その夜。

 静寂に包まれた宿舎の一郭、マルスは寝台の中で幾度も寝返りを打っていた。
 早々に床に就いたものの、一向に眠気は訪れない。
 余計なことを考えないよう……一刻も早く眠ってしまいたいのに。

 こうして目を閉じるたび、瞼の裏に蘇るのは――遠ざかっていく、緋色のマントを靡かせた背中。

 後悔などしていない。
 想いを告げなかったことも、彼を突き放したことも。
 だから――寂しいと思う資格など、自分に有りはしないのに。

 何十回目かの寝返りを打ったマルスは、まんじりともせずに天井を睨んでいたが、やがて大きく息を吐いて上半身を起こした。
 寝台から抜け出し、椅子の背に掛けてあった上着とマントを身にまとう。
 そして細く開けた扉から、猫さながらにしなやかな動作でするりと外へ滑り出た。

 行く当てがあるわけではない。
 ただ、この部屋に居たくなかっただけ。

 宵闇の隙間に紛れ、青年は足音ひとつ立てることなく廊下を進んでいった。



 ――どれくらい歩いただろうか。
 宿舎を出た後、特に目的も無くさまよううちに、気づけば随分と離れた場所まで来ていた。
 周囲を見渡せば、僅かながら記憶にある景色――確か、居住区の端に造られた庭園のような場所。
 月明かりを受けた白亜の石畳が、青みがかった幻想的な光を放ち、佇む青年の姿を闇から浮かび上がらせる。

 庭園を囲む柵にもたれ、マルスはぼんやりと遠い景色を眺めた。
 眼下に広がっているはずのパノラマは、今は夜の帳に隠されていて見えない。

 ――この世界の全てが、作り物だと言うのなら。
 彼を好きだというこの感情も、仕組まれたものなのだろうか。

 普通なら同性に恋愛感情を抱くはずなど無いから、多分そうなのだろうとマルスは結論づけた――半ば無理矢理に。
 しかし例えそう思い込んだところで、心に根付いた想いは消えない。
 突き放すことで蓋をしたはずだったのに……彼の姿を見るたび、何度膨れ上がり溢れそうになったことだろう。

 心の迷いは、剣にも如実に現れた。
 誰かから指摘されるのが怖くて、次第に乱闘自体を控えるようになった。
 闘うために生み出された人形でありながら、舞台に上がろうとしない矛盾。……何て、皮肉な。


 ――いっそ、この世界から消えてしまえば。
 叶わぬ想いに胸を焦がすことも無くなるだろうか。


 見上げた月は、霞がかかったようにぼやけていた。
 雨になるのかも知れないな、とマルスは思う。
 薄い紗のヴェールを通して見ているようなその月は、今ここに在る全て――他ならぬ青年自身ですら、果たして現実なのか幻想なのかわからなくさせる。
 夜の狭間。ふわり、浮かぶ造り物の光。虚実の境界が希薄になってゆく感覚。


 だから。
 不意に目の前に現れた存在も、きっと幻なのだと思った。


「……どうした、こんな夜中に」
 その、抑揚に乏しい低音を聞いて。
 初めて、その存在が自分にとっての現実なのだと知る。

 ――アイク。
 声にならぬままにその名を呼んでも、佇む姿がかき消えることは無かった。
 緩い勾配の道をゆっくりと歩いてきた彼は、マルスから二メートルほどの距離をおいて立ち止まる。マントと防具こそ着けていないものの、いつもの蒼い上衣姿。見間違えるはずなど無い。

 何故。どうして。
 激しくかき乱される感情とは裏腹に、理性は冷たく澄み渡り、ひどく冷静な言葉を紡ぎ出す。
「――逆に訊きたいな。
 どうしてこんな時間に、こんな所へ?」
「……たまたま、あんたが外へ出ていくのを見かけたんで、追いかけた」
「何故?」
「あんたに用があったからだ」
 簡潔な言葉のやり取り。
 迂遠な言い回しを好まぬ彼は、いつも必要最小限の言葉しか口にしない。
 それが他者を魅了し、また悩ませてもいるのだと、果たして彼自身は気づいているのか否か。

「……僕に、用?」
 問いながら、じり、と無意識に後ずさる。
 相手との間には、まだ軽く数メートルの距離があるというのに。
「余計な詮索はしないでくれと、そう言ったはずだよ」
 彼が目的を述べるより先に、牽制の意味を込めてそう告げる。
 果たして、相対する青年の面に、微かに苦み走った色が浮かんだ。どこか自己嫌悪にも似た、複雑な表情。
「……確かに聞いた。
 だから、もう干渉はしないつもりだった」
 だが、とアイクは逡巡するように口を噤む。
 どう言えば相手に伝えられるのか、自身の中で適切な言葉を探しているようだった。

