3
――強いと褒められるのは、好きではなかった。
石造りの床に荷物を下ろし、ケントは肺の奥から大きく息を吐き出した。
村を襲っていた山賊を撃退した後、2人は村人から多大な感謝を受けた。
村の長を務める老人は、膝に額を擦りつけんばかりに頭を下げ、彼等に何度も礼を述べた。そして、2人が旅の途中であること、一晩を明かすことのできそうな場所を探していることを聞くと、村の一角にある空き家を提供すると快く申し出てくれたのだ。
日は傾き始めたばかりで、夜の訪れまではまだ時間があったが、ケントはこの申し出を受けることにした。この危険地帯を闇雲に進むのは無謀との判断もあったが、山賊の報復を恐れ、例え一晩でも自分達の滞在を望む村人達の心情を察したからだった。
室内用のランタンと毛布とを借りて、2人の青年は空き家の寝室だったと思しき部屋へ入った。
村の長はいくばくかの食料も提供すると申し出てくれたのだが、ケントは丁重にそれを辞退した。2人とも保存食はきちんと携帯していたし、ただでさえ余裕の無い村人達の生活を圧迫したくは無かった。
部屋の隅に置かれたランタンの、あまり明るいとは言えない光が室内を照らす。
早々と寝台に寝転んだ相棒を横目に、ケントは冷たい石の床に座り込み、先刻負った傷の手当てを始めた。
腕の裂傷は、応急処置として軽く止血をしただけだった。さほど深くないとは言え、きちんと処置をしておかなければ化膿する恐れもある。
傍らに置いた荷物の中から、小振りの瓶を取り出す。戦いを生業とする者たちの間では、傷を負った際の消毒のために酒の類を携帯するのは暗黙の常識だ。アルコールを嗜むことをほとんどしないケントにしても、それは例外ではなかった。
申し訳程度に巻きつけていた布を外し、袖をまくり上げる。露わになった傷口からはわずかに赤い肉が覗いており、まだじわじわと血を滲ませていた。
自身の血の匂いに混じって、鎧に覆われていなかった箇所に飛び散った他者のそれが鼻を突く。村人の前に出る際にざっと拭いはしたのだが、布に染み込んだ返り血まではどうしようもなかった。
何度戦場に出ても、血の匂いに慣れることは無い。
ケントは心なしか顔をしかめて、手にした瓶の栓を抜いた。途端に熟した独特の匂いが溢れ出し、血の匂いをかき消していく。
酒を含ませた布で、傷口だけでなくその周辺も丁寧に拭う――アルコールが齎す灼けつくような痛みに、無表情な顔を歪ませながらも、彼は手を止めることなくこびり付いた血を擦り落としていった。己が誰かの命を奪った証を、いつまでも残しておく気には到底なれなかったから。
――あの瞬間の、少女の恐怖に凍りついた表情が頭から離れない。
拒絶は当然だった。
血に汚れた手で、無垢な幼子に触れるべきではない。
言い聞かせても、胸を貫く疼痛は消えなかった。
――それは血の匂いに晒された後、いつも感じてきた虚しさ。
騎士と名乗っていても、やっていることは人殺しだ。
初めて戦場に出て以来、ずっと抱いてきた疑問――大義の名の下に、偽善の刃を振りかざして人の命を奪うことに対する、どうしようもない後ろめたさ。
少女が泣き出した、あの時……割り切る強さも持てず、かと言って退く勇気も無い自身の弱さを、咎められたような気がした。
己が誓いを正しきものと信じ切るならば、そんな躊躇いなど生まれないだろうに。
騎士であろうとしなければ、他者の命を奪って生きずに済むだろうに。
だが、自分は何処にも行けぬまま、結局今の場所に留まり続けている。
立てた誓いは忘れていない。
誇り高き騎士で在りたいという気持ちにも、嘘は無い。
ただ、無性に怖かった。
――何が?
