運命よりも残酷な
気づいてしまったことが罪なのか。
それとも、出逢ったこと自体が罪なのか。
今となっては解らない。
ただ、ひとつだけ確かなこと。
――この感情を明らかにする日は、きっと永遠に訪れない。
◇
最近、友人の様子がおかしい。
それは単なる直感に過ぎなかったが、戦場で培った勘、そして傭兵団の長として団員を見てきた経験から、おそらく外れてはいないだろうという自負がアイクにはあった。
ただ、人の感情の機微というものにはまだまだ疎い為、友人の様子が何故おかしいのか、その理由までは察知できないのだった。
おかしいと思った根拠は、いくつかある。
まず、ぼんやりしていることが増えた。
彼は常に周囲に気を配る細やかな性格で、頭の回転も速い。乱闘でも普段の会話でも、打てば響くようにレスポンスが返ってくるのが常だった。
しかし近頃、彼に声をかけてから反応があるまでの時間が確実に延びている。酷い時には、名前を数回呼ばなければ気づかないことすらあった。
その二。あまり笑わなくなった。
彼の柔和な笑顔は、誰からも認められる大きな魅力だった。
それが、最近では何だか難しい表情をしていることが増え、笑えば笑ったでどこか空々しいというか、無理をして笑顔を作っているように見えるのだ。
その三――これが一番の根拠だ。
自分と話す時、目を逸らすことが多くなった。
……そう、今だって。
「――と、いう布陣でどうだ?」
明日のチーム戦の打ち合わせ中、考えてきた立ち回りを一通り説明し、アイクは対面に座る相手を真っ直ぐに見据える。
視線を向けられた青年は、一瞬正面からそれを受けたものの、数秒もしないうちに目を逸らしてしまった。
――まただ。
アイクは内心で溜息をつく。
自分が何かこの青年の気に障ることをしたのだろうかと考えてもみたが、思い当たる節は全く無い。
もっとも、自身の何が他者の機嫌を損ねたかなどということは、応々にして原因となった当人には解らないものだ。
だからこそ、アイクは疑問に思った時には相手に直接尋ねるようにしていた。
この件についても、何度か友人に直接訊いたことがある。結果は、全てにおいて「そんなことは無い」の一点張りだった。
「うん、僕もそれで良いと思うよ」
さすがにあからさま過ぎたと自分でも思ったのか、取り繕うように笑顔を向けてくるマルス。
だが、その視線はやはり微妙に焦点がずらされており、こちらの目では無く首元あたりを見ていることに、アイクは気づいていた。
――他の相手ならいざ知らず、この友人の「そんなことは無い」を真に受ける気にはなれなかった。
心優しく他人を気遣う性格のマルスは、その優しさ故に自身の本音や欲求といったものを押し殺してしまう部分がある。
さらに、意志の強さが裏目に出て、例えそれが自身の負担になっていようとも、誰にも言わず限界まで耐えてしまうのだ。
そんな彼だから、今回も本音を言わずに誤魔化そうとしている可能性は十分にある。
アイクはテーブルに置かれたカップを取り上げ、注がれた紅茶をぐいと傾ける。
再度、向かいに座った友人を見ると、ぼんやりと景色を眺める横顔が目に入った。
「――マルス」
「……」
「…………マルス!」
相当に語気を強めた二回目の呼びかけで、ようやく彼が反応した。
「え、あ……ごめん。何?」
誰がどう聞いても上の空、といった返事に、アイクは今度こそはっきりと溜息をつき、蒼髪をがりがりと掻き回した。
「……一体どうしたって言うんだ、あんた。
言いたい事があるのなら、はっきり言ってくれ。鈍いという自覚はあるからな」
「――いや、ごめん。
ちょっと……最近、頭がぼうっとしてて」
寝不足かな?と曖昧に笑う綺麗な顔に、アイクは違和感を感じずにはいられなかった。
「――原因は、俺か?」
直感で、思ったままを口にする。
「…………え?」
二拍ほどの間を置き、マルスが群青の双眸を見開く。
思っても無いことを言われたからなのか、あるいは図星を指されたからなのか――その表情からはどちらとも判じられなかった。
「さっき、俺が『言いたい事があるなら言え』と言った時……あんたははっきり否定しなかった。
いつものあんたなら、間違っていれば『ごめん』の一言で済ませたりはしないんじゃないか?」
「……!」
マルスは一瞬愕然とした表情を浮かべたが、すぐにそれを隠すかのように俯く。
それは明らかに、核心を突かれた者の態度だった。
「……やっぱり、俺が何かしたんじゃないのか?
