軽いノックの音に、ケントはふと我に帰った。
 扉の向こうに、人の気配がする。母だろうかと思いつつ、立ち上がって扉を開けた。

「ケント……」
 そこに立っていたのは、既に帰路についたとばかり思っていた親友だった。
「セイン? 戻ったのではなかったのか?」
「ん、まあね」
 琥珀の目を見張って訊ねる親友に、セインはお得意の曖昧な相槌で答える。そしてひょいと首を傾げ、部屋の中を覗き込んだ。
「入ってもいい?」
「ああ、構わないが……」
 散らかっているぞ、と言い置いてから、ケントは扉を大きめに開ける。その隙間をすり抜けるようにして入ってくると、セインは部屋の中をひと渡り見回してから口を開いた。
「片付け中だったんだ……ごめん、邪魔した?」
「気にするな。これから手をつけるところだ」
 言ってケントは、再び寝台に腰掛けて床の上の品物を手にする。

「手伝おっか?」
 傍らの床に座りつつ声をかけてくるセインに、ケントはしばし考えてからかぶりを振った。
「いや、いい。……下手に手伝わせて、壊されても困るからな」
 セインの馬鹿力と、それに伴う物体破壊癖は、既に仲間内では周知の事実だ。心当たりが無いでもない部分を指摘され、セインは膨れっ面で唇を尖らせた。
「何だよ、せっかく手伝い申し出てあげたのに、そーいう言い方する?」
「事実を述べたまでだ」
 容赦ない追い討ちに、セインがさらにむくれて横を向く。その様子に微かな笑みを零し、ケントは再び手元の遺品に視線を戻した。


「ケント、大丈夫?」
「――何?」
 唐突な問いかけに視線を動かすと、床の上から神妙に見上げてくる灰緑の双眸に出会う。
 この青年の独特なペースについていけないのはいつものことだが、今日はまた一段と振り回されてばかりのような気がする。ケントは親友の思うところを図りかね、戸惑いながら訊き返した。
「どういう……意味だ?」
 頭の後ろで手を組み、セインはケントの座る寝台に背をもたせかけた。お喋りな彼にしては長い沈黙があり、ややあって答えが返ってきた。
「んー……何て言うのかなぁ。
 何となくだけど、無理してるんじゃないかって気がしたから」

「お前はいつだって真面目で、人に迷惑かけなくて、面倒見も良くて。
 でも、そういうお前見てたら……時々無性に、心配になるんだよね」
 いつも世話かけてる奴が、何を偉そうにって思うだろうけど。
 そう言ってセインは笑ったが、ケントは笑わなかった。――否、笑えなかったと言う方が正しい。

 その言葉があまりにも、彼のよく知る人物がかつて言ったそれに似ていたから――。


「セイン……お前……」
 琥珀の瞳を驚愕に染めて、ケントは親友の横顔を見つめる。
 ――まさか、見抜かれていたとは。

 そんな友人の内心を知ってか知らずか、セインは普段と変わらぬ軽い調子で言葉を継ぐ。
「俺はさ、生まれた時にはもう爺さん婆さん一人も居なかったから、よく解らないんだけど。
 自分と血の繋がった人間が死ぬのって、例えそれが親しくもない遠い親戚だったとしても、やっぱ結構ショックなんじゃないかって思うんだ」
 まして、とセインは続けた。
「ずっと一緒に住んでた家族なら、なおさらだろ?」
 黙って耳を傾けていたケントは、ここに至って、友人の言わんとすることがおぼろげながら理解できたような気がした。祖母の死に衝撃を受けているだろう自分のことを気遣い、無理をしているのではないかと案じてくれているのだ。
 明るく冗談めかしたキャラクターの裏に秘めた、セインの優しさと洞察力の鋭さに、ケントは改めて感謝と感嘆の念を禁じえなかった。だからこそ、これ以上むやみに心配をかけたくはなかった。

「心配させてすまなかった。……私なら、大丈夫だ」
 いつも通りの平静な声でそう告げると、こちらを見上げるセインが微かに眉を寄せた。明らかに納得していない風だったから、さらに言を継ぐ。
「確かに、祖母が亡くなったことは辛いが――悲しんでばかりはいられない」