「……今日、試合を見ていた。
 あんたの剣捌きは、以前に比べて明らかに鈍っている。
 ――気づいているんだろう? 自分でも」
「……!」
 マルスは息を呑む。
 やはり、隠せなかった――優れた技量を持つ剣士である彼には。
 絶句した青年を真っ直ぐに見据え、アイクは濃紺の双眸に厳しい光を宿す。
「あんたとの手合わせは、張り合いがあって楽しい。
 だからこそ、あんな腑抜けた戦い方はして欲しくない」
「なっ……!」
 辛辣な言葉に、思わずキッと相手を睨む。
 ――けれど、解っていた。
 自分を発奮させるため、彼がわざとそういう言い回しを用いたことを。

 数秒ほどの睨み合いの後。
 ふ、と目元を和らげ、アイクが口を開いた。
「……それに、だ。
 あんたの事を気にしているのは、何も俺だけじゃない」

「ネス達が言っていた。
 最近、あんたがほとんど笑っていなくて心配だ、と」
「あの子達が……そんな事を……?」
 予想もしていなかった事を告げられ、マルスは動揺する。
 確かに、自身の様子がおかしいことに感づいている者は少なからず居るだろうとは思っていた。
 しかし、まさか子供達にまで気づかれるほどだったとは。

「……だから?
 ネス達にそう言われたから……それで、ここに来たのかい?」
 内心の動揺を押し隠し、努めて平板に訊ねる。
「確かに、それもあるが――
 ここに来たのは、俺自身の意思だ」
 彼が自分を気にかけてくれているという喜びと、何故諦めてくれないのかという嘆きと。
 まるでミルクを落としてかき混ぜた紅茶のように、矛盾する感情が渦を巻いて混じり合う。

「……また『思い上がり』と言われるのかも知れんが。
 俺にはあの時、何故かあんたが助けを求めているように見えた」
 じわり、と畏怖が心を浸食する。
 どうして見抜かれてしまうのか――この青年の勘の鋭さが、マルスは恐ろしかった。
「おそらくはそのせいだろうが……ここ最近、どうにもあんたの事ばかり気にかかってな。
 正直、この件をはっきりさせないと、気が散ってかなわん」
「――え」

 それは、どういう――
 反射的に問おうとしかけて、マルスはすんでのところでその言葉を飲み込んだ。
 彼に他意など無い――期待するだけ無駄だと、身に染みて解っているはずなのに。
 それでも淡い望みを抱かずにいられなかった自身の愚かさを、胸の内で自嘲する。

「……。
 本当にしつこいね、君は」
「悪いが、性分なんでな」
 精一杯の虚勢も、肩をすくめる仕草だけであっさり突破されてしまった。
「もう一度訊く。
 あんたは一体、何に悩んで――」
「止めてくれ。
 その問いは……もう聞きたくない」
 叩きつけるようにそう告げて、両手で耳を塞ぐ。

「……。
 それは、俺だから言いたくない……のか?」

 ――その通りだよ。
 解っているなら、どうして!
 耳を塞いで顔を背けたまま、マルスは心の中で叫んだ。


 先日のやり方では、まだ生温かったのだ。
 今度こそ、完膚無きまでに拒絶してしまわなければ。

 そうしなければ――次はきっと、耐えられない。


「本当はね……君なんて、大嫌いだった」
 口にした瞬間、きりきりと胸が締め付けられる。
 本心と真逆の悪意を装うことは、これほどに苦しいものなのだと初めて知った。
「マスターハンドに言われていたから、仕方なく面倒を見ていたけれど、ね。
 内心では――君なんて来なければ良かったのにと、ずっと思っていたさ」
 ――最後の言葉だけは、完全な嘘ではない。
 そう思った日もあった。アイクがこの世界にやって来なければ、これほど苦しむことは無かったのに……と。
 しかしそれは逆説的に言うと、彼と共に過ごす喜びも知り得なかった、ということでもある。それらは苦しみを補って余りあるほど、マルスにとって幸福な記憶だった。

「だからもう――僕には近寄らないでくれ」
 そして、この一言もまた、心からの願い。


 その言葉を聞き、アイクはじっとマルスを見据えていたが、やがて大きく息を吐いた。
「――嘘だな」
 吐息と共に低く発せられたその言葉は、そこまで大きくなかったにも関わらず、辺りの空気を凛と震わせる。
 ――そしてそれは、同時にマルスの鼓膜と心をも揺さぶった。

「嘘なんかじゃ……」
「――いや。
 あんたは間違いなく嘘を言っている」
 これとよく似たやり取りを、つい数日前もしたような気がする。
 そんな既視感を覚えつつ、マルスは戸惑いと苛立ちが入り交じった表情で相手を睨み据えた。
「……どうして、そう言い切れるんだい?
 君に、僕の何が解ると?」
「解ったとは思っていない。
 ――だが、これだけは言える。
 少なくとも……あんたが今まで俺に見せた気遣いは、偽りのものなんかじゃなかった」
 それに、とアイクが言葉を続ける。
「――例え俺でなくとも、今のあんたを見れば誰にだって解るはずだ」

