Sugar baby love


 研究室の古い印刷機が、カタカタとインクで埋まった紙を吐き出している。
 それを横目で見ながら、ケントはふと窓の外に注意を向けた。

 いつの間にか外は雪――白い景色を目の当たりにして、不意に今日の日付を思い出す。
 12月24日。世間で言うところの、クリスマス・イヴ。

 もっとも、それはケントにとっては差したる重要性を持たない。
 その日自体に何らかの特別な思い入れがあるわけでも無く、毎年人々が騒いでいるようなイベントにも特に興味は無い。
 まして、卒業を間近に控えた学生の身なれば、うかうかと世間のお祭り騒ぎに乗じてはいられないのが現状であった。
 今後の進路への懸念が、ふと頭をよぎる。
 両親は、大学院への進学を勧めてくれている。しかし、20歳をとうに過ぎた身にも関わらず、親の援助に頼ってこのまま過ごしていてもいいものなのか、ケントは迷っていた。
 今からでも遅くは無い、やはり就職して自分の食い扶持くらいは稼げるようになった方が、真に両親のためではないだろうか――。

 印刷の終了を知らせる音で、ケントは我に帰った。
 何やら不穏な音がしている印刷機から、吐き出された紙の束を取り上げる。そろそろ、点検に出さねばならない頃ではなかろうか。今度、助手の人に進言しておいた方がいいかも知れない――そんなことを思いつつ、ケントは機器の電源を切った。



 研究棟から出ると、風に乗った白い礫が全身に吹き付けてきた。青灰色のマフラーをきつめに巻き直し、ケントは足早に構内を出る。
 天気予報は大当たりだった。自転車に乗ってこなくて良かったとケントは思う。既に足跡やら車輪の轍やら無数の凹凸を刻まれている白い舗道は、下手に自転車などで走ったら最後、バランスを崩して転倒は免れない。
 踏み固められて半ば氷のような半透明になっている箇所を慎重に避け、降りしきる雪の中を家路についた。

 チャコールグレイのコートに、溶け残った雪が点々と染みを作っていく。
 鼻腔の奥を容赦無く刺す、冷たく凍った冬の匂い。

 ケントは冬が嫌いではなかった。
 外が寒いからこそ、家の中にともる灯が暖かいと実感できる。澄み渡る空気の中で、静かに過ぎ行く時間を感じられる。それは例えば、エネルギッシュで騒々しい夏よりも、彼にとっては魅力的に映った。
 まあ、冬も冬で騒々しい時期が無いわけではないが――今日のように。


 現在ケントが住んでいる下宿は、大学から徒歩で20分程度とさほど離れていない。
 イルミネーションでライトアップされた街路樹を横目に、学生達が多く住まうアパート街へと入っていく。竦めた肩越しに、街に流れるクリスマスソングの旋律が微かに聞こえてきた。
 表玄関をくぐり、郵便受けを覗き、ダイレクトメールの束を手に階段を上がる。
 3階にある自室の前に立ち、鞄から鍵を取り出してノブの鍵穴に挿し込もうとし――あることに気づいて、手を引っ込めた。呆れたような顔でノブを回す。
 ガチャリと微かな金属音をさせて開いたドアから、ケントは中へ滑り込んだ。常の癖できっちりチェーンを下ろしてから、靴を脱いで部屋に上がる。

 一人暮らしには適切な広さの、1DKの間取り。台所から居室へと続く入口の前で、ケントは足を止めた。鞄を床に下ろす。そしてため息をつく。
 腕を組み、左右にかぶりを振ってから、苦味走った表情で口を開く。
「……いるのは解っている。さっさと出て来い」
 言ってから、二流ドラマでよく見る悪役の台詞のようだと思い顔をしかめる。
 これで出てこなければ、実力行使に出るつもりでいるのだが――

「なーんだ、お見通しってワケかぁ」
 その能天気極まりない声は、予想外に近くから聞こえた。
 反射的に半身を退いたケントのすぐ傍、開いていたドアの陰から、ひょいと顔が覗く。
 くせのある柔らかそうな髪に、くるくると表情を変える悪戯っ子めいた瞳。愛嬌のある顔立ちがどことなく猫を思わせる、少年ぽさを多分に残した青年が、扉の後ろから姿を現した。

