3. 英名の代価



 あの婚礼の日から、二週間が過ぎた。

 所用で近くの街に出かけていたアイクは、砦へと続く山道を独り歩いていた。
 既に陽は山の端にかかり、忍び寄る薄闇――自然、彼の足は速くなる。

 ふと、視線を感じた。
 敵意は無い、けれど無視も出来ない、そんな気配。
 反射的に、右手に広がる草原の方を振り向く。


「――久しぶりね」
 いつの間にか、『彼女』がそこに立っていた。


「――ミカヤ?」
 意外な人物を認め、アイクは微かに瞠目する。
 新生デインの国王として多忙な日々を送っているはずの彼女が、一体何故こんな場所に?
 そう問おうとして――彼は気づいた。

「……いや、違うな。
 あんた――ユンヌ、か?」
「正解」
 紅く輝く双眸を細めて、少女が笑う――どこか寂しげに。

「無事だったのか」
 負の女神ユンヌ――あの時、他ならぬアイクが女神アスタルテを討ったことで、共に消滅したはずだった。
 青年の問いに、少女は微かにかぶりを振った。
「いいえ。わたしは……かつてユンヌであったものの欠片に過ぎない。
 ユンヌがこの子の中に残した『想い』――この世界を、そこに生きる者達を、愛してやまなかった彼女の心」
 本来ならば、『彼女』は依代たるミカヤの中で永遠に眠り続けるはずだった。
 ミカヤと共にこの世界で生き、彼女がその生涯を終えたならば、共にこの大地へと還る――そう望み、ユンヌは自らの精神の一部を切り離して少女の中に残したのだ。
 そう説明した彼女は、でも、と言葉を継いだ。
「私は、その眠りから目覚めた。
 ――私にとても近い存在の気配が、目覚めさせたの」
「……どういう事だ?
 まさか、アスタルテが復活したとでも言うのか?」
 怪訝な表情で問う青年を、ミカヤの肉体を借りた『彼女』が静かに見つめる。

「――貴方よ」
「何?」


「貴方はもはや、ヒトでは無い」


 一瞬。
 周囲から、彼女の声以外の音が消えたように感じた。

「……何だと?」
 まるで透明な硝子の刃のように、真っ直ぐ意識に突き立った言葉。
 その意味を掴みかね、アイクは濃い眉を寄せる。
「ベオクとラグズ……今の貴方は、そのどちらでも無い存在……」
「……何だ、それは。どういう事だ?」
 説明を欲する青年に、少女の瞳が微かに揺れる。どう言えば彼に真実を伝えられるのか、悩んでいるようだった。
「概念としては『印付き』に近いけれど……彼らがベオク・ラグズと異なる存在になったのは、受け継いだ血の交わりによるもの。
 ――でも、貴方はそうじゃない。
 純粋なベオクでありながら、自分の力でその限界を超え……そして」
 一度言葉を切り、少女は目を伏せる――まるで何かを後悔するかのように。

「神を滅したことで、貴方は『ヒト』という枠から逸脱してしまった」

「……!?」
 濃藍の双眸を見開くアイクの脳裏に、先日の記憶が蘇る。
 意図の見えぬ問いを投げかけてくる友人達――どこか不自然な、彼らの態度。
 信じたくない思いとは裏腹に、頭の中で散らばっていたピースが勝手に嵌まっていく。

「そんな事が……あり得るのか?
 人間が神になるなんて事が……」
 懐疑を込めて呟く青年を、透徹した眼差しで見つめる少女。その紅き双眸には、人ならざるモノになりつつある彼の姿が視えているのだろうか。
「そうね。こんな事は今まで一度も無かった」
 でも、と彼女は続ける。
「原初の民『マンナズ』がラグズとベオクに分かれて以降、ベオクは女神の姿に近づくために進化を続けてきた。
 ベオクの進化の最終目標は、神そのものになる事。長き時を経て、いつしかそれを達成する個体が出てきたとしても……それは自然の摂理として、何ら不思議では無いわ」
 ただ――それが少し、早すぎただけの話。

「それに……証拠もある。
 私が、眠りから目覚めた事」
 ミカヤの中でずっと眠り続けるはずだった彼女は、自身と近しい存在と共鳴したことにより、イレギュラーな目覚めを迎えた――アスタルテもユンヌも、もはやこの世界には居ないというのに。

「貴方はもう、ベオクという種そのものを超えている。
 神に限りなく近い『何か』――それが、今の貴方」
 他ならぬその「神」からの、残酷なる宣告。
 まるで現実味の無いそれを、アイクは白昼夢か何かのように感じていた。

