youthful days


 放課後。
 窓から差し込む夕暮れの光が、赤く染め上げた教室の中に黒い2つの影を浮かび上がらせている。

「——どう、出来たかい?」
 前の席の椅子を後ろに向けて座っているマルスが、机に広げられたノートを覗き込む。
 ただでさえ独特な筆跡で書き殴られた数式は、逆さから見るとまるで暗号のよう。

 その暗号を書いた当人はと言えば、一応考えてはいるものの、既にその表情には諦めの気配が濃厚だった。
「……無理だな」
 持っていた鉛筆を放り出し、頭の後ろで手を組む。
「……相変わらず、勉強となるとやたら諦めが良くなるね、アイクは」
「人には向き不向きというものがある」
 真顔で答えるアイクに、マルスはやれやれとかぶりを振った。
「向き不向きと言うか、こればかりは授業中に居眠りばかりしていた誰かさんのせいじゃないのかな」
「……む」
 ぼそりと聞こえよがしに呟いた言葉は、しっかりとアイクの耳にも届いたらしい。
 濃い眉を寄せてしばし沈黙した後、諦めたように転がっていた鉛筆を手に取って机に向かう。事実を突かれただけに、返す言葉が無いというところか。

 普段のアイクは、堂々とした体躯に落ち着いた態度——愛想が無いだけとも言うが——も相まって、実年齢より大人びた印象を見る者に与える。
 しかし、親の仇でも見るような目で問題集を睨んでいるその姿は妙に子供っぽく……可笑しさと微笑ましさに、マルスは思わず笑ってしまった。
「……何が可笑しい」
 じろりと上目遣いに睨まれても、マルスの笑いは収まらない。
「ごめん、馬鹿にしているんじゃなくて。
 君が年下なんだなって、初めて実感できたものだから」
「……意味が解らん」
 怪訝そうに眉を寄せるアイクの表情に、遠くない過去の記憶が蘇る。


 ——初々しさのカケラも無い転入生だった。

 いつもの癖で世話を焼こうとしたものの、転入生らしい遠慮も戸惑いも彼には全く無かった。
 物怖じしないマイペースな言動で、まるで最初からこの学園に居たかのように皆に溶け込んでいる。
 むしろ、馴染めていなかったのは自分の方だったかも知れない、とマルスは思った。

 マルスは実際の歳で言えば、アイクより1つ上である。病気で1年近く休学しており、復学したのはアイクがやって来る少し前だった。
 そんな立場だったから、転入生であるアイクと親しくなったのは、極めて自然な成り行きだったのかも知れない。
 選んだ部活が同じ剣道部だったことも、それに拍車をかけた。


 けれど。
 マルスが彼と親しくするのは、そんな環境のせいばかりではなく——。


 がらり、と引き戸が開く音で、マルスは我に帰った。
「何だ。お前達、まだ残っていたのか」
「あ、メタナイト先生……」
 戸口の陰から、見慣れた仮面が現れる。剣道部の顧問であり、2人にとっては馴染みの深い教師・メタナイトだ。
「もう陽も落ちる。そろそろ切り上げてはどうだ」
「はい、すみません。もう帰ります」
「夜道は危険だ。気をつけて帰るのだぞ」
 まだ見回りの途中なのだろう。そう告げると、メタナイトは一頭身の身体を翻して悠然と去っていった。

 その姿を見送ったマルスが視線を戻すと、アイクはさっさと自分の荷物を片付けているところだった。心なしか、嬉しそうに見えなくもない。
「やっと解放されたって顔だね?」
「……そんな事は無いぞ」
 少し困ったような表情。どうやら図星らしい。
「でも、確かに遅い時間だし、ちょうど良かったかな」
「ああ。長く付き合わせたな」
 壁の時計を見上げていた藍色の双眸が、徐にマルスへと向いた。