「さっすがケントさん、あっさりバレちゃったねぇ」
 ちゃんと靴まで隠してたのに、とどうでもいいことを自慢げに語る相手に、ケントは思わずため息をつく。
「……お前、ずっとそこに居たのか?」
 言いたいことは無数にあったけれども、キリが無いし言うだけ疲れるような気がしたので、とりあえず気になったことを訊いてみた。
「いや、さすがに俺もそこまでは。足音聞こえたからさ、隠れてみただけ」
「……真性の馬鹿だな、お前は……」
 いっそ、気づかない振りして徹底的に黙殺すべきだったろうか。ケントは律儀に反応してしまった自分を後悔した。

 ある意味家主よりも大きな顔をして部屋に居座っているこの青年、名をセインという。
 対照的な性格にも関わらず不思議と馬が合ったのか、ケントとは10年来の親友付き合いを続ける仲であった。高校卒業後、大学に進学したケントとは進路こそ分かったものの、住んでいる場所が近いこともあって、今でも最も親しい友人同士である。

 ……もっとも、今となってはもはや単なる「友人」とは呼べない存在なのだが。
 そもそも、いくら親しいとはいえただの友人に合鍵を渡すほど、ケントは不用心な性格ではない。

 こめかみを指で揉みながら、ケントは親友の横をすり抜けて居室へと入った。荷物を机に置き、コートを脱ごうとボタンに手をかけた時、身体に回ってきた腕にその動作を阻まれる。
「お前の身体、冬の匂いがする」
 いきなり背後からケントを抱きすくめたセインが、コートの肩口に唇を押し当ててそっと呟く。
「外、寒かったろ?」
 腰に回っていた手がゆっくりと上がってきて、中途半端に身体の前で止まったままのケントの両手をおし包んだ。しっとりと湿って暖かい掌から、雪に冷えた指へと体温が移ってくる。じわり、と鈍くなっていた血流が元に戻っていく感覚に、半ばぼんやりしていたケントはふと我に帰った。

「き、着替えの邪魔だ」
 包み込むように握られていた手を振り解き、ケントは朱の差した頬を隠すようにクローゼットへと向き直る。上手くボタンを外せない指と、僅かに早くなっている鼓動が無性に悔しい。
「今更照れなくてもいいのに」
「照れてなどいない」
 笑み混じりで茶化す声。背後で親友がどんな表情をしているか、容易に想像がつく。ケントは何度目とも知れないため息をつき、湿ったコートをハンガーに掛けた。



「なあケント」
 昼間、ベランダに干してあった洗濯物を取り込み畳んでいたケントに、セインが背後から声をかけてくる。
「何だ」
 視線は手元に据えたままに問うと、数瞬の間の後に返事があった。
「お前さ……明日の夜はやっぱ、教会行くの?」
 整然と折り畳んだ衣類を脇に重ね、新たな洗濯物を手に取る。その動作の合間を縫って、ケントは少し考えてから答えた。
「ああ、そのつもりだが」
 ケントの祖母は敬虔なクリスチャンだった。両親と同等、あるいはそれ以上に祖母を慕っていたケントも、よく彼女に連れられ幼い頃から教会へ足を運んでいた。彼自身は根っからの信者というわけではなかったが、クリスマスに行われる教会でのミサへの参加は、祖母が亡くなってからも習慣のような感じで毎年続けている。そうすることによって、祖母との思い出を忘れないでいられる気がするからかも知れなかった。

「そっか」
 それきり、セインの言葉が途切れた。
 ケントは手を動かしながら、そんな親友の行動を訝しむ。大事なことも余計なことも混ぜこぜで、とにかくひっきりなしに喋っているこの青年が、会話の途中で黙り込むことは極めて珍しかった。