「信じられない?」
「……」
 問われるまでも無かった。こんな荒唐無稽な話を、頭から信じろという方が無理だろう。
 困惑、懐疑、憤怒――彼の胸中に渦巻く感情全てを見透かしたかのような表情で、少女は紅い双眸を細める。

「――ベグニオンへ」
「……何?」
 桜色の唇から不意に発せられたその単語に、アイクは眉を寄せた。
「ラグネルに、いま一度触れてみれば良いわ。
 かつて、神であるわたしを討つために、選ばれたベオクのオルティナに与えられた剣……」
 あれは、『ベオク』にしか持てぬものだから――と。
 少女は静かにそう語った。
「あなたがヒトのままならば、ラグネルに触れることが出来るはず。
 けれど、もしあなたがベオクを超え、神に近いモノになっていたならば――」


 神殺しの剣は、あなたを拒絶する。


「……そんな、馬鹿な」
 半ば無意識に呟く。
 剣が、拒絶する? 自分を?

 意味が皆目解らなかった。
 しかし同時に――彼女は嘘を言っていないと、本能で悟る。
 理性と直感の狭間で迷う青年を一瞥すると、ミカヤ――否、その姿を借りたユンヌの意思は、くるりと背を向けて歩き出した。
「おい――」
「言うべきことは伝えたわ。
 信じるも信じないも――あとは全て、貴方次第」
「……」
 黙り込む青年を振り返り、少女は紅の双眸を細める。

「……わたしに貴方を救ってあげられるなら、そうしたでしょう。
 けれど、わたしはかつて女神だったものの欠片に過ぎず、神としての力の残滓すら残っていない。
 だから、貴方に干渉する術は無いし、その権利も無いの」

 わたしはただ――見守り、寄り添うだけの存在だから。

 囁くような声に、アイクは視線を上げ彼女を見据える。
 その顔に涙は見えず、表情も変わらなかったけれど。

 泣いているのか、と思った。


「あんたは――」
「え?」
「……どうするんだ、これから」
 そう問いかけてきた青年に、少女は軽く目を見張る。
 その言葉の陰にあったものは、ただ純粋に彼女を気遣う心。それ以外、何の他意も読み取れはしなかった。
 ――この状況下で、己の身よりも他者の心配をするというのか。
 少女は呆れたように笑う。まるで母のように。

「……少し、予定の変更があったけれど。
 それも済ませたし、これでまたゆっくり眠れるわ」

 かつて、原初のベオク達が望んだであろう、進化の最終目標。
 そこに到達したのが、他の誰でも無く――彼であった理由。
 それが今、彼女には解ったような気がした。

「さよなら。
 ――きっともう、逢うことは無いでしょう」

 そして、ごめんなさい。

 微かに聞こえたそれは、果たして何への謝罪だったのか。
 最後にふわりと、慈愛に満ちた微笑みを残し、少女は闇の向こうへ去っていく。

 その気配が消えた後も、青年はしばらくその場に立ち尽くしていた。



「――久しいの。
 そなたが自分からわたしの元にやって来るとは、珍しいこともあったものよ」
 ベグニオン帝国、大神殿マナイル。
 女神が消滅しても、その荘厳な佇まいは一年前の記憶にあるそれと少しも変わっていなかった。
 謁見の間の最奥に設えられた玉座でアイクを迎えたのは、神聖ベグニオンの皇帝にして神使たる少女サナキ。
 茶化すように言ったその口元には笑みが浮かび、彼女が至って上機嫌であることを窺わせた。

「……して、用向きは何じゃ?
 そなたの事、旧知の仲間と茶飲み話に花を咲かせに来たとも思えぬ」
 もっとも、わたしはそれでも一向に構わぬがの。
 くすくすと楽しげに笑うサナキを、アイクは濃藍の双眸で真っ直ぐに見据える。

「――確かめたい事がある。
 あの剣を……ラグネルを見せてくれないか」
「……ラグネルを、か?」
 怪訝な表情で問う神使に、アイクはただ沈黙をもって応える。
 その表情はいつも通りの無表情だったが、どこか鬼気迫るものを感じさせた。ただならぬ雰囲気を察知し、サナキの顔から先程までの冗談めかした色が消えていく。
「……女神は去り、世界は少しずつではあるが平和へと向かっておる。
 にも関わらず――あの剣の封印を解く必要が、そなたはあると申すのか?」
「使うつもりは無い。ただ一瞬、触れるだけで構わん」
 その返答に、サナキはいっそう訝しげな色を濃くする。
 彼女の疑問を十分解っているはずの青年は、しかしそれに対して何も語ろうとはしなかった。