「この後、予定はあるか?」
「……え」


 真っ直ぐ見つめてくる瞳に、何故だか心が落ち着かなくなる。

「と、特には無いけれど」
 動揺を悟られぬよう平静を装ったマルスの返事に、アイクは頷き返して鞄を肩に担いだ。
「手伝って貰った礼だ、奢る。付き合え」
「……え?」
「あの角の店だ」
 言いながら、窓の外に向けて顎をしゃくる。
 アイクが行きつけにしていると聞いたことがある、学園近くのハンバーガーショップの外観を、マルスは思い出していた。

 勉強を教えるくらい、別に大したことではないのだから奢ってもらうなど悪い。
 それに——

 マルスが返事を迷っていると、アイクが首を傾げて問うてきた。
「嫌いか?」
「そっ、そうじゃない! そういうことじゃなくて……!」
 大慌てで否定する彼に、長身の青年は言葉を続ける。
「食えないなら、行っても仕方が無いからな」
「あ……、そ、そういう意味か……」
「?」
 訝しげな顔をするアイクをよそに、マルスは脱力して溜息をつく。

 ——てっきり、『自分が嫌いか』と訊かれたのかと思った。
 会話の流れから判断すれば、普通に食べ物の好みの話だと解りそうなものなのに。
 一体何故そんな勘違いをしたのかが自分でも解らず、マルスは一人赤面した。

 ——どうも、この真っ直ぐな目に見据えられると、ペースを乱されてしまう。
 埒も無い思考を振り払い、彼は相手に向き直った。

「実は……行ったことが無いんだ。ああいう店には」
 照れと不安とが微妙に綯い交ぜになった表情で、マルスは俯き加減にそう告げる。
 この周辺ではちょっと知られた名家の御曹司である彼は、この学園に入るまでは世間一般と少し離れた生活を送っていた。
 同年代の子供達がやるような遊びもほとんど知らず、街を歩いたこともあまり無い。そんな暮らしだったから、当然ジャンクフードになど縁があるはずもなく……。
 常々行ってみたいとは思っていても、なかなか一人で入る勇気は出ず、また誰かに誘われる機会も無かった。

 皆が当たり前に利用している店。
 一度も行ったことが無いなどと聞いたら、さすがに引いてしまうのではないか?

「そうか。行ってみるか?」
 だが、そんなマルスの危惧をあっさりと裏切り、アイクは平然とそう訊いてきた。
 一瞬呆気に取られたが、すぐに首肯する。
「うん。君が良いなら……行ってみたいな」
「決まりだ」
 頷くと、先に立ってさっさと教室の出口へと向かう。
 その後を追いながら、マルスは拍子抜けな気持ちと、言い様の無い嬉しさとを同時に噛み締めていた。


 ******

「ふぅ……」
 窓際の席に腰を下ろし、マルスは軽く息をついた。
 テーブルに置いたトレイの上には、初めて食べるファストフード。
 代金は自分で払うと言ったのだが、勝手が解らないこともあって、気づいた時にはアイクに支払いを済ませられてしまっていた。

 ——思えば、出会った時からそうだった。
 転入生だからいろいろ教えてあげないと、と近づいたはずが、逆にこちらが何かと助けられていたような気がする。
 おそらくアイク自身には、面倒を見ているという自覚は無いのだろう——極めて自然に、そういう振る舞いが出来る性質なのだ、彼という人物は。

 ちょうど夕食時に差し掛かったこともあって、店は若者を中心に多くの客でごった返し始めていた。
 何だか自分だけが周囲から浮いているような気がして、マルスはしきりに辺りを見回す。
「……何をキョロキョロしているんだ」
 やや呆れたような低音に正面を向くと、トレイを持ったアイクが向かいの席につくところだった。
「あ……ごめん。初めて見るものだから、つい」
 余計に呆れられるかと思ったが、アイクはそうか、とあっさり頷き、自分の前に置いたトレイに手を伸ばす。
 その動きにつられて視線を動かし——マルスは思わず絶句した。