 祖母が亡くなった。
 自分で口にしたその事実に、不意に目の奥が熱くなる気がする。
 もしかしたら、泣きたいのだろうか――自分は。

「明日からは、また訓練に戻らねばならないからな」

 そうかも知れない。
 それでも、表に出して泣くことは、きっと自分には出来ない。
 今までずっと、そうやって生きてきたのだから――。


 とん、と床板の鳴る音がした。セインが床から立ち上がったのだ。
 その灰緑の双眸には、何故か苛立ちと遣る瀬無さ、それにある種の決意が複雑に絡まり合って映り込んでいた。
 怪訝な表情のケントの手首を掴み、そのまま引っ張り上げるように立たせると、セインは珍しく平板な声で短く告げる。
「ちょっと来て」
 怒っているようにも取れる口調に、ケントは困惑した。引きずられるように扉へと歩きながら、友人の背中に問う。
「セイン、何を……」
「いいから来て」
 有無を言わさず、部屋の外へ連れ出される。静まり返った廊下を通り過ぎ、その先には玄関――しかしセインの足は止まることなく、扉を開けてさらに屋外へと出て行ってしまう。
「な……おい、セイン!」
 外は大粒の雨が降っていた。家から出てきた2人の服や髪を、たちまちそぼ降る雫が濡らしていく。
 そのまま歩き、家からやや離れた場所まで来て、ようやくセインが立ち止まった。

「セイン、一体どういう……」
 何度問いただしても、その不可解な行動の理由を答えない親友に、ケントが声を険しくする。
 そんな彼に背を向けたまま、鈍色の雲で埋まった空を見上げてセインが言った言葉は。


「今なら、泣いてもわかんないよ」


「……え?」
 ケントは琥珀の双眸を瞬いて、目の前の背中を見つめた。髪を伝い落ちた雫が、目元から頬へと帯を作って滑り落ちていく。
「もう、雨でびしょ濡れになっちゃってるし。俺も、空模様見てるからお前がどうしてるかは知らない。
 だから――今なら、泣いたって誰にも解らないよ」
「――セイン」
 掠れる声で、親友の名を呼ぶ。
 返事を返すことなく、ただ天を仰いでいるそのシルエットが、不意に滲んで見えた。

「………っ!」

 頬を伝って落ちる雫が、いつの間にか確かな熱を持ったそれに変わっていることを、ケントはやがて自覚する。
 心に空いた穴に圧迫されるように、胸が詰まった。ずっと堰き止めてきたものが、一気に表へと溢れ出してくる。

 銀の糸にも似た雨の中、ケントは声を殺して泣いた。


「祖母は……かけがえの無い人、だった……」
 嗚咽の合間、切れ切れに呟く言葉。
 何も見ていない、聞いていないはずの友人が、うん、と相槌を打つのが聞こえた。
「大切な人、だったんだ――」
 それは、言葉にして改めて思い知らされる事実。

 部屋を出てからずっと、左の手首を掴んでいた手が離れた。そのまま下へと滑り、するりと指を絡ませ合うようにして繋がる。
 俯いて肩を震わせるケントにとって、その温もりだけが自身を現実へと繋ぎとめる楔だった。


 まるで泣いているかのような雨は、その夜が明ける時まで降り続いた。



 白い葬列は、ゆっくりと青空の下を進んでいった。
 やがて、そのシルエットは丘陵線の向こうへと遠ざかり、彼の視界から消える。

 しばし無言で葬列の消えた方を見つめていたケントの左手に、ふと何かが触れた。
 それはするりと指の隙間に入り込み、絡まり合うようにして繋がる。

 一瞬、力を込めて握ってくる手。

 接触はほんの一瞬で、触れていたその温もりはすぐに離れていった。
 名残惜しさに、遠い記憶が交錯する。
 振り返れば、いつの間にか隣に立っている見慣れた姿。
 目が合った瞬間、彼はいつもの悪戯めいた笑みを浮かべて目を細めた。


 あの日、自分はかけがえの無い人をひとり、喪った。
 だが同時に、新たなる大切な存在をひとり――見つけたのだ。


「行こっか」
 笑いかけてくる灰緑の双眸に頷くと、ケントは葬列に背を向けて、澄み渡る蒼穹の下をゆっくりと歩き出した。

 故郷の街へ――愛しき人々と共に、彼が生きるべき場所へ。



恋愛より深いところで繋がった2人を書きたかった。
当サイトでは「ケントはおばあちゃん子」説を提唱しています。



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