Aはここにある


〜2 years before.〜


「次、俺の番? よっし……」

 陽気に声を上げ、青年は鈍色に光るコインを摘み上げた。盛りを過ぎた樹々の葉のような色をした、癖のある髪を無造作に掻き上げて、テーブルの中央に置かれたグラスと相対する。
 透明なカットグラスは、同じく無色透明の液体で満たされていた。縁ぎりぎりで今にも溢れ出しそうなその底には、何枚もの銀貨が折り重なるように沈んでいる。卓の周囲を囲む誰かがしわぶきひとつ漏らしただけで、一気に外へ零れ落ちそうなその様子に、一同の緊張した視線が集まる。

 テーブルに散らばっていた銀貨を、すらりと長い指が二枚まとめて摘み上げる。それを目にした周囲の面々から、半ば悲鳴ともとれる驚きの声が上がった。

「おい、まさかこの状態で二枚入れるってのか!?」
「無茶だろ、もう一枚だって危ないぞ?」
「セインお前、ゲームのルール解ってる?」
 周りの非難とも呆れともつかない言葉に、セインと呼ばれた青年は悪戯っぽい笑みで答えた。
「なーに、これっくらい余裕余裕。まぁ見てなさいって」

 くるくると表情を変える灰緑の瞳を、一転真摯な色に染め上げて、彼はコインを手にグラスを見据えた。右手に摘まんだ銀貨を、表面張力だけで保っている状態の液面へと近づける。強いアルコールの匂いが鼻を突いた。
 固唾を飲んで見守る仲間の前で、一枚目のコインを器用に水の膜の内部へと押し込む指先。
 するりと底へ落ち込み、間髪入れずに二枚目――ふうわりと重さの無い羽のような動きで、それは先ほど落ちた一枚目の上に重なる。


 一瞬、静寂。

 グラスの中身は、いまだテーブルの表面を濡らすことなくその縁に留まっていた。


 感嘆のどよめきが周囲を埋め尽くす中、セインは得意満面の表情で仲間たちを振り返る。
「ほら、言ったろ? まだまだ余裕だね」
 次の順番の者が青ざめるのをよそに、青年は余裕綽々といった風に足を組む。

 ――酒を満たしたグラスに、順番を決めてコインを沈めていく。コインは三枚までならば、一回の番でいくつ入れてもいい。これを繰り返し、最初に酒をグラスから溢れさせた者が負け。
 極めて単純な、酒の席の余興。しかしこれでいて、なかなか奥が深いのだ。
 コインを何枚投入すれば、対戦相手たちにプレッシャーを与えられるか。いかに上手く投入して、臨界点を引き伸ばすか。無茶をすれば自滅するし、だからと言って守りに入ってしまってもつまらない。心理的な駆け引きと、身体的な技術とが同時に要求されるこのゲームを、セインは殊のほか気に入っていた。

 参戦している仲間達が、冷や汗をかきつつああすればこうすればと思案しているのを見て目を細める。そんな彼の後頭部に、こつんと軽い衝撃が走った。
「あいて」
「何をしているかと思えば、お前は……」
 椅子に座った姿勢から首を仰け反らせて振り仰ぐと、いつの間にやって来たのか、咎めるニュアンスと呆れるそれとが混在した表情の青年が背後に立っている。

「やあ、これはこれはケント君」
「やあ、じゃない。呑むのはいいが程々にしろと言っただろうが」
 直線的なラインを描く柳眉を逆立て、ケントと呼ばれた明るい金茶の髪の青年は、半ば小言じみた言葉を口にした。端正な容貌はいかにも生真面目そうに引き締まり、椅子に座る青年とは極めて対照的な雰囲気を纏っている。

 しかし、この見た目も性格も見事なまでに際立った対照を成す二人が、実は訓練学校入学時以来の親友同士であり相棒だというのだから、世の中というのは解らない。


「いやー、ついゲームに熱中しちゃってさ。せっかくだしお前もやんない?」
 悪びれない笑顔で言うセインに、逆さに見えているケントの眉間の皺がさらに深くなる。
「……賭け事の類は好かない。知っているだろう」
「いや賭け事って、ケントさん。
 明日の馬小屋当番賭けるくらい、罪は無いだろ?」
 相棒の生真面目さは筋金入りだ。それが彼の個性であり魅力だと重々理解しつつも、せめてもう少し融通というものを覚えて欲しいセインである。
 しかしそんな彼の願いも空しく、ケントは琥珀の双眸を針のように細めて言い放った。
「そう言えば、明日の馬小屋の当番は貴様だったな。―さっさと部屋に戻って休め」
 げ、墓穴掘ったっ、と思わず頭を抱えるセインだったが、もはや後の祭りである。しかも、彼に対する二人称が「お前」から「貴様」になっているあたり、ケントの機嫌が急下降しつつあることが窺えたりもするわけで。

 ……視線の温度が氷点下になる前に、大人しく従っておいた方が良さそうだ。
 セインは長年の経験から、そろそろ潮時だと判断した。

「はぁ、じゃあまぁ、そろそろ引き上げますかねー」
 無駄と知りつつも愛想笑いなぞ浮かべつつ、セインは座っていた椅子から立ち上がる。仲間達からの「勝ち逃げ」との非難はとりあえず背中で黙殺し、律儀に待っていた相棒を促してその場を後にした。

 ――アルコールを大の苦手としているくせに、鬼門であるはずの酒場にわざわざ出向いて来た親友を、一人で帰らせることなどできようはずもなかったから。

 そっと横目で窺った端正な目元は、漂う酒の香りに当てられたのか、微かに紅く色づいていた。



幕間 〜In the present .〜


 ――そう、あれはまだ自分達がキアランにいた頃の話。

 現在、主と仰ぐ少女の存在すら知らなかった頃。主に仕え、日々の任務をこなし、友人達との無駄話に興じ……。
 そして、様々な女性との駆け引きを楽しんでいた。

 ――決して本気にならない、「カタチだけ」の恋愛を。


 女の子は大好きだけど、恋ってのは嫌い。
 だって、本気になってしまうから。本気になったら、悩まずにはいられないから。悩んでいたら、毎日を楽しく生きられないから。
 人生悩まず、塞がず、面白おかしくが俺のモットー。
 悩むのも人生の醍醐味のひとつではあるけれど、周りが見えなくなるほどハマってちゃつまらないってモンでしょ?


 ――だけど。

 それでも、人生一度くらいは……悩んで悩んで悩み抜いて。
 そんな風にしてみてもいいかなって、思う瞬間がある。
 それだけの手間と労力をかけてみても、惜しくないかなって思えることがある。


 ――本気になってもいいかな、って。
 思える相手が、いる。


 グラスに放り込んだ銀貨が、また一枚……底に沈んだ。





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