二人称の恋
「……あの、アイク」
「何だ」
「前々から、君に訊きたいことがあったんだけど――」
すっかり習慣になってしまった、試合が無い午後のティータイム。
先程から何やら考え込んでいたマルスが、真面目な顔でそう切り出したのは、アイクの飲んでいた二杯目の紅茶がちょうど空になった時であった。
カップを受け皿の上に戻し、アイクは対面に座る青年を濃藍の双眸で真っ直ぐ見つめる。
その揺るぎ無い視線を受け、一瞬たじろいだように見えたマルスだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「君さ……
いつまで僕のこと『あんた』って呼ぶつもりなんだい?」
「…………は?」
……一体、どんな深刻な話をされるのか。
相手の思い詰めたような表情に身構えていたアイクは、全く予想もしていなかった方向からの問いかけに、珍しくも呆気にとられた表情を浮かべていた。
「いや、ずっと思ってたんだけどね。
普通、恋人に対する二人称って『お前』なんじゃないかなぁ……って」
「恋人」の部分だけ何故か声量を落としながら、マルスはそんな風に言う。
この王子様が、妙なところで細かいことを気にする傾向があるのは承知していたが……まさか、そんなことで悩んでいたとは。
半分苦笑、半分呆れといった心境のアイクは、感情が出にくい己の鉄面皮に今は感謝しつつ、彼に答える言葉を探す。
「……俺は、そういう事には疎いからよく解らんが。
感情というのは、お互いの呼び方によって左右されるものなのか?」
「それは……」
返答に窮するマルス。それはあまりにも正論だった。
「呼び方は他人行儀かも知れない。
だが、だからと言って、あんたに対して距離を置いているわけじゃないぞ」
「……そう、だね。うん」
小さく同意の言葉を発すると、青年は俯いて蒼く輝く髪にその表情を隠した。
彼が感情的になっていて、それを自分が正論でもって諭す。
普段とは完全に立場が逆だな――とアイクは思った。
そもそも、マルスが私情に基づいて話をすることはあまり無い。彼はいつだって真面目で冷静で、理性的だった。
感情の赴くままに行動する自分を、的確な意見で彼が諭す――それがいつもの光景であり、彼らの間での「日常」だったはずなのに。
――不安なのだろうか、彼は。
アイクはふと、そんな風に思った。
気の利いた台詞の一つも言うことがなく、相手に何かを望むことも滅多にしない自分は、傍に居る青年から見れば、何を考えているのか非常に解りづらいだろう。アイク自身もそれは自覚している。
マルスに対して抱く気持ちは、他の誰に向けるものとも違っている――それは事実だ。
ただ、それを言葉にして相手に伝えるには、アイクはまだ、色恋に関してあまりにも未熟過ぎるのだ。
どう言えば、彼を安心させられるだろうか。
アイクは顔に出さず思案する。
※
彼の返答は、まるで模範解答のような正論だった。
ここで諦めておくべきだ、と理性は告げる。しかしいつもならそれに従うはずの口は、何故か思い通りにならず、勝手に言葉を重ねてしまう。
「……でも、ネスやリュカに対しては『お前』って呼んでいるよね?」
「それは、あいつらが俺よりだいぶ年下だからだ。
――あんたは一歳程度しか違わないとは言え、一応は俺より年上だ。だから『あんた』になる。……これで良いか?」
そう言われ、マルスは普段他のファイター達と接している時のアイクを思い返してみた。
――そう言えば、スネークやキャプテン・ファルコン、メタナイトに対しては「あんた」と呼んでいたような気がする。
逆にリュカやネス、ポケモントレーナー等に対しては「お前」だったような。
――ああ、ピーチ姫やゼルダ姫に対しても「あんた」だった気がするな。
つまり、彼の中では一応、二人称に関しての明確な基準があるわけだ。
年上、もしくは異性には、敬意を払う意味で「あんた」。年下や動物達に対しては親しみを込めて「お前」。
……もっとも、敬意を払っていても「あんた」止まりなのが、何ともアイクらしいと言えばらしかったが。
――彼に年上として扱われ、敬意を払われていることは素直に嬉しい。
けれど。
(やっぱりどこか……距離を感じちゃうなあ……)
この問いが、アイクを困惑させていることは解っていた。顔には出ていなくとも、雰囲気で解る。
思春期の少女でもあるまいし、何を意味不明なわがままを言っているのかと、自分でも情けなく思う。
このティータイムが始まった時から、訊こうか訊くまいか、ずっと悩んでいた。
アイクに他意が無いことなど一目瞭然で、答えは訊く前から解っているようなものだった。だから、これは自分一人の胸にしまっておくべきだと思っていたのに。
――気づけば、口を開いてしまっている自分が居た。
俯き加減で視線を伏せると、カップの中の紅茶が目に入る。
風の無い日、微かな波紋すら立たず凪いだ液面を羨ましく思いながら、マルスは小さく溜息をついた。
彼の「あんた」という呼び方が、かつてはとても好きだったはずなのに。
何故、今はこんなにも寂しくて――もどかしく聞こえるのだろう?
「――マルス」
「……!!
な、何だい?」
唐突に低い声で名を呼ばれ、マルスの心臓が勢いよく跳ねた。そのことを彼に知られたくなくて、急いで取り繕うように返事をする。
そんな彼をじっと見据え、アイクが口を開いた。
「……出来るだけ、名前を呼ぶようにする。
それで良いか?」
「――え」
「あん……、
マルスの悩む顔は、あまり見たくは無い」
いつもの癖で「あんた」と言いかけて、とっさに訂正した彼を見て。
――何だか、笑いがこみ上げてきた。
「……とりあえず、そこで笑う理由を教えてもらえるか」
くつくつと肩を揺らせ始めたマルスを、アイクが憮然とした表情で見やる。
「ふふ……ごめん」
「悩んでいたかと思えば笑い出したり、忙しい奴だな、あんたは」
そう言ってから、しまったという表情を浮かべるアイクに、マルスはもういいよと微笑みかけた。
「いいんだ。アイクの言う通りだよ。
僕は何を悩んでたんだろうね……呼び方なんて、大した問題じゃなかったのに」
ここに至り、マルスはようやく自覚した。
――おそらく、呼び方そのものに悩んでいたわけではなかったのだ、自分は。
彼と、恋仲になることは叶ったけれど。
だからと言って、友人だった頃と何が変わるわけでもなくて。
そんな状況に、自分は無意識に焦っていたのかも知れない。
世話を焼いたのは自分。
好きになったのも自分。
告白したのも自分。
彼にとっては――今も自分は『あんた』と呼ぶべき年上の友人のままなのではないか?
恋人と思っているのは……自分だけなのではないか?
そんな不安が、常に心の奥底にあって。
――彼と自分は、確かに恋人同士になれたのだと。
それを証す何かが、欲しかっただけなのかも知れない。
けれど。
そんな不安も、彼の言葉でたちどころに霧散してしまった。
いつでも己のペースを貫き、他人に対しておもねることをしないこの青年が、自分に対してはこんなにも気を遣ってくれているのだと、気づくことが出来たから。
「気遣ってくれて、ありがとう」
礼を述べると、彼は軽く肩をすくめて。
空になったカップをずいと差し出し、紅茶のお代わりを所望してきた。
攻王子は真面目で乙女でヘタレだと私得です。