何回か訊いて、あんたは否定したが……俺にはそうとしか思えない」
俯いたままの青年から、そんなことは無いよ、と返事が返ってくる。
だが、その声はぎりぎり聞き取れるかどうかというくらいに酷くか細く、アイクを納得させるに足る力は無かった。
さらに問いを重ねようと口を開いた時、マルスが突然立ち上がった。
「――ごめん、この後試合が入っているから。もう行くね」
「おい、マルス……」
呼び止める声を振り切るかのように、青年は早足でその場を去ってしまう。
その後ろ姿が建物の陰に消えるのを見送って、アイクは溜息を吐きながらテーブルの上へと視線を戻した。
手すらつけられず、すっかり冷めてしまった紅茶が、カップの中で空しく揺れていた。
◆
――君は、知らないだろうね。
君が僕に視線を向けた……たったそれだけのことが、僕にどれほどの幸福をもたらすかなんて。
締め切られたスタジアムは、試合時の賑わいが嘘のように閑散としている。
空っぽの観客席に独り腰を下ろし、マルスはぼんやりと虚ろな視線を宙空に彷徨わせていた。
試合で使われていない時のステージは、トレーニング目的の者が来ない限り、全くの無人となる。一人になりたい時の穴場として、マルスはよくここを利用していた。
今も、友人には悪いと思いつつも、彼から逃れる為にひっそりとここへやってきたのだ。
――彼が何かと追求してくるのも、こちらを気遣ってのことだと解っている。
あの青年はあの青年なりに、自分の様子がおかしいことを心配してくれているのだろう。
それでも。
他の誰に話したとしても……彼にだけは絶対に言えないのだ。
言えるわけが無い。
――彼のことを、友人として以上の目で見ている、だなんて。
この想いを自覚したのは、いつからだっただろう。
元々、似た所の多い同士、他の仲間たちに比べてより親しみを感じていたのは事実だ。
剣を操る者として、軍を率いた将として、戦乱の世を駆け抜けた英雄として。
そしてそれだけの共通点がありながら、彼らはまた、真逆の存在でもあった。
王族と平民、柔と剛の剣質、そして性格――目に見える部分は正反対。
だが、もっと本質的な部分で、彼らはよく似ていた。
そんな不思議な存在に対して、マルスがどこか惹かれるものを感じたのは……至って自然な流れだったのだろう。
友として、共に時間を過ごし、多くを語り合った。
剣のこと、故郷のこと、家族のこと。
そうして彼を知っていって、仲間の中で誰よりも近い「親友」という関係を完成させた時。
――彼に、酷く惹かれている自分に気づいた。
友人としてだけではなく――もっと強く、彼を求めるその感情に。
その感情の名を、自分は知っている。
それはかつて、自身のオリジナルである『元型』が、他の人物――将来を誓い合った女性に対して抱いていたもの。
彼女への想いは、『元型』のコピーである自身にもそのまま引き継がれている。
けれど、自分は現実世界の『マルス』本人ではない。自身のそれが叶う日は永遠に来ないことも解っていた。だから、封じて全てを忘れた。
一度は、行き場を亡くしたと思った感情。
だが、彼と出会ったことで――それは再びこの心に根付いたのだ。
友情よりもさらに深く、相手を求める想い。
――人はそれを「恋」と呼ぶ。
アイクに恋したと自覚した、その時から。
彼の目を正面から見られなくなった。
――その真っ直ぐで強い瞳に、心の奥を全て見透かされそうで。
それに……まだ、確信が持てないのだ。
もしかしたら、許嫁たる少女を失った寂しさから、彼への好意を恋だと錯覚しているだけかも知れない。
自分はただ、彼を失った許嫁の代わりにしているだけではないのか――そんな後ろめたさと逡巡とが混じり合い、ますますかの青年の瞳から逃げ出してしまうのだ。
今の自身が酷く挙動不審であることは、自分でも痛いほどよく解っている。
想いを隠さねばと必死になるほどに、彼と目を合わせられなくなり……そして、彼はそれに気づく。悪循環だ。
「……駄目だな、こんなことじゃ」
伏せていた顔を上げ、マルスはぽつりと呟く。
自分を叱咤するため口にした言葉だった。返事など求めていなかったし、そもそも返す者などここには存在しない。
――その、はずだった。
「――全くだな」
背後から突然応えを返され、マルスは跳ね上げるように上体を起こす。
反射的に振り返った彼の目に、いま一番会いたいけれど会いたくなかった人物の姿が映った――しかも、想像以上の至近距離に。
「…………!」
名を呼ぼうとしたが、声が出ない。
まるで酸素不足のサカナみたいに、ぱくぱくと口を開閉させるだけのマルスを、彼の座る座席の列のすぐ後ろに立った青年が見下ろす。
「……こんな距離まで近づかれても、気配に気づけないとはな。
やっぱりあんた、相当重症だぞ」
いつものあんたなら、俺がここへ入ってきた時点でそれを察知したはずだ。
淡々と告げられた言葉に、マルスは反論の余地も無い。
そもそも、反論しようにも言葉が出せない状態なのだが。
驚愕と混乱で固まっているマルスを余所に、現れた青年は目の前の座席の背もたれに手を掛けると、ひらりとそれを飛び越えた。
そして、友人の座る椅子から間をひとつ空けた席に腰を下ろす。
「アイク……どうして、ここに」
ようやく絞り出した問いかけに、青年は肩をすくめた。
「……あんた、よく一人でここに来ていただろう。
夕食後、すぐに姿が見えなくなったから、もしかしたらと思って来てみたんだが」
その返事に、マルスは驚きで再び言葉を失う。
――何故、そのことを?
