Devil's wisper


 その日、青年は傍目にも明らかに機嫌が悪かった。

「そこ! 剣の振るい方がなっていないぞ。しっかり基本を思い出せ!」
 厳しい叱咤が飛び、指名先となった若い新兵の一団が首を縮める。
 キアランの騎士隊長たるこの青年、普段は非常に冷静かつ穏和な性格で知られている。厳しい指導をしても、それは部下や主君、そして国のことを思うが故のことであって、自分の感情の赴くままに怒鳴ったり、私情を挟むような叱り方は決してしない性格であった。
 だが、どのように優れた人物であっても、人間である限りはどうしても虫の居所の悪い時というのは存在する。そういう時はどんなに平静を保とうが、ちょっとした言動の端々に棘が垣間見えてしまうものだ。
 ――つまりはこの青年にとって、今がちょうどその時というわけである。

「駄目だ! そんな構えでは逆に自分の方を傷つけかねないぞ。
 基本を思い出せと何度言ったら……!」
「――あーらら、こりゃまた凄い剣幕で。どしたのさ?」
 訓練場に入ってくるなり目を丸くしたのは、副騎士隊長でありケントの良き相棒でもある緑の鎧の青年。

「……セインか」
 あからさまに眉を寄せたケントとは対照的に、その場にいた新兵達がはっきりと安堵の表情を浮かべた。

「もう昼回ってるよ。訓練はここらで一旦切り上げて、飯でも食いに行こう」
 言いながらすたすたとケントの前にやってきたセインは、さりげなく背後の部下達に手で解散を促す。
 その合図を見た見習い達は、「ありがとうございました!」と一斉に挨拶し、助かったといった風な表情を浮かべながらそそくさと訓練場を出て行った。
 隊長の機嫌が悪い時、それを最も効率的に受け流し緩和することができるのは誰なのか――そのことを、彼らもよく知っているのだ。


 自分達以外の全員が出て行くのを見届けてから、セインは再び親友の方を振り返って笑った。
「今日はまた、一段と機嫌が悪そうだね?」
「…………」
 無言でふいと顔を背け、手にしていた模擬戦用の剣を片付けにかかるケント。その背中に、セインは冗談めかした口調で軽く告げる。
「何をそんなにカリカリしてるのか知らないけど。
 あんまりイジメてやるなよ。あいつらはまだまだヒヨッコなんだ、頭ごなしに叱っちゃかわいそうだろ?」
「――解っている! そんなことは……」
 背中を向けたまま、ケントが苛立ちを隠さぬままに言い放つ。
 だが、すぐに思い直したように溜息をつき、肩を落とした。

「………解っては、いるのだ」
 ぽつり、と呟かれた一言。

「仕事の際に私情を挟むなど、隊長職にある者としてやってはならぬことだ。
 いくら私が未熟でも、それくらいは心得ている。
 だが、頭では解っていても、完全には切り離しが出来ていなかったようだ……」
「一体どうしたのさ? 体調悪いわけでもないみたいだし」
「解らない……少し、気が立っているようだ」
「ふぅん……」

 どことなく途方に暮れた様子の背中を眺めて、セインは首を捻り――
 唐突に、灰緑の双眸をくるりと見張った。

「もしかしてさぁ……」
 チェシャ猫に似た笑みを浮かべ、横から相棒の顔を覗き込むセイン。
「ケントさん、欲求不満なんじゃないの?」
「なっ!?」
 琥珀の目を見開いて絶句した青年の頬を、にやにや笑いながらセインが人差し指でひょいと突いた。
「やたらイラつく時って、大抵が煮詰まってるんだよ? ――いろいろと、ね」
「そういうことではない! な、何を馬鹿なことを……!」
 白皙の頬に血を上らせて眉を逆立てる様を面白そうに眺め、首を傾げて一言。
「ふぅん。図星?」
「…………っ!!」
 言い返す言葉に詰まり、こちらを睨みつけてくる親友に、セインはくすくすと悪びれない顔で笑った。
 この手の冗談が苦手な親友の性格を、十分に知った上でからかっているのだ。

「そっかーなるほどねー。原因はそれかあ。
 まあ、この年になってイイ相手の一人もいないんじゃ、無理もないけど」
「だから、違うと言って……!」
 勝手に話を進める親友に、ケントが憤然と抗議しかけた瞬間。


「……じゃあ……協力してあげてもいいよ?」
「――は?」
 何を言われたのか解らないといった表情で、ぽかんと立ち尽くすケント。
 その前で、独り意味深な笑みを見せる青年。


「抱かれてあげても、いいよ?」
 ――そう、お前にならね。

 くすくす。
 微かな笑い声が、いやに耳について谺する。


 ――この、目の前にいる男は。
 果たして本当に、自分の知っている相棒なのか?
 そんな風に自問せずにはいられぬほど、ケントは眼前の青年に違和感を覚えていた。
 今、自分の首に腕を回して顔を近づけてきている彼は、いつもふざけた言動ばかりで女性と見れば口説きまわる――そんな、自身の知っているセインという青年とは、似て非なる別人に見えた。

 淫靡とすら言えそうな微笑みに、息を呑む。
 匂い立つように濃密な性の気配に、眩暈がする。


「ねぇ、どうよ。
 俺のこと、抱いてみない……?」

 妖艶とすら形容できそうな笑みを浮かべ、セインは相棒の顔に唇を寄せていき――


「…………っ!!」

 ごすっ!
「痛って……!」
「ひ、人をからかうのも大概にしろ! 冗談が過ぎる!」
 そう憤るケントの顔は、傍目にも解るほどはっきりと紅潮していた。

「あいたた……本気で殴っただろお前……」
 拳を落とされた後頭部をさすりながらぼやく青年。
 その姿からは、先刻までの一種異様な雰囲気は消え失せ、普段と変わりない飄々とした態度に戻っていた。
 先程の彼は、見間違いだったのだろうか――ケントにしてみれば、そんな気にさえなってくる。

 だが。
 間近で嗅いだあの淫靡な気配は、未だに身体の芯に痺れのような感覚を残していた。
 あれは、紛れも無い現実――そう断じようとする感情を無理矢理抑え込み、ケントは相棒から顔を背けた。

「とにかく!
 悪い冗談をやっている暇があったら、さっさと溜まっている仕事を片付けろ!」
 柳眉を逆立てて一気にまくし立てると、ケントは足音も高く訓練場を出て行った。
「あ、待てよ! 昼飯食うって話だっただろ!」
 慌ててその後をセインが追う。
 それはいつもと何ら変わることの無い、平和でのどかな光景だった。


 相棒の背中を追いかけて訓練場の扉をくぐりながら、セインは誰にも聞こえない程度の声で小さく呟いた。

「――結構、本気だったんだけどなぁ」




誘惑失敗。



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