ノックの音が聞こえる前から、誰が入ってくるのかはわかっていた。
「丹恒、いるかー?」
ドアの開閉音に続いて、こちらの名を呼ぶ声。返事をするよりも早く、温度を伴った質量が突然背中に覆い被さってくる。
「……いきなり何だ」
データを入力する手を止め、丹恒は肩越しに呆れ気味の視線を投げた。
根本的に他者への距離感が近くスキンシップも多い彼だが、不意の接触を苦手とするこちらの性質を承知してか、普段は遠慮している節がうかがえる。しかしそれでも、時折こういった振る舞いに及ぶことはあって、その度に丹恒は一瞬身を固くする羽目になるのだった。
そんな青年の内心もどこ吹く風とばかりに、穹は彼の肩に顔を伏せるようにして、鼻先を寄せてきた。微かな息が首筋に触れ、丹恒の指がぴくりと動く。
「……何をしている」
声に含まれた困惑と苛立ちを察してか、穹が慌てて顔を上げた気配がした。
「あ、悪い」
実は、と話し始める青年。先にこの体勢を解いてからにしてくれないだろうかと思いつつも、丹恒は彼の言葉に耳を傾ける。
「この前綏園に行った時、歳陽たちが話してたんだ。
持明族には独特の『匂い』があるって」
話し続ける声が、再び近くなる。
「で、丹恒もそうなのかなって思ったんだけど……うーん、別に変わった匂いはしないんだよなあ……」
すんと鼻を鳴らす音が耳をくすぐる。吐息と硬めの跳ね髪が肌を撫で、何ともこそばゆい。
彼の行動の理由はわかったが、だからといって今の状況に納得できない気持ちは微塵も揺るがなかった。丹恒は無言のまま右手を持ち上げ、青年の額を手の甲で少々強めに小突く。
「あいてっ」
「もう気は済んだだろう」
離せという意思を言外に込めて告げると、渋々といった感じで抱きすくめていた体温が遠ざかった。
ひとつ息を吐き、背後へと向き直る。視線の先には、悪戯を咎められた子供のような表情で頭を掻く青年が居た。
「次からは、実行に移す前に説明してくれ」
善処します、という言質を取ってから、丹恒はわずかに表情を和らげた。
「俺は同族と会ったことがほとんど無いから、詳しくはないが……確かに、そういう話を聞いたことがある」
アーカイブへデータを入力する時のように、頭の中に収められた数多の情報から該当するものを引き出す。あれは、昔に何かの文献で目にしたのだったか。
「おそらくは人間と同じで、個人差があるものと推測するが」
「ああ……確かに、体臭ってそれぞれ違うもんな」
納得したようにうなずいた後、青年は何かを思い出した風でそういえば、と話し出す。
「俺、鱗淵境で初めて『海の香り』ってやつを嗅いだんだ」
「何となくだけど、丹恒からはそれと同じ匂いがする」
「……」
「あ……ごめん、気を悪くしたか?」
沈黙を不興と取ったのか、穹は申し訳なさそうに眉を下げた。その表情からは、思い出したくない過去に触れてしまったかと気にしている様子がうかがえる。
「――いや、そうじゃない」
丹恒はかぶりを振った。
ただ、意外だっただけだ。
己がどんな香りをまとっているのか、自分自身ではなかなか気づけないもの。最低限の身だしなみとして、できる限り清潔を保つようにはしているが、香水の類を使う習慣はない。果たして彼が感じたという香りは、どこから来たものか。
(海……か)
記憶にある、故郷の景色。自分は確かにそこで生まれ、そして覚えなき咎でその地を追われた。胸の内を一瞬よぎる郷愁に、丹恒は目を細める。
憎んではいない。だが、戻りたいとも思わない。ナナシビトとして生きることを決めた今、そこはもう自分の居場所ではないと知っているから。
まとわりつく感傷を振り払うように、お前は、と問いかける。
「海の香りに触れてみて、どう感じた?」
「どう、って……そうだなあ」
うーん、としばらく悩んだ後、穹は手探りめいて言葉を紡ぐ。
「なんて言うか、こう……落ち着く感じ?
穏やかで、少し寂しくもあって、どこか懐かしい、みたいな」
「そうか」
とても主観的な感想だったが、理解できると丹恒は思った。同時に、そこで生まれたわけでもない彼が、自分と似た印象を抱いたことに少々驚く。
「不思議だよな。初めてなのに、懐かしいだなんて」
彼も同じことを思っていたらしく、照れた風に笑っている。そうかと思えば、突然何かを思いついたように表情を変えた。忙しない奴だ、と丹恒は思う。
「ふと思ったんだけどさ」
「一緒にいて落ち着くのは、お前が物静かだからだと思ってたけど。
もしかしたら『匂い』のせいもあるのかもしれないな」
そんな推論を口にする彼を、丹恒は意外な心持ちで見つめた。
陽気で人当たりが良く、あの三月のお喋りにも平然と付き合える青年。これといった趣味も無く、口数の少ない自分相手ではさぞつまらなかろうと、そう思っていたのに。
「何だよ、その顔」
くすくす笑う声が聞こえた瞬間、指先で軽く頬をつつかれた。
本当に、息をするような自然さで触れてくる。一瞬ざわついた感情を押し隠し、丹恒はかぶりを振った。
「退屈、の間違いだろう」
素っ気なく告げて、コンソールへと向き直る。中断していた作業を再開すべく、キーボードに指を走らせた。
慣れた手つきでキーを叩くたび、ディスプレイ上に文字が現れ整然と列を成す。練度の高い兵隊のようなその動きを目で追う青年の耳に、可笑しげな笑い声が届いて。
「好きな奴と一緒に居て、楽しくないわけないだろ?」
――この男は。
どうしてこうも真っ直ぐに、予期しないタイミングで、そんな台詞を刺し込んでくるのか。
画面には、しっかりと入力されてしまったミスタイプ。
背後の彼がそれに気づかないことを願いながら、丹恒は急いで削除キーを押した。
持明族には独特の匂いが…って歳陽達が話してたのを見て、真っ先に考えたことがこれです。
書いてるうちに着地点を見失った結果、動揺する丹恒は可愛いという結論に落ち着きました。
2024.05.05 公開