「あのさぁ……俺」
 再びセインが口を開いたのは、ケントが全ての洗濯物を畳み終えた直後だった。
「今晩、仕事入っちゃってて。どうしても抜けられないんだよね」
 セインはいまだ定職に就かず、日々バイトで生活費を稼いでいる。だがケントは、それに関しては彼を諌める気にはならない。夢だった舞台俳優になるため、彼が自分なりに努力を重ねていることを、ケントは知っていたからだ。
「そうか」
 静かに頷いて了承の意を示す親友――兼、恋人――を見やり、セインはひとつ息をつく。
「だから、さ……」
 しかし、その言葉の続きが音になることはなく、結局セインはそのまま唇を結んだ。
 黙って続きを待っていたケントは、物問いたげな視線を彼の横顔に向け……目を見張る。

 どことなく寂しげな微笑は、ほんの一瞬。

「――じゃ、そろそろ時間だから。行って来るわ」
 勢いよく立ち上がり、床に転がっていた荷物を拾い上げる。その様子は、疑う余地無く普段のセインそのもので。

 ひらひらと肩越しに右手を振って、玄関を出て行く後ろ姿。
 それを見送ったケントは、先程の表情は目の錯覚だったのだろうかと一人首を傾げていた。



 翌日の夕方、図書館からケントが帰ってくると、例によって例の如く部屋には先客が居座っていた。
「おっかえりー」
 気楽に出迎えてくれたセインの声に肩をすくめながら、ケントは部屋に上がった。どうせすぐにまた外へ出るつもりなので、荷物は玄関に置いたままだ。

 今宵は、神の子がこの世界に生まれ落ちたとされる聖夜。
 彼を崇める敬虔な信者たちは、教会に集まりこの佳き日をひっそりと祝福する。荘厳で神聖なる、祈りの宴。
 クリスマスのミサに参加するたびに、ケントは子供の頃ずっと見ていた、静かに神へ黙祷を捧げる亡き祖母の横顔を思い出すのだった。

 ベッドの端に腰かけ、慌ただしく支度する友人の姿を見ていたセインが不意に問いを投げかける。
「ねぇケント、今日って何の日だっけ?」
「クリスマスだろう」
 何を今更、という顔でケントが即答する。その顔を見据え、さらに問いを重ねるセイン。
「クリスマスって、どういう日だっけ?」
「イエス・キリストの生誕日。それくらい知っておけ」
「……いや、そーゆうことでなくて」
 やれやれ、といった体でセインが額にかかる髪を掻き上げる。

「――やっぱ、行くんだ?」
 「どこに」行くのかという目的語が抜けていたが、ケントには彼の言わんとすることが瞬時に解った。
「……習慣みたいなものだからな。仕方がない」
 一緒に誘おうかとも考えたが、無神論者のセインにはどうひいき目に見ても楽しくない行事だろう。祈祷が始まった途端、10分ともたず寝はじめるに違いなくて――ああ、リアルに目に浮かぶ。
 いくつかの鍵が下がったキーホルダーを手に、行ってくると告げようとして振り返ったケントは、微かに何かを呟いた友人の声を聞きつけて眉を寄せた。
「……何?」
 聞き返すと、顔を伏せたセインが再び何か呟く。またしても聞き取れなかったケントは、訝しげな表情で彼の傍に寄り、心もち身を屈めて髪に隠れた口元へ耳を寄せた。

 刹那。
 ぐい、と強く引き寄せられる。不意を突かれてバランスを崩した身体に、伸びた両の腕が絡みついてきて。
 気がつけば、ケントは仰向けでベッドに組み伏せられていた。

 ――嵌められた。
 ケントは内心で舌打ちする。この男は、最初からこれを狙っていたに違いない。
「セイン」
「ダメ。行かせないよ」
 咎めるように名を呼べば、悪戯っぽい微笑みでそんなことを言ってくる。自侭で気紛れな……彼の恋人。

「お前、ふざけるのも大概に……」
 いつものように叱り飛ばそうと上げた声は、静かな相手の言葉に遮られる。
「ごめん。悪いけど本気、なんだよね」
 冗談めかしてはいても、その口調、その眼差しは珍しいほどの真剣さを帯びていて――ケントは思わず言葉を失った。
 上にあった影がするりと降りてきて、唇に一瞬のあたたかさを覚える。

