〜Time has come…〜
戦の最中であっても、宵闇がもたらす静寂は不変だと知れるような夜だった。
部屋には灯のひとつも無く、光源と言えば空から降る夜天光のみ。極上のベルベットに似た闇が視界を遮り、静寂は聴覚を閉ざす。
ひとつ、またひとつと投げ入れたコインによって、グラスの水面は今にも零れ落ちそうに盛り上がっていた。上手くやっても、あと二、三枚が限界といったところだろう。
指の間に銀貨を挟み、セインは見るでもなくグラスの縁を眺めていた。
その時、不意に聞こえるノックの音。
決して大きくは無い音だったが、静まり返った部屋にはそれすらも妙に大きく響く。
返事をしないでいると、しばしの間の後、再び三回ほど扉が叩かれた。コツコツと、周囲を慮るかのように控えめな叩き方。
その規則正しいリズムの取り方だけで、扉の向こうに居るのが誰であるのか見当がつく―少なくともセインには、その答えがはっきりと解っていた。
いらえの返らぬ扉に、それきりノックの音は止んだ。
諦めたかと見えた時、ゆっくりと、躊躇うかのような動きでドアが押し開けられる。
その隙間から廊下の灯りとともに入ってきたのは、金茶の髪に琥珀の双眸の青年。
どこか遠慮がちな色を湛えていた表情が、奥のテーブルで頬杖をつく部屋の主を認めた途端に呆れ顔へと変わる。
「……居るのなら、返事くらいしたらどうだ」
小言めいた台詞を口にしながら、青年―ケントは扉を開けたまま、入口脇の小机へと歩み寄った。そこに置かれていたランタンに、片手だけで器用に灯を入れて光源を確保してから、扉を閉める。
灯りを右手に、ケントがテーブルの傍らに立つ。そこで初めて、セインは彼の方へ視線を巡らせた。
「……やあ、ケント君」
「やあ、じゃない。灯りもつけないで何をしている」
くっきりと形の良い柳眉を寄せてケントが言う。口元に笑みを浮かべてその顔を見上げたセインは、友人が左手に提げている物に気づいて軽く目を見張った。
「お前、それ――」
ケントが手にしていたのは、明らかに酒の類と見える小振りの瓶だった。生真面目を絵に描いたようなこの青年が携えてくるには、おおよそ相応しくないものだ。
相棒の疑問符に微かに片眉を上げると、ケントは提げていた瓶をとん、とテーブルの上に置いた。それを見て、セインの脳裏にひとつの記憶がよみがえる。
「へぇ……ホントに持ってきてくれたんだ……」
呟くと、向かいの椅子に腰掛けたケントがそれを聞きとがめて眉間に縦皺を刻む。
「何だ、その言い草は。一杯奢れと言ったのは他ならぬ貴様だろうに」
「いやいや……変な意味じゃないから。サンキュ、さっすが我が相棒!」
冗談めかした中に本音を込めて礼を言うと、ケントはふいと顔を背けた。気分を害しているように見えて、実際は照れているのかも知れない。セインは面白そうに笑いながら、そっと横目で友人の横顔を窺ってみた。
初恋は成就しないもの……誰が言ったか、そんなジンクスをふと思い出す。
――目の前の友人の様子を見る限り、成就し得なかった想いに傷ついているような素振りは見えない。
おそらく人一倍責任感の強い彼のこと、戦の最中に私事で心を乱してはいられないと、自分なりに気持ちの整理をつけたのだろう。はっきりと形になる前に、相手に告げられぬままに夢と消えた淡い恋心を、自らの意思で過去の中へと押し込めて。
透徹した琥珀の眼差しに、迷いや憂いは見当たらない。
だからこそ、セインは訊ねずにはいられなかった。
「――良かったのか、伝えなくて?」
ぽつりと独り言のように呟いた問いに、ケントの肩がぴくりと震えた。
「お前の勘違いかも知れない。あのお二方は、お前の思ってるような関係じゃないかも知れないんだ。