誰かを傷つけることが。誰かに傷つけられることが。
そうして憎しみ合い、血に塗れてゆくだろうこの世界が。
これから先、どれだけの命をこの手で刈り取ることになるのだろう?
どれだけ血に汚れたなら、全てを受け入れられるのだろう?
剣にかけて捧げた誓いを、違えるつもりは毛頭無かった。
自分はキアラン候家に仕える騎士であり、それ以上でも以下でもない。
だが、時折解らなくなる。
騎士とは何なのか――数多の命を絶ち、血を浴び続け、その果てに待つものは何。
(……私は、騎士失格だな……)
腕の傷を見つめながら、ケントは心の中で呟いてため息をついた。
ぎゅっと握り締めた拳は、黒ずんだ血の色に染まっているような気がした。
黙って自身の腕に視線を落としているケントの背中に、声がかかったのはその時だった。
「ため息なんてついちゃって、暗いよ? どうしたのさ」
肩越しに一瞥すると、寝台の上で腹這いになった相棒が、頬杖を突いてこちらの様子を眺めている。
面白がっているとも気遣っているとも見える、不可思議な碧の双眸――全てを見透かしているかのようなその眼差しから、ケントは逃れるかのように顔を背けた。
「――別に、何もない」
愛想の欠片もない平板な声は、身の内に燻る感情を悟らせぬため。
相棒のことは信用している。だが、信頼と依存は別物だ。自分の内的な問題に、親友を引きずり込むような真似はしたくなかった。
それに、相棒であると同時に好敵手でもある彼に対し、みっともない姿は見せたくないという意地もある。この青年とはあくまで対等でありたいと、ケントは常々思っていたから。
ややあって、背後から軽いため息が聞こえてきた。続いて、寝台の軋む音。
慣れた気配が近づいてくるのを疎ましくすら思う自分に、ケントはまた自己嫌悪を深くする。
静かに歩み寄ってきた足音は、傷の手当に専念する振りで身体を硬くしている彼の背後で止まり――
(……な……?)
呼吸すら止まったかのような、その一瞬。
空白になった意識の中、首と肩にかかる心地良い重みと温もりだけがいやに鮮烈で。
「――そんな、泣きそうな顔しないの」
耳元で響く声は、あの時泣いている少女をあやしていたそれにも似ていた。
「お前は、綺麗だ。
どんなに血を流しても、どんなに血を浴びても……」
首に回っていた腕がするりと降りてきて、怪我をした腕に手が触れた。
形の良い指は、紅い雫を滲ませた傷口に沿って肌をなぞっていく。一瞬、傷に触れた薬指の先が、鮮やかな赤に濡れていた。
殊更ゆっくりと、見せつけるかのような動きで口元へと動く手。笑みを浮かべた唇から覗いた舌が、指についた朱を舐め取る――
肩越しに見えるその様を、ケントはまるで現実味の無い映像として捉えていた。
あれほど厭うていたはずの血の色が、この瞬間だけは何故か、この上無く美しいものであるように思えた。
「お前は綺麗だよ」
そう――誰よりもね。
「綺麗で、高潔で……誇り高い」
誰よりも、騎士に相応しい。
その声が、その囁きが――呪文のように、意識の奥へと染み込んでくる。
背中に触れている体温に至るまで、全てが心地よく柔らかな呪縛でもって、自己嫌悪に凝り固まった心を絡め取っていく。
――あたたかい、と思った。
濡れた音がひときわ大きく響いて、ケントは不意に我に帰る。
「……離れろ。作業の邪魔だ」
微かに目元を紅く染めて、ケントは肩に回っていた腕を振りほどいた。さほど力を込めてはいなかったが、背中の重みは存外簡単に離れていく。
冷静を装ったつもりの声は僅かに上擦っていて、それが何だか無性に悔しかった。
「何、照れてんのケント?」
可愛い奴だなぁ、などとおどけて笑うその顔は、ケントがよく知るいつも通りの彼だった。先程までの、ある種妖艶で荘厳さすら感じさせる雰囲気は既にどこにも無い。
