真実の瞬間


 久方ぶりに訪れた、穏やかな夜。
 静寂の中かすかに混じる気配に、ゼトは目を覚ました。

 グラド領内にて単身戦っていた兄を助けるため、危険を承知で敵国へと入ったルネス王女エイリーク。
 その勇気の甲斐あって、レンバール城内で兄エフラムと再会。一行は無事、フレリアへと戻ってくることが出来た。

 到着時、既に大分日が落ちていたこともあり、一行は詳細な軍議を明朝に回してまずは休息を採ることとなった。
 ヘイデン王は、現在前線に出ているフレリア軍の宿舎を彼らに快く提供してくれた。今ゼトが休んでいるのも、フレリア軍兵舎の一室である。
 常に敵襲を警戒し、神経を尖らせている必要の無い堅固な保護の内。
 このような状況で眠りにつくことが出来るのは、どれくらいぶりのことだろう。

 しかし、彼のように鍛錬を積んだ騎士は、大体において平時から眠りが浅い。
 たとえ熟睡していても、何かしら事が起こったときにすぐさま反応できるよう、日頃から訓練を積んできているためだ。一瞬の遅れが致命的な事態を招く戦場――そこに身を置く者ならば、それは至って普通のこと。
 だからこの時も、ほんの僅かな違和感を感じ取った瞬間にゼトの意識は覚醒していた。

 静かに半身を起こし、茜色の双眸を細める。
 透かし見た闇の向こうに、動く者の影は無い。だが彼の研ぎ澄まされた感覚は、確かに何者かの存在を捉えていた。

 微かな衣擦れの音すらたてず、枕元に立てかけてあった剣を手に取る。
 まだ鞘からは抜かない――気配の正体が解らぬ以上、下手な動きは禁物だった。
 いつも使っているものより幾分細身の質感を確かめながら、ゼトは低く押し出すような声で誰何した。

「――何者だ」

 刹那、視界の隅で影が動いた。
 そちらに目を向けるよりも早く、ゼトは半ば反射的に右手で上掛けを跳ね上げる。闇に翻った白い敷布が、今まさに彼へ肉薄しようとしていた影の行く手を遮り、その足を止めた。
 即座にゼトは鞘に入れたままの剣を布に向かって叩きつけたが、手応えは無い。
 どうやら、むざむざ敷布に巻かれて身動き取れなくなるほど間抜けな相手ではないらしい。言い換えれば――それだけの手練れということだ。

「……!」
 空振りと見るや素早く剣を手元に引き戻したゼトに、先程とは反対側から影が向かってくる。剣を向ける間も無く、利き腕を掴まれた。
 かなりの敏捷性――正直、彼の予想を遥かに上回っている。
 そのまま押さえ込まれる寸前、ゼトは無理な体勢になることを承知で脚を伸ばし、相手の足元を払った。
 成功するかは微妙な賭けだったが、これが効を奏した。
 半ば寝台に上りかけた状態だった相手のバランスが崩れ、後ろに倒れる。
 ゼトは素早く寝台から下り、床に腰を落とした相手に剣を突きつけ――

 その瞬間、月を隠していた雲が切れ、背後にある窓から仄かな明かりが射し込む。
 青白い光に照らし出されたその顔を見て、ゼトは驚きのあまり言葉を失った。

「エ……エフラム様……!?」

 あまりのことに二の句が告げないゼトに向かって、侵入者――彼の主君たる、ルネス王子エフラムは不敵な笑顔を見せて立ち上がった。
「ご無礼を――」
 今まで闇の中で攻防を交わしていた相手が主君だと解り、我に帰ると同時に跪くゼト。
「どうやら腕は落ちていないようだな、ゼト。安心したぞ」
 頭を垂れる部下に立つよう手で促し、エフラムは涼しい顔でそう言ってのけた。
「……まさか、それが目的で……?」
「そんなところだ」
 やっとの問いかけにあっさりそう返されて、ゼトは思わず大きな溜息をつく。
「……エフラム様……いい加減、このような子供じみた振る舞いをなさるのはいかがなものかと思いますが」
「まあ、そう言うな。久しぶりだったからな、腕が鈍っていないか試しただけだ」
 公的な場では決して見せない、悪戯小僧のような笑みを浮かべてエフラムが言う。

