シンメトリカル・ラブ


 ハート型のビターショコラ、まあるいトリュフ、なめらかな生チョコレート、色とりどりの瓶詰めキャンディ、ピンクのパッケージに花柄リボン、クマのぬいぐるみを象ったミルクチョコ、大人向けのワインにリキュール――。
 ずらり並んだ棚に所狭しと置かれたそれらを横目で見ながら、キルロイは周りに気づかれない程度に溜息をついた。
 時は2月の頭ともなれば、至る所に出現するはチョコレートの山。毎年恒例の熾烈なバレンタイン商戦は、今まさに白熱の様相を呈していた。
 大型ショッピングモールの一角に特設された売場。色とりどりの綺麗なラッピングを施した箱をカゴに詰め込んだ人々は、そのほぼ全てが女性客だ。その一角が醸し出す熱気に圧倒され、青年はそこを避けるように本来の目的地へと足早に向かう。

 日用品売場に入り、特設コーナーが見えなくなったあたりで、無意識に詰めていた息を吐き出す。
 自身にとっては、義理チョコをいくつか貰うだけの、大して特別でも無いイベントのはずだった。少なくとも、数年前まではそうだったのだ。
 何故、いつから――こんなに憂鬱な季節になったのだろう?

 ひとつかぶりを振って、青年はコートのポケットから買い物メモを取り出す。
 理由など、考えなくとも解っていた。



 2月14日。
 アルバイトを終えたキルロイは、いつものように行きつけの純喫茶へと足を向けた。
 軽いベルの音と共に扉を開けると、温かみのある照明の光と落ち着いたジャズの旋律が彼を出迎える。さほど広くない店内は、既に半分以上埋まっていた。
「いらっしゃいませ」
 新たな来客に気づいた店の主が、カウンターの中から穏やかな微笑みを向けてくる。見慣れたその姿に軽く会釈を返して、キルロイはほぼ指定席となりつつあるカウンターの一番奥の席に座った。コートを脱いでいると、マスターが目の前にやってくる。
「ご注文は」
「ミルクティー、お願いします」
「かしこまりました」
 ごく短いやり取り。
 ここの主たる青年は、店に立っている間は知己であっても特別扱いせず、他の客と平等に接する主義だった。――それが、たとえ恋人であったとしても。
 キルロイもその事は既に承知していたし、その誠実な姿勢を尊敬こそすれ、不満に思ったことは無かった。去っていく背中を見送って、店内に視線を移す。

 ……心なしか、普段より女性客が多いように感じたのは、気のせいでは無かったようだ。
 元々、昔ながらの住宅街にひっそり建つ純喫茶という条件の割に、女性客が多い店ではあった。それが、絶妙な淹れ加減の珈琲や美味しい手作りケーキのためばかりでは無いことは、女性客がマスターに注ぐ熱い視線を見れば明らかだ。
 物腰柔らかく気配りも細やか、聞き上手で料理も絶品、おまけに20代前半の端正な青年とくれば、女性が放っておくはずもない。
 カウンターに座った女性グループと談笑している彼を横目で見つつ、目の前に置かれたカップを取り上げた時。

「あのっ、マスター。
 これ……良かったらどうぞ」
 はにかみながら女性客の一人が差し出したのは、リボンのかかった小さな箱。
「あ、私からも!」
「私のも受け取ってください!」
 一緒に来ていた女性達も、こぞって似たような風情の箱を鞄から取り出した。その言葉を受け、マスターはさも今思い出したといった表情を浮かべる。
「ああ、そう言えば今日はバレンタインでしたね。
 ありがとうございます、わざわざ気を遣っていただいて」
 笑顔で女性達から箱を受け取る彼の様子を、キルロイは複雑な想いで窺っていた。

 ――わかっていたことだった。
 こんな風に、バレンタインデーに彼が常連客からチョコレートを貰う様子を、何回も見てきた。客商売である以上、本心がどうあれ彼も無碍に出来ない事は解っていたし、彼の人徳の賜物であるのだから、それ自体は喜ばしい事のはずだった。
 理性では解っている。それでも、感情はどうにもならなかった。
 単純に、女性と接する機会が多いことへの不安や嫉妬もある。けれど、それは正直些事でしかない。

 あんな風に、女性から憧れの視線を向けられている彼を見るたびに……思うのだ。
 彼ならいくらでも、相応しい女性を伴侶として選べるはずだ。同性である自分と恋仲で居るよりも、その方が彼は幸せになれるのではないのだろうか。
 彼は優しい人だから、自分に気を遣って本音を言わないだけなのではないか。
 彼と共に居たい気持ちに嘘はなく、離れる事になればきっと身を切るような苦しみに襲われるだろう。
 けれど、真に怖いのは――自分が傍らに在るがために、彼の身に不幸が振りかかること。