秘密にしていると思っていたことが知られていた気恥ずかしさと、それに気づくほどに相手が自分を気にかけていてくれたことへの嬉しさが、胸の内で複雑に混じり合った。
「……どうして」
「ん?」
「何故……そうまでして僕に構おうとするんだ?
僕が何か悩んでいたとしても……別に、君に支障があるわけじゃないのに」
マルスの問いに、アイクは真面目な表情でかぶりを振った。
「支障なら、ある。
あんたがそんな状態じゃ、まともに手合わせも出来やしないからな」
そこで一旦言葉を切り、それに、と続ける。
「……自分が原因かも知れないものを、放っておくわけにもいかないしな」
「だから、それは違うって何回も言ったじゃないか」
「ああ、何回も聞いた。
だがあんたの態度を見ていたら、どうしても違うとは思えないからな。事情を聞くまでは、俺は納得出来ない」
はっきりと言い放つと、アイクは鋭い視線を幾分柔らかくして、友人たる青年の顔を覗き込む。
「……いい加減、話してみる気は無いか?
一体、あんたが何をそんなに悩んでいるのか」
口調や態度こそいつも通りぶっきらぼうだが、その澄んだ蒼の双眸には、相手を気遣う優しさが滲んでいた。
この優しさが、ただ自分に対してのみ向けられるものであったならどんなに嬉しいことだろう、とマルスは思う。
けれど、知っている。
アイクという青年は、敵対する者には容赦しないが、そうでない者には基本的に分け隔て無く優しい。
今、目の前で悩んでいるのが自分でない誰かだったとしても、程度の差こそあれ、彼はやはり同じように手を差し伸べただろう。
その平等なる慈悲こそ、彼の器の大きさの証明でもあり、それが周囲の者達を惹きつけてやまない魅力だということは解っている。
だが、彼に想いを寄せる者にしてみれば、それは何と残酷な仕打ちだろうか。
どれほどに焦がれても――当の彼は誰にも特別な感情を向けないのだから。
「……意外とお節介なんだね、君は」
そんな風に話題をそらせたところで、時間稼ぎにしかならないと解っているのに。
マルスは自嘲的な笑みを口元に刷いた。
「……」
やや逡巡する気配を見せた後、アイクが口を開く。
「……相手があんたじゃなかったら、ここまでしつこく干渉はしなかっただろうな」
「……え?」
思わず振り返ったマルスの瞳を、真っ直ぐに向けられた濃藍の双眸が射抜いた。
「此処に来た時から、あんたにはずっと世話になってきた。
だから、あんたが困っていて、俺に出来ることがあるなら――力になりたい」
素っ気ないながらも、その言葉は相手を気遣う真摯な友情に溢れていた。
それ故に――今のマルスには、慈悲深き刃となって突き刺さる。
「……どうして」
どうして、今、それを言うんだい――。
マルスは震えそうになる肩を必死に抑え、髪に表情を隠すように俯く。
彼がある程度、自分のことを特別に見てくれている……その事実は純粋に嬉しい。
けれど、それはあくまで「友人として」の話で。
あちらは「友情」、こちらは「恋情」。
同じように好意を向け合いながら、あまりにも大きすぎる両者の差。近いようで限りなく遠い、残酷なるその距離。
こちらの気持ちを知らないのだから当然とは言え、このタイミングでそんな風にあっさりと言ってのける彼を、マルスは恨めしく思った。
――期待、してしまう。
心をよぎった淡い期待を握り潰すかのように、マルスはぎゅっと拳を固める。
このまま曖昧にかわし続けることを、おそらく彼は許してはくれないだろう。
あるいは、手酷い言葉で突き放してしまえば、逃れることが出来るだろうか。
いっそ嫌われれば……もう追求されることもないし、この感情にも諦めがつくはずだ。
彼に疎まれるのは、きっと身を裂かれるほどに辛いだろう。
それでも、自身の道ならぬ恋に彼を巻き込むくらいならば、自分が傷つく方が何倍もましだとマルスは思った。
覚悟を決め、大きく息を吐く。
「君には――アイクには、関係の無いことだよ」
顔を背けたまま、努めて素っ気なく告げた。
「嘘を吐くな」
「嘘じゃない」
「――なら、俺の目を正面から見て、嘘じゃないと言えるか?」
「……!」
その言葉に、マルスは息を呑む。
――やはり、アイクは気づいていたのだ。
自分が彼と目を合わせるのを避けていることに。
「……」
「どうなんだ?」
「……」
「――おい、マルス」
ずっと黙っている青年に焦れたのか、アイクは右手でその肩を掴もうとする。
「――っ!」
パシッ!