 彼が持ってきたトレイの上には、厚み10センチはあるハンバーガーが1、2、……5個。
 それに加え、Lサイズドリンクやフライドポテト諸々がトレイからはみ出さんばかりの勢いで積まれている。とてもじゃないが一人分の量には見えない。
「アイク……それ、全部食べるのかい……?」
「これでも少ない方なんだがな」
「そ、そうなんだ……」
 彼の健啖ぶりを知らないわけではなかったが、改めて見ると凄い量だ、とマルスは思った。
 何だか見ているだけで満腹になりそうだったので、とりあえず視線を外して自身の分に集中することにする。

「——うん、美味しい」
「なら良かった」
 ぽつりと零した感想にも、ちゃんと返事が返ってくる。
 大雑把なくせに、妙なところで律儀だ。

 再び視線を移すと、アイクは既に元あった分の半分程を片付けたところだった。見ている方が清々しさすら感じるペースだ。
 普段は鋭い印象を感じさせる彼だが、食べ物を前にするとどことなく嬉しそうな顔をする。
 笑顔になるわけではなく、いつも通りの無表情だけれど、何となく解るのだ。

 黙々と目の前の食事を片付けるその様が、無邪気な子供のように見えてきて、マルスは人知れず笑う。
「……何だ?」
 笑顔で自分を眺めているマルスに気づき、アイクが首を傾げる。
「いや、別に。
 何となく、可愛いなあって思って」
「……」
 その言葉を聞いた瞬間、アイクは驚いたように目を見張り——そして眉を顰める。
「……何だそれは」
「あ、褒めているんだよ? 馬鹿にしているわけじゃなくて」
「……それは、男に対する褒め言葉じゃないと思うんだが」
 憮然と困惑が半々といった表情で、がりがりと髪を掻き回すアイク。
「うーん、まあそうだけど。
 でもさっきの君の様子、何だかお菓子を前にした子供って感じで——
 うん、やっぱり可愛かったよ」
「……」
 あ、怒ったかな、とマルスは相手の顔色を窺う。
 しかし、唇を引き結んで視線を逸らしたその横顔は、怒りよりはどちらかというと照れているように見えた。

「『可愛い』などと言われて……喜ぶ男は居ないぞ」
 ぼそりと呟いたその顔が微かに赤いように見えたのは、店の照明の具合か、はたまたマルスの錯覚か。
 照れを誤魔化すかのように、不機嫌そうな表情で眉を寄せるアイクの方へ、マルスは自分の前にあったトレイを押しやる。
「はは、ごめん。これ食べるかい?」
 まだ8割方余っているポテトを示すと、アイクが怪訝そうに片眉を上げた。
「ほとんど食ってないじゃないか。いいのか?」
「うん、少し多かったから。手伝ってくれるとありがたいんだけど」
「もっと食った方が良いぞ。ただでさえ細いんだからな」
 そう言いつつ手を伸ばしてくるその顔がまた嬉しそうで、マルスは吹き出しそうになる。
 食べ物であっさり誤魔化されてしまうあたり、やっぱり可愛い——と思ったが、またぞろ機嫌を損ねるのが目に見えているその感想を、敢えて口に出すような真似はしなかった。


 ******

 ひとしきり食事と会話を楽しんだ後、2人は店を出た。
 既に陽は完全に沈み、夜の帳が街全体を覆っている。

「——ありがとう、アイク」
「気にするな。大した金額じゃないからな」
 アイクの言葉に、マルスは微笑みながら緩くかぶりを振る。

 ——そうじゃない。それだけじゃなくて。
 今回だけでなく、自分は彼にいつも貰っている。
 それこそ、勉強を教えたり、料理を分けてあげるくらいのちっぽけなことでは、お返しにもならない程……たくさんのモノを。


 彼の隣は、とても居心地がいい。

 年が上だということも、名家の出だということも。
 彼は、何も気にしない。
 常に対等な位置に居て、自分を見てくれる。
 日常においては親友であり、部活においては好敵手だと——そう言ってくれる。
 それが、とても嬉しい。


 ——ありがとう。
 先に立って歩き出す背中に向けて、マルスはもう一度、心の中で感謝の言葉を送った。




青春だねぇ。
某所に投稿したものを再掲しました。



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