 自分が女性であったなら、何も恐れることなく彼の傍に居られただろうか?
 何憚る事無く彼にチョコレートを渡せる彼女達が、羨ましかった。

 相手からそう告げられたわけでもないのに、勝手に悪い想像ばかりしてしまう。
 ――だからキルロイは、この日が苦手だった。


 カップを傾けても唇に触れる温かさは無く、いつの間にか紅茶が空になっていたことに気づく。
 大好物のはずが、味など全くわからなかった。淹れてくれた彼に申し訳ないと、忸怩たる思いが胸を圧す。
 こうなる事はわかっていたのだから、そもそも今日、ここに来るべきではなかったのだ。それでも来ずにはいられなかった自身の女々しさと執着ぶりに嫌気が差して、キルロイは目を伏せた。
 いつもなら閉店までここに居るのだが、今日はもう帰ろうと、中身の無いカップをソーサーに戻した時。

「失礼します」
 コト、と目の前に置かれた陶器のマグカップに、キルロイは呆気に取られて顔を上げる。
 その視線の先で、穏やかな表情の青年がカウンターの向こう側からこちらを見下ろしていた。オスカー、といつもの癖で名前を呼びそうになり、慌てて呑み込む。
「あの、これ……」
 注文した覚えの無い品に戸惑うキルロイに、その人は悪戯っぽく微笑みかけて。
「こちら、当店からのサービスとなります」
 ごゆっくりどうぞ、と片目を瞑ってみせ、マスターたる青年――オスカーは黒いギャルソンエプロンの裾を翻して反対側へと去っていった。

 半ば呆然とその背中を見送ってから、キルロイは彼が置いていったカップにおずおずと手を伸ばした。
 立ち上る湯気から漂う甘い香りが鼻を擽る。白い陶器に満たされた、淹れたてのホットチョコレート――勿論、メニューには載っていない品だ。

(――お見通し、なんだろうな)
 両手でカップを包むように持ちながら、キルロイは溜息でもって湯気を吹き飛ばす。
 先程までの自分は、さぞかし浮かない顔をしていたことだろう。聡明な彼はきっと、その理由に気づいたはずだ。この一杯のホットチョコレートには、そんな自分に対する彼からの無言のメッセージが込められているような気がした。
 店では身内贔屓をしない主義の彼に特別扱いをさせてしまったことを、キルロイは申し訳なく思う。しかし同時に、他の客が多く居る中でもちゃんと彼が自分を見ていてくれたことに、嬉しさを禁じ得なかった。

 軽く二、三度息を吹きかけてから、カップに唇をつける。
 とろりと甘くもほろ苦いその味を、まるで恋のようだと青年は思った。



 店の外の照明が消え、閉店時間が来たことを示す。
 店内に残っているのはキルロイ一人だった。入口に「CLOSED」の札を掛け終えた店の主が、再びカウンターへと戻ってくる。
 普段ならここから店の片付けが始まるのだが、今日は違った。いったんカウンターの中に入った青年は、すぐに自身の分の珈琲を手に出てきて、キルロイの隣の席に腰を下ろす。
「お疲れ様、オスカー」
 その行動に内心驚きながらも、キルロイはいつものように労いの言葉をかけた。ありがとうと笑顔で応え、青年は珈琲に口をつける。
「あの、これ、御馳走様。美味しかったよ」
 そう告げて、空になった手元のカップを示す。
「どういたしまして。気に入ったかい?」
「うん」
 もう一杯淹れようか、と問われて、一瞬逡巡した後に頷く。
「――なんか、ごめんね。気を遣わせちゃったみたいで」
 カウンターに立つ気配を感じながら、視線は手元に落としたままキルロイは小さく詫びた。
「別に、気を遣ったからというわけではないよ。元々、これは君に飲んでもらおうと用意したものだからね」
「僕に?」
 顔を上げると同時に、眼前に差し出されるカップ。その向こうに、穏やかに微笑む恋人の顔が見えた。
「――男同士でも、まあこれくらいは良いだろう?」
「!」
 彼の言わんとする事を察し、一瞬瞠目して。
 目を伏せ気味にはにかみながら、そっとカップを受け取った。