静まり返ったスタジアムに、乾いた音が響く。
こちらに伸ばされてきた友人の手を、マルスは反射的に払いのけていた。
「……!」
「あ……」
無意識に出てしまったその動作に、他ならぬマルス本人も驚く。
慌てて相手の方を見ると、同様に驚いた表情を浮かべてこちらを見ていた。その姿に、胸が嫌な軋みをあげる。
――そんなつもりは無かったのに。
後悔と申し訳なさが胸に渦巻く。
しかし、震える唇から発せられたのは、心とはまるで裏腹な言葉だった。
「――余計な詮索は無用だよ」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
驚きと戸惑いを浮かべてこちらを見る青年に、マルスは冷ややかとさえ言えそうな視線を向け言い放つ。
「言わないと解らないみたいだから、はっきり言うよ。
僕に対して、君が出来ることは何も無い」
「……」
明確な拒絶の意志。
まるで鉄の壁のように堅く冷たいそれに触れ、アイクは黙り込んでしまう。
「……君はそうやって、軽々しく他人に手を差し伸べるけれど」
皮肉げな口調で、青年はあざ笑うように唇を吊り上げる。
「思い上がらない方が良い。
――君一人の力だけで、全ての者を救う事なんて土台無理なんだよ」
「……何だと?」
それを聞いたアイクの蒼瞳に、一瞬剣呑な色が閃く。
良かれと思って差し伸べた手を払われ、逆に非難めいた言葉を投げつけられれば、さすがにこの青年であっても気を悪くせずにはいられまい――あえて気分を害する言い方を選んだマルスの目論見は、効を奏したと言えそうだった。
その証拠に。
ほら、こんなにも胸が痛い。
「――もう、僕に構わないでくれ。
根拠の無い事を繰り返し追求されるのは、いい加減うんざりなんだ」
最後の仕上げとばかりに、明確な拒絶を込めた言葉を叩きつける。
皮肉にも、それは嘘でありながら、ある意味では彼の本心でもあった。
その言葉を受け、アイクは濃い眉を寄せてじっと相手を見据える。
群青と濃藍――二対の双眸が久々に正面から絡み合った。
ほんの最近まで笑い合っていたはずの二人が、マルスには酷く懐かしく思えた。
そして、刹那とも永遠とも思える沈黙が過ぎ。
「――解った」
ふうっと大きく息を吐き出し、アイクが低く呟いた。
醒めた表情で見つめるマルスの前で、青年は無言のまま立ち上がり、マントを翻して背を向けた。
そして――ほんの一瞬、肩越しに視線を投げる。
「……悪かったな」
――何故、彼が謝るのだろう?
本来謝らねばならないのは、自分の方なのに。
うっかり口から飛び出しかけたその言葉を、マルスはぐっと飲み込む。
このまま彼を去らせなければ、心が裂かれるような痛みに耐えてまで拒絶を装った意味が無くなってしまう。
ひたすら沈黙を守りながら、最後までこちらを気遣ってくれた彼にマルスは心で何度も詫びた。
緋色のマントを翻し、アイクが離れていく。
――彼の視界から、自分の姿が外れるまで。
ちゃんと、冷たい仮面を崩さぬままでいられただろうか?
外へ続く扉に彼の背中が消え、次第にその気配が遠のいていく。
やがてそれが完全に途切れ、自分以外がステージ内に存在しないことを確信した瞬間。
糸の切れた人形のようにがっくりと背を折り、マルスは膝の上に顔を伏せた。
――これで、良かったんだ。
ぐっと、固く唇を引き結ぶ。
そうでもしなければ――痛む心のままに叫び出してしまいそうで。
静まりかえったスタジアムの中で、たった一人。
マルスは長いこと、同じ姿勢のままその場を動かなかった。