 実年齢にはそぐわぬほどの威厳と器の大きさを遺憾なく発揮しているくせに、時折まるで少年のような一面を見せることがある。
 その二面性が無理なく同居していることが、彼の他人に無い不可思議な魅力の大きな要因であるのは、ゼトもよく知るところであったのだが。

「それに、気になる事もあったからな」
「気になる事……ですか?」
 切れ長の瞳に微かな疑問を刷いて、ゼトは主君の顔を見つめる。

「エイリークから聞いた。城から脱出する時、深手を負ったそうだな」
 嘘や誤魔化しを許さぬ碧眼が、強い視線でゼトの双眸を射抜く。
「……確かに、事実です。私の不覚でエイリーク様にご心配をおかけしてしまい、申し訳なく思っています」
 しばしの沈黙の後、ゼトは正直にそう答えた。
 騎士の誓いにかけて、主君が問うてきたことに対し嘘偽りを言うことは出来ない。

「――エイリークが、お前の傷はまだ癒えていないのではないかと言っていた」
「……」
 婉曲や曖昧さを一切排除し、簡潔にして力強い。
 エフラムの発する言葉は、それゆえに一種抗いがたい引力のようなものを感じさせる。それは彼が生まれながらに持っている、王者に相応しい器の大きさから来るものであったろうか。
「どうなんだ、ゼト」
 ただ真実しか求めない、その声と瞳が答えを迫る。

「――何も、問題はありません。
 傷は癒えております。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
 そう言って、静かに頭を下げるゼト。

 真実を偽ることは罪――それを知りながら、彼はあえて本当のことを告げなかった。
 主君に対して迷惑をかけずに済むのなら、嘘をつくことも辞さない……それもまた、ひとつの忠節の形。
 自己の保身のためではなく、ただ純粋に主君を思うが故の偽りだった。


 両者の間に、決して短くは無い静寂が流れた後。
 家臣の姿を碧緑の双眸で見据えていたエフラムが、おもむろに腕を挙げてゼトの胸元を掴んだ。
「エフラム様、何を……」
「その傷を見せてみろ」
 戸惑う騎士に、ルネスの王子は有無を言わさぬ口調で告げる。
 身を引こうとするゼトだが、腕を掴む力は思いの外強く、外すことが出来ない。

「見せろと言っている」
 抗うことを許さぬ、強い意志を込めた声。
「エフラム様……っ!」
 何とか押し留めようとしても、服を引く手の力は強くなるばかり。

 本気を出しているエフラムに対し、主君に逆らうことに躊躇しているゼトの抵抗は弱い。
 伸ばされてくる腕を払いのけることも出来ず、ゼトの長身は加えられる力のままに寝台へと押し付けられる。
「先程は、あんなに容赦なく攻撃を加えてきたというのに――」
 襟元に手を掛け、ゼトの上に圧し掛かった姿勢でエフラムが不敵に笑う。
「相手が俺だと解ったら、この手すら払いのけられないか?
 お前はいつだってそうだったな……ゼト」
 全てを見通しているような、その台詞。


 夜だというのに、ゼトは昼間の服装から鎧と上着を外しただけの姿だった。
 突発的な事態が起こればすぐさま駆けつけられるよう、最低限の衣服は身に着けたまま、重い装備だけ外して寝台に入る。これもまた、騎士にとっては当たり前の心構えだ。
 当然、肩の傷を見ようとすれば重ね着した服をいちいち脱がさなければならない。だが、こうと決めたら己の意思を曲げない豪胆な王子は、その手間を惜しむ気はさらさら無いようだった。
 槍を華麗に扱う手が、高い襟を引き開け右肩を露出させるのを横目で見て、ゼトは覚悟を決めたように目を閉じる。