 しばし無言のまま、二人並んで温かい飲み物を傾ける。
 舌に残る優しい甘さと、喉から胸へ流れ落ちる熱が、ささくれた心を包み込むようで、キルロイの口元には自然と微笑みが浮かぶ。
「やっと笑顔になったね」
 その声に傍らを見れば、頬杖をついてこちらを見ているオスカーと目が合った。
「……やっぱり、気づいてたんだ」
「まあ、ね。
 本当は店仕舞い後に出すつもりだったんだが、あまりに浮かない顔をしていたから」
 キルロイの持つホットチョコレートのカップを指して、苦笑混じりにオスカーが告げる。
「……ごめん」
「お客様が店で心地良く過ごせるよう気を配るのは、オーナーである私の仕事だよ。君が気に病む必要は何も無いさ」
 さらりと事も無げにそう言ってのけ、珈琲を一口含む青年に、キルロイはしばし迷った後に小さく問うた。
「僕が考えていた事も……お見通しなんだよね? きっと」
「おおよそ予想は出来る、という程度だよ」
 肩をすくめてから、青年は顎に手を当て視線を中空に彷徨わせる。
「――私には、自分よりもっと相応しい相手がいるんじゃないか。自分がその邪魔をしているんじゃないか。
 推測だけど、こんな所じゃないのかい?」
「……」
 あまりにも的確に図星を指され、キルロイには返す言葉も無い。
「やっぱり、ね」
 持ち上げたカップの陰で、形の良い唇がくすりと笑む。
「まったく、何度言えば君は納得してくれるんだろうな」
 口ではそう言いながらも、その目元に呆れや怒りといった感情は見えない。ただ純粋に、相手を慈しむ色だけがあった。
「オスカーの事を信じてないとかじゃないんだ……でも」
 どうしても、不安は拭えない。
 それは、自分の幸福よりも、ただ相手に幸せになって欲しいと願うが故に。

「君には、私が好きでもない相手と無理に一緒に居るほど人が好いように見えるのかい?」
「……見える」
「……まいったな。随分と買いかぶられたものだ」
 ぼそりと呟かれた返事に、オスカーは苦笑を大きくして髪を掻き上げた。
「私からすれば、君の方がよほど我慢ばかりしているように見えるんだけどね」
 長い指がすいとカップの縁を撫でる。
「君は我儘も言わないし、随分と私に対して遠慮しているように見える。
 現に、こうやって悩みや不安を抱えていたって、私が指摘しない限り打ち明けようとしなかっただろう?」
「――っ!」
 息を呑むキルロイを横目に、そもそも、とオスカーは言葉を継ぐ。
「君が抱えている不安は、そのまま私にも当てはまるということ、忘れてはいないかい?」
「……え?」
 きょとんと瞬く双眸に、投げられる意味ありげな視線。
「君だって、今日はチョコレートを貰っただろう?
 その中に、いわゆる『本命』が混じっている可能性は?」
「えっ!? そんな、流石にそれは無いよ」
 確かにバイト先で、いくつかチョコは貰っている。しかしそれらは全て義理だから……と説明するキルロイに、しかしオスカーの追及は続く。
「君はそう認識しているかも知れない。でも、相手がそう思っていなかったら?」
「え……」
 考えもしなかった、と困惑しきりの表情で固まる彼を見つめ、青年は一転して自嘲めいた微笑みを浮かべた。
「――まあ、そういうことだよ。
 私だって、君と同じ不安くらい持っているさ」
 そう告げると、視線を逸らして取り繕うようにコーヒーカップを傾ける。
 その仕草に、どことなく照れ隠しめいたものを感じたのは、キルロイの気のせいだったろうか。

「――ふふっ」
「何だい?」
「ううん。
 何か、ちょっと安心したなって」

 純粋に相手の幸福を願うが故に、今の幸せを疑ってしまう。
 それはきっと、自分が弱いせいだと思っていた。相手の心を、自身の想いを信じきるだけの強さが無いからこそ、揺らぐのだと。
 精神的に成熟しているこの青年なら、きっとそんな風に思ったりしないのだろうと、そう決めつけていた。

 けれど――違ったのだ。

 同性同士という現実がある以上、おそらくこの手の不安や疑念とは、この先もずっと付き合っていかなければならないのだろう。
 それでも、彼も自分と同じ気持ちでいると解った、ただそれだけで不安が随分と軽くなったような気がするから。
 これからも彼と共に居たい、その気持ちを大事にしようと、素直にそう思えた。

「まあ、そういうことだから。
 自信が無い同士、仲良くやっていこうじゃないか」
「うん。よろしくお願いします」
 微笑んで頭を下げるキルロイに、ああいや、と複雑な表情で髪を掻き上げるオスカー。
「どうにも、回りくどいな。
 私の悪い癖だ」
 自嘲気味にそう呟くと、青年は指で傍らの恋人を差し招いた。怪訝な顔で身を乗り出す彼の耳元に唇を寄せ、そっと囁く。
「――っ!?」
 一瞬目を見開いた後、キルロイの顔が茹で上がったように真っ赤になる。
「……二度は言わないよ」
 酸素不足の金魚めいて口をぱくぱくさせている青年を横目で見やり、オスカーは慣れない事をした気恥ずかしさを誤魔化すように、残っていた珈琲を一気に干した。



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