当たって砕ける前に終わらせちゃっても……本当に後悔しない?」
「いいんだ」
セインの言葉を遮るように、ケントが短く告げる。
「私は、キアランの侯爵家に忠誠を誓った身。
あの方を主と仰ぎ、あの方のために剣を捧げる――それだけだ」
それ以上に望むことなど、他には無いのだ……と。
曇り無き琥珀の双眸に静かな光を湛えて、彼はそう言った。
「今になって、そう気づいた」
その面に虚勢や見栄など無く、ただ心からの言葉と解る。
「そ、っか」
――やっぱり、こいつは強い。
相棒の言葉に頷きながら、セインは彼に尊敬と憧憬の念とを同時に覚えた。
全てを在るがままに受け止めてなお、前を見つめ続ける強さ。
その強靭な精神こそが、彼を美しく在らしめる最大の礎なのだ。
「ごめん」
「謝ることは無い」
呟くように詫びたセインに、ケントが素っ気無く、しかし穏やかに言葉を返す。
そうじゃないんだ。
謝りたいのは、そのことじゃなくて。
セインは思わず告げそうになった言葉を、辛うじて心の中に留め置いた。
既に開き直っているとはいえ、鈍い胸の痛みが無くなる訳ではない。騙し討ちも同然に、彼を試したことに対する罪の意識。
――今はまだ、懺悔することは出来ないけれど。
テーブルについた肘を動かすと、その拍子に傍らに散らばっていたコインが触れ合い微かに鳴った。その音に誘われ、ケントの視線がそちらへ向く。
「……飽きないな、お前も」
肩をすくめ、テーブルの上を一瞥する。琥珀の双眸が、卓上のグラスと散らばる銀貨との間を往復した。
「まぁね。せっかくだし、お前もやんない?」
何気なく誘ってから、以前にも同じ台詞を同じ相手に告げたことがあったと気づく。あの時は確か、賭け事の類は好かぬと、あっさり一蹴されたのだったか。
だが彼の予想を裏切り、しばし躊躇った後にケントは手を伸ばしてきた。てっきり、またすげない返事が返ってくるものと思っていたセインは、意外な心境でその動作を見守る。
銀貨を慎重に摘む、剣を握り慣れた指。
どことなく遠慮がちな動作で、ケントがコインをグラスの中へゆっくりと落とし込む。
既に限界に達していた表面張力は、その振動でついに破れた。絶妙のバランスを保っていた液面が決壊し、溢れ出した雫が次々と滑らかな玻璃を伝い落ちていく。
――あぁ、崩れたな。
セインは他人事のように思う。
自身がこの余興にこだわっていた理由を、セインはこの時理解した。
このグラスは、自分の心そのものだ。
繰り返しコインを投入され、何度も溢れ出しそうになりながら、限界ギリギリで保つバランス――いつかは決壊すると知りながら、それでもその時を引き延ばし続けるジレンマ。
零れそうで零れない液体を湛えたグラスは、まさに自分の心をこれ以上無いほど意匠化したオブジェだった。ゲームに興じながら、その透明なクリスタルの向こうに自身の深層心理を透かし見ていたのだ。
そして――均衡は崩された。
他ならぬ、かの青年が落とした一枚の銀貨によって。
ふたつの賭けと、動き出した想いの結末。
もしかしなくても、ここが正念場、ってヤツ?
言うなれば、一世一代の大舞台ってところか。
年貢の納め時……とも、言うかも知れないけど。
ゲームは終局、詰めの一手。
水入り寸前、狙うは逆転。ラストカードは百発百中、ハートのエースを引き当ててご覧に入れましょう。
賭けに勝っちゃったのが、運のツキ。
なあ、言ってもいいかな。
(――約束だから、貰っちゃうよ?)
零れ落ちる水の帯から、正面に在る見慣れた顔へと視線を移した。
彼もこちらを見ている。
いつも傍に在った、愛しいほどに真っ直ぐな――その眼差し。
いつもより少しだけ素直に微笑み、セインは目の前の友人に向かって、ごく自然な動作で口を開いた。