 ――最初から、解っていたことだった。
 この主君相手に、いつまでも真実を隠し通すことなど出来るはずは無いのだと。

 袖なしの胴衣から覗く右肩に、エフラムは探るように指を這わせ――赤く引き攣れたような痕のある部分を見つけると、容赦なくぐいと押した。
「……っ!」
 刹那、身体の奥に走った鋭い痛みに、ゼトは微かに眉を顰める。
 それは僅かな動きであったが、エフラムはその変化を見逃していなかった。
「やはりな。まだ治っていなかったか」
「……申し訳ございません」
 エフラムの手が離れると同時に、ゼトは上体を起こして衣服を整え、頭を垂れる。
 私事で迷惑をかけないためとは言え、主君に対して真実を言わなかった上、それを隠し通せなかったことが後ろめたかった。
「そうやって、皆に心配をかけまいと痩せ我慢するのも昔と同じだな」
 先刻の威圧感すら感じさせる態度が嘘のように、エフラムは面白そうに破顔した。
 そういう表情をすると、普段は大人顔負けの堂々たる佇まいを見せている彼も、年相応の若者らしい雰囲気になる。
 何の作為も無い笑みを向けられて、ゼトはどこか居心地の悪さを感じて居住まいを正した。


「――すまなかった」
 しばしの沈黙の後、不意に発せられたその言葉に、ゼトは伏せていた面を上げる。
「お前は自らの片腕を犠牲にしてまで、俺の唯一の肉親である妹を救ってくれた。
 感謝している――ゼト」
 正面にある若き主君は、真面目な表情でそう言うと部下に向かって頭を下げた。
 潔いその行為からは、彼が人の上に立つ者としての風格と同時に、受けた恩に対しては臣下が相手であっても心から感謝するという誠実で真っ直ぐな気性を持っていることが窺える。
 その才覚と人間らしい心があるからこそ、ゼトを初め仕える者はみな彼に惹かれ、忠誠を誓っているのだ。

「いえ、そのような。
 私の傷のことで、エフラム様、エイリーク様がお気に病む必要はございません。
 お二人を、この身に代えてもお護りする――それが私の為すべきことであり、選んだ道なのですから」
 打てば響くようにゼトは答え、その足元に跪いて臣下の礼を取る。
 エフラムが無言で腰を屈め、その手を取って立ち上がらせた。

「だが、その腕では前のように剣は振るえないだろう。支障は無いのか?」
「仰る通り、この腕はもはや元には戻らないでしょう。
 ですが利き腕ではありませんし、戦に出る上で大きな問題は無いかと」
 ゼトの本来の利き腕は左である。それを知っているエフラムは、彼の言葉に軽く頷いた。
「そうか。――他ならぬお前の言うことだ、信用しよう。
 だが、無理はするな」
「はい、肝に銘じておきます」
 主君からの労りの言葉に、ゼトは感謝の意を表して再び頭を下げる。


「お前は、無くてはならない存在だ。
 ルネスにとっても――俺自身にとっても」

「は……」
 その言葉に顔を上げたゼトの前で、エフラムは思いのほか真剣な表情をしていた。
 戸惑う紅蓮の双眸を、深い青碧のそれが覗き込んで来る。

 闇の中にあってなお、凛と輝く碧緑の双眸。
 凪の海のような静謐さと、燃え盛る炎にも似た情熱と……相反する色を共に宿したその鮮烈な碧眼に、心ごと囚われてしまいそうな錯覚に陥る。

「……勿体無いお言葉にございます」
 その目から辛うじて視線を引き剥がし、ゼトは目を伏せて頭を垂れた。


 この人の前で、騎士として在る時。
 それこそが自分にとって、揺るぎ無い真実の瞬間。
 彼の傍に仕えることが、この上ない誇り。

 未だ自分を見据える主君の瞳。
 その奥に揺らめいていた、普段とは違う熱の気配。
 それが一体何なのか、薄々予感する心にゼトは気づかなかった。


 ――気づかなかった、振りをした。




意図しないエロさというものを書いてみたかった。
ゼトが左利きなのは趣味です。



PAGE TOP