「なあ、行くなよ。俺と一緒に居てよ……ねえ」
 ゆっくりと髪を梳いた手が頬に当てられ、瞳を覗き込まれる。灰色の虹彩に緑のインクルージョンが光る、不思議な色合いの双眸。
 何を、子供みたいなことを――ケントは困惑の中に呆れを滲ませた表情で、間近にある親友の顔を見つめ返す。

「俺と神サマと、どっちが大事なワケ?」
「そんな、ことを……言われても」
 困ってしまう。
 祖母ほど熱心なクリスチャンではないケントにとって、ミサに参加するという行為は神への信仰よりも、習慣的な意味合いが強いものだった。特に自分の中で神を絶対視しているわけでもなく、だからこそそんな風に訊かれると答えに詰まってしまう。

 困り果てた顔で、ケントは琥珀の双眸を瞬いた。
 ここで「行かない」と言ってやれば、こいつは納得するのだろうが……。


「な、ケント。お願いだからさぁ」
 懇願に近い言葉とともに抱きしめられて、ケントはため息混じりに覚悟を決めた。

「――解った」
 一言告げれば、本当に嬉しそうな顔をして微笑むから。
 この選択もきっと悪くないと、その表情を見て思う。

「サンキュ。だからケントってば好きだよ」
 途端に普段のふざけた口調に戻って、セインが抱きついてくる。……少々重い。
「解ったから、退けというのに」
 相手の身体を押しのけて、ケントは半身を起こした。必要なくなったコートを脱ごうと襟元のボタンに手をかけ……ようとして、傍らの青年に止められた。
「あ、いいって。どうせこれから俺が脱がすし」
 何やらとんでもないことをさらりと言い放たれたような気がして、ケントは思わず半身を退く。
「な、何を言って……」
 台詞の意味するところを今更に悟り、顔を赤くしてうろたえる彼を横目に、セインが喉を鳴らして笑った。そして手を伸ばし、ケントの額にかかる前髪をさらりと払う。

「ケント、大好き」
 反射的に目を閉じた瞬間、囁きとともに唇が触れてきた。



 絆されている自覚はある。振り回されているのも解っている。
 けれど――この青年相手ならば、それも悪くはない。
 自分も彼を大切に思っているし、自分が彼に大事にされていることも、とりあえずは知っているから。

 抱きしめられながら、ケントはぼんやりと亡き祖母のことを思った。
 ――彼女は怒るだろうか。それとも笑うだろうか。
 恋人の願いに絆され、聖夜の祈りの儀に参加しなかった自分を。形無き神よりも、傍らに在る想い人を選んだ自分を。
 この選択を後悔はしていない。ただ、祖母に対しては申し訳ない気持ちで一杯だった。
 今年はミサに参加できなかったと、墓前に謝罪しなくてはならないな……とケントは思う。

 もっとも――同性の親友と恋仲になった時点で、既に神の前に立つ資格など無いのかも知れないが。


「……もう、教会には行けない、か」
 独りごちると、傍らに横たわるセインが頬杖をついて覗き込んできた。
「ごめん。俺のせいで、地獄に行っちゃうかも」
 おどけた口調とは裏腹に、髪を梳いてくる指の動きには、真剣な本音が見え隠れしている。
「――そうかも、知れないな」
 そのときは、と続けたケントに、セインが「ん?」と首を傾げた。手を伸ばし、その癖のある柔らかな髪に触れながら、まっすぐに相手を見据えて口を開く。
「一緒に引きずり落としてやるから、覚悟しておけ」
 そう告げると、セインは驚いたように目を見張り……ふわりと優しく微笑んだ。

「――言われるまでも無く」
 芝居がかった、しかしこの上なく真面目な調子で、セインは髪に添えられていたケントの手を取り、指先に軽く唇を触れた。
 恭しくさえあるその行為は、どこか神への誓いにも似て。

「御心のままに……どこまでもついて行きますとも」




昔書いたクリスマスSSを再掲。



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