さっきの出来事は、全て夢だったのではないか――そんな風にすら思えてくる。
「何を言っている。全く、ふざけた奴だ」
眉を寄せてそっぽを向いたケントに、セインはへらへら笑いながら言った。
「でも、さっき言ったことはホントだよ?」
思わず振り返った視界に映る、能天気な笑顔。それは見慣れたものでありながら、いつもよりも少しだけ、真剣な色を帯びていた。
その唇が言葉を紡ぎ出そうとする予兆を見て取って、ケントは慌てて声を上げた。彼がまた先刻の台詞を繰り返すつもりだと、とっさに予感したせいだった。
「も、もういい! 何度も言うな」
綺麗などという言葉は、自分には相応しくない。
あまりにも縁遠い形容に過ぎて、いたたまれない気分になる。
そんなケントの様子を見て、セインは愛嬌のある口元を吊り上げた。だって、と続ける。
「誰かが横で言い続けてないと、ケント君ってば際限なく自己評価落としそうだし?」
少なからず図星を指されて言葉に詰まる親友に、彼は可笑しげにくすくす笑う。
「もっと、自信持ちなよ」
――お前は、誰よりも綺麗なんだから。
戸惑う視線の先、セインはどこか懐かしさを感じさせる表情で笑っている。
――強いと褒められるのは、好きではない。
「人殺しが上手い」と、言われている気がしてしまうから。
幼い頃から、騎士を志して訓練に励んできた。
未熟な自分だったけれど、周囲の人達は優秀だと褒めてくれた。そのことは光栄に思ったし、嬉しくも感じていた。
だがいつからか、そんな賞賛の言葉に、素直に喜べないでいる自分がいることに気付いてしまった。
強いということは、主君のために役に立てるということ。
しかし同時に、より多くの命を奪えるということ。
如何に効率よく人を殺すか――
初めて戦場に出て、自分に求められている役割を知った時。
自分は、強いという周囲の賞賛の言葉を素直に受け取れなくなっていた。
けれど――彼奴だけは違った。
「綺麗だな、お前の戦い方」
剣を振るう自分の姿を見て、彼は人懐こい笑顔でそう言ったのだ。
「とっても素直で、自然で、飾ってなくて。
お前の性格、そのまんまって感じ」
そんな風に言われたのは、初めてだった。
今まで誰からも……両親からさえ、そんな褒め言葉を貰ったことは無かった。
買い被りだ――とは思ったけれど。
その誤解が嬉しかったから、否定の言葉を返すことが出来なかったのを覚えている。
親友の笑顔を見上げるケントの脳裏に、既視感とともに蘇る記憶。
あの頃と変わらぬ微笑みで、彼はこんな自分に綺麗だと言ってくれる。
例え勘違いでも、分不相応な褒め言葉だと解っていても、それはケントにとって大きな救いだった。
「――セイン」
「んー?」
呼びかけると、既に寝台に戻っていた相棒から眠そうな相槌が返ってきた。毛布を被ったその姿を視界の端に捉えて、ケントは視線を己が腕に据えたまま、呟くように言った。
「感謝している」
横たわる、しばしの沈黙。
既に眠りに落ちたのかと思ったケントが視線を上げると、毛布から顔を覗かせてこちらを見つめている灰緑の双眸と正面からぶつかった。
自身の鼓動が跳ねたのを自覚して一人うろたえるケントに、セインは陽だまりの中の猫にも似た風情で目を細め笑う。
「……どういたしまして」
――その笑顔に、何故か胸が苦しくなる。
心の琴線が震えて、聴いたことのない調べを奏でる。それは生まれた時から知っているようで、けれど限りなく未知であるような、不可思議な旋律。
心臓が拍を打つリズムも、心なしかいつもより速いような気がして。
それ以上セインの瞳を見ていることに耐えられず、ケントは傷の処置に集中する風を装って視線を手元に戻した。
身の内で密やかに生まれつつある感情――その名をまだ、彼は知らない。