れた空を見上げながら目を閉じる。
 普段剣を振るっている割には細くすらりとした指が、膝の上で軽くリズムを刻む。
 聴覚だけでなく全身の神経を支配するのは、耳から流れ込むメロディ。


 だから。
 大きな手でポンと肩を叩かれた時は、飛び上がるほど驚いた。

「わっ!?」
 上半身を捻って振り返ると、怪訝な顔でこちらを見下ろす青年の姿。
「あ、アイク……
 もう、びっくりさせないでくれないか」
 音楽を消し、微かな非難を込めてそう告げると、青年は無表情な面に憮然とした表情を浮かべる。
「……何度も呼んだぞ」
「え?
 ……ごめん、気がつかなかったよ」
 一瞬ぽかんと瑠璃色の双眸を瞬いた後、マルスは苦笑しながら詫びた。

「居眠りでもしていたのか」
「違うよ。きっとこれのせいだ」
 胸元を這う黒い"それ"を指に絡めて見せると、右隣に腰を下ろしたアイクが怪訝そうな表情で首を傾げた。
「……何だ、それは?」
「レクリエーションルームにあったのを借りてきたんだ。
 ネスに使い方を教えてもらったんだけど……」
 言いながら、マルスは膝の上に置いていた銀の円盤状の物を取り上げる。そこからは黒く細い糸のようなものが一本伸びており、途中で二又に分かれたそれはマルスの両耳へと繋がっていた。
「この中に、『CD』っていう薄い円盤みたいな物を入れると、音楽が聴こえてくるんだって。
 ほら、試合中に時々、アイテムに混じって落ちてくるだろう?」
「――ああ、あれか」
 拾っても特に特殊な効果も無く、何のためにあるのかずっと謎だった金色の円盤を、アイクは思い出していた。


「アイクも聴いてみるかい?」
 自身の右耳からイヤホンを外し、青年に差し出す。
 こういうのは興味無いかな――と思っていたマルスの予想に反し、アイクは手を伸ばしてそれを受け取った。
 マルスに倣ってイヤホンを自身の右耳に当て、驚いたように片眉を上げる。
「……確かに聴こえるな」
「凄いよね。どういう原理なんだろう」
「仕組みの話は小難しいしどうでも良いが、面白いな」
 いつも感情の変化に乏しい面には、珍しくも少なからず興味を惹かれたような表情が浮かんでいる。
 こう言っては失礼だが、この青年でも芸術に興味を示したりするのだなと、マルスは意外な一面を見た気分だった。

「アイクはどんな音楽が好きなのかな?」
「……賑やかな方が好きだ。静かな曲だと寝てしまう」
 ああやっぱり。
 予想通りの答えに笑いを噛み殺しつつ、マルスは手元のスイッチを操作する。
「――これは良いな」
 元の世界では聴いたことの無い音色で構成されたその旋律を、アイクはどうやら気に入ったようだった。


 2人して、しばし耳に流れ込む音楽に聴き入る。
 ふと視線を上げると――予想外にアイクの顔が近くにあって、マルスは内心ひそかに驚く。

(顔、近いなぁ……)
 特に意識せず利き側に嵌めたのだろうが、右耳にイヤホンを当てたために自然と接近する形になっていた。
 アイクが音楽に集中しているのを良いことに、マルスはそっと相手の顔を観察する。


 これほど至近距離で彼の顔を見たのは、おそらく初めてのことだろう。
 こうして近くで見ると、改めて整った顔立ちだと思う。いつもは鋭利な光を湛えている濃藍の双眸は、今は柔らかく細められていた。
 普段は無愛想な表情と相まって、どことなく近寄り難さの方が先に立ってしまう印象だが、よく見れば、その顔にはまだ大人になりきれていない甘さが見て取れる。
 少年から成人への過渡期にしか持ち得ない、硬質ながら中途半端な造型――そのアンバランスな魅力。

 まだ完成されてはいないものの、その男性的な精悍さをマルスは常々羨ましく思っていた。
 自身の外見にそれが足りないことが、彼にとって密かなコンプレックスであったから。

 だが、こうして近くでしげしげと眺めてみれば、この青年には精悍さ以外にも人の目を惹きつける魅力が多数備わっていることが解る。

(……本人は、きっと解ってないんだろうなぁ)
 自分が人目――特に異性の――を惹きつけるに十分な要素を持っていることに、幸か不幸かアイク本人は全く気づいていないようだ。
 ――と言うより、興味が無いといったところか。

 傭兵団をまとめる長の息子として戦乱の世に生を受けた彼が、ひたすら己が腕を磨くのに邁進してきただろうことは容易に想像がつく。
 マルス自身とて、祖国解放のために戦っている最中は、とても色恋に興味を振り向ける心の余裕は無かったし、その気持ちは十分に理解できた。
 だがそんな彼から見ても、この年齢でこの朴念仁ぶりとは、流石にちょっと珍しいのではないかという気がした。

 話を聞いていると、彼は色恋沙汰には全く関心を持っておらず、さながら遠い世界のことのように思っている節がある。
 この分だと、誰かに好意を向けられたとしてもまず気づくまい。
 これまで恋愛経験は皆無、そもそも自分に言い寄ろうという者など居ない、とはアイク本人の弁だが、おそらく彼が悪気無いままにその手の視線を無視してきただけなのでは無いだろうか、とマルスは勝手に推測している。
 一体、今までどれほどの異性を陰で泣かせてきたのやら――上目遣いで相手の様子を窺いつつ、マルスは聞きようによっては大分失礼な感想を内心で呟いた。


 一方、傍らの彼がそんなことを考えているとは露知らず、濃紺の髪の青年は初めて出会った不可思議な装置に目下夢中の様子だった。
 今日はもう試合が入っていないのだろう。普段身に着けているマントや革の防具を外し、青い上着だけのくつろいだ姿になっている。
 それでも愛剣だけは手放さず携帯したままなのは、身体に染みついた習慣という奴だろうか。

 いつもより緩めた襟から覗く、健康的に灼けた首筋。
 ――その様は、同性であるマルスすらどきりとさせるほどの妙な色気があった。

 アイクが上体を傾け気味にしているせいで、マルスの目線からは、ちょうど緩めた襟元の奥が覗ける形になっていた。
 普段は服で隠されている鎖骨の下あたりに、ぽつりと一つ黒子があるのに気づいてしまう。
 自然にそこへ視線が吸い寄せられそうになって、慌てて目を逸らした時。


「どうかしたのか?」
「えっ!? あっ……。
 な、何でもないよ。良い曲だよね、これ」
 アイクに突然問いかけられ、マルスは必死に動揺を隠して平静を装った。
 笑顔で誤魔化すと、青年は一瞬怪訝そうな表情を浮かべるも、特に気にする様子も無く再び音楽に聴き入る。


 ……彼が細かいことを気にしない性格で良かったと思う。
 見咎められていたら、言い訳に困るところだった。

 悪戯を発見された時のような後ろめたさと、不可思議な興奮と。
 マルスはきまりの悪い心境をアイクに悟られまいと、顔を伏せ意味も無くスイッチを弄った。






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