「――頼む」
 最小限の言葉に最大限の感情を込め、アイクは神使を見据える。
 そんな彼を、玉座の上からサナキがじっと見つめ返す。

 永遠に続くかとも思われた沈黙……それを破ったのは、神使の傍らに控えていた聖天馬騎士だった。
「――畏れながら申し上げます。
 神剣ラグネルはエタルドと共に、我がベグニオンの至宝なのです。いかなアイク様と言えど、国宝を安置する場所に外部の方をお連れするわけには……」
「そこへ連れていけとは言わん。ここへ持ってきてくれるだけでもいい」
「ですが……」
 困惑の表情でさらに言葉を続けようとした彼女を、静かに制したのは他ならぬサナキだった。
「よい。控えよ、シグルーン」
「は……申し訳ございません」
 一礼して下がる天馬騎士に頷いてから、神使は再び青年へと向き直ると、ふうっと大きく息を吐き出した。

「……我が国の宝とはいえ、今、あの剣を扱える者はこの男しかおらぬ。
 実質、神剣の主はこやつじゃ。主が剣に触れることを、外野が止められる道理もあるまい」
 それに、とサナキは不意に悪戯めいた苦笑を浮かべた。
「下手に申し出を蹴って、この神殿内で暴れられてもかなわぬ。
 こやつを止めるのは、化身した竜鱗族を相手にする程度には厄介ぞ」
「……随分な言い種だな」
 憮然とするアイクに、少女はころころと楽しげに笑った。それを機に、張りつめていた広間の空気が一気に緩む。

「シグルーン。わたしが許可する。
 神剣の間まで案内してやるが良い」
「了解致しました。
 ――タニス。アイク様を神剣の元までお連れするように」
「はっ」
 上司の指示を受け、側に控えていた聖天馬騎士団副長タニスが一礼した。

「神使サナキ。――感謝する」
「……恩に着るのなら、今度はわたしを楽しませる土産話でも持って来るのじゃな」
 肘掛けに頬杖をつき、不敵な微笑みを浮かべる少女。
 ああ、必ず――そう言えなかったのは、それが叶わぬ事と自身が思ってしまったからなのか。
 忸怩たる思いを抱きながら、アイクは謁見の間を後にした。


「こちらだ。アイク殿」
 タニスに先導されてやってきたのは、大神殿マナイルの地下にある一室だった。
 厳重に施錠された大扉を開けると、広々とした部屋の一番奥に祭壇があり、その上に見覚えのある剣がひと振り鎮座していた。
「……あれは、ラグネルか?」
 神剣はふた振りで一対のはず。かつての仇敵が携えていたもう一本はここには無いのか?
 そんな青年の声無き疑問に、タニスが答える。
「神剣エタルドは天を司り、ラグネルは地を司る――と、ベグニオンの伝承には記されている。
 それに従い、エタルドは天に最も近い場所に。そしてラグネルは地の底に近い場所に、それぞれ安置されているのだ」
「――そういう事か」
 得心がいったという風に頷き、アイクは祭壇に向かって歩を進めた。
 二本揃っている必要は無い。ラグネルさえあれば、彼の目的は十分に達せられる。

 段を上り、祭壇の前に立つ。
 深い緋色の天鵞絨の上に安置された、黄金に輝く刀身――記憶と寸分違わぬその造形。
 少なくとも、一年前に手にしていた時と何かが変わっているようには思えなかった。
 もっとも、あの少女が言うことを信じるならば、変わったのは剣では無く彼自身の方ということになるのだが。


 果たして本当に――自分は変わってしまったのか。
 それを確かめる為、ここに来たのだ。


 知らず、ひとつ深呼吸をして。
 アイクは黒光りするその柄に手を伸ばした。
 その指先が柄に触れる――そう見えた瞬間。

「…………」
 無骨な右手が、中空でぴたりと動きを止める。
 手と剣の距離は僅か数センチ――その間に、接触を妨げるものなど何も存在しない。
 にも関わらず。
 まるで見えない壁にぶつかったかのように、それ以上手を延ばせないのだ。

(……何だ、これは……!?)
 宙に浮いたままの手が、小刻みに震える。
 それは、彼が手を動かそうと渾身の力を込めている証拠。

 強い力と意志――その二つを総動員し、ほんの僅かに指先を進めることに成功する。
 剣に触れるまで、あと紙一枚というところまで来た……その刹那。

「……!」
 再び、アイクの右手が動かなくなる。
 だがそれは、先刻のように何らかの外的な力に妨げられたのでは無かった。――彼が、自分自身の意思