 そう言い切ると、アイクはさらに二歩、三歩と距離を詰め、マルスの正面に立つ。
 その顔に浮かぶのは、マルスが期待した怒りや軽蔑ではなく、普段通りの無表情でも無い。
 強いて言えば、子供達にまとわりつかれている時のそれにも似た……どこか困ったような表情。

 一瞬の間をおいて、アイクがすっと左手を上げる。
 頬に伸びてきたその手から、マルスは反射的に逃げるように身を引き――


「だって――
 あんた、泣いているじゃないか」

「…………え?」


 その言葉は、一瞬にして彼の思考を停止させ、伸びてきた手から逃れる機会を永遠に奪ってしまう。

 不器用に、しかし優しく頬を拭われて。
 ――マルスは初めて、自分が涙を流していることに気づいた。


「……何故そんな嘘を吐く。あんたが辛いだけだろう」
 何の他意も無い、純粋にこちらを気遣うその言葉が、泣きたいほど嬉しく――そして痛い。

 もういっそ、秘めてきたこの想いを全てぶつけてしまおうか。
 そんな考えが頭をよぎるが、マルスはどうにかそれを抑え込んだ。
 この清廉な青年を、自身の邪な想いに巻き込んではならない。彼への恋心は、この世界が消えるその時まで持っていくと決めたのだから。

 上手く呼吸をしてくれない肺を叱咤して、大きく息を吸い込み、吐き出す。
 そしてアイクの手を払い除けると、よろめきながらも大きく後ずさりして距離をとった。

「おい、マルス……」
「来ないでくれ」
 凛とした声に、追おうとしたアイクの足がぴたりと止まる。
 そんな青年に背を向けて、マルスは俯けた顔を左手で覆った。これ以上、無様な泣き顔を見られたくなど無かったから。

「お願いだから――」
 これ以上、追い詰めないでくれ。
 さもないと、僕は――
 後半は声にならず、マルスは唇だけでそう願った。


 ぽつ、ぽつ、と冷たく当たる雫。
 それはやがてそぼ降る雨となり、五メートルほどの距離をおいて佇む二人を濡らしてゆく。

「……降ってきたな。戻るぞ」
 低く囁かれたその言葉に、一瞬安堵したのも束の間。
 一歩、こちらへ踏み出してきた気配に、再び身体が強張る。

「……いいから、戻って。
 僕のことは、放っておいてくれ……」
「断る」

 二歩。また近くなる。
 彼の足は、着実にこちらに向かって動いている――背中を向けているのに、足音は雨でかき消されるのに、マルスには手に取るようにそれが解った。


「あんたが、何に悩んでいるのかは知らない」

 三歩。
 狂おしいまでに愛おしい、その気配が近づいてくる。


「だが、放ってはおけない」

 四歩。
 腕を精一杯伸ばせば届く距離。


「俺では……あんたの力にはなれないか?」

 五歩。
 あと一歩踏み出せば――そこで終わり。


 どうして、とマルスは嘆く。
 何故、そこまでして自分に手を差し伸べようとする?
 身勝手だと知りながらも、今は彼の優しさを憎まずにはいられなかった。
 見捨ててくれれば、拒絶してくれれば――まだ、諦めがついたかも知れないのに。

 今ならまだ間に合う。
 僕に触れることなく、引き返してくれ。

 ――叶わぬ願いと知っていても。
 マルスは最後まで、そう祈り続けていた。


 伸びてくる、優しく残酷な掌。
 確固たる意志を持ったその手は、少しも躊躇うことなく、二の腕をぐいと掴んだ。


 それが、合図。

 張りつめてきた均衡が――崩れる。



(――!?)

 その瞬間。
 周囲から、一切の音が消えた。

 実際には消えてなどおらず、ただアイク自身がそう感じただけの事だったのだろう。
 それと同様に、いま彼の身に起こっている事も、目には見えているはず――そう、ただ理解出来なかっただけで。

 音の無い世界で、感じられたのは。
 頬を打つ針のような雨と――唇に押し当てられた、柔らかい感触だけ。

 時が止まったように見える視界の中、彼の唇が動いた。


『ごめん』


 血の気を失った唇は、確かにそう告げていた――



 ざあざあと打ちつける雨の中を、マルスはただ駆ける。

 速度を緩めることなく、そのままの勢いで自室に飛び込むと、ふらつく足で寝台へと歩み寄った。
 そして、シーツに水が染みるのも構わず、ずぶ濡れのままベッドへ倒れ込む。

 ――頬を伝う雫は、果たして涙なのか雨なのか。
 マルスにはもはや解らなかった。


 翌朝。
 夜明け前に上がった雨と共に、マルスの姿は宿舎から消えていた。


OFUSEで応援 Waveboxで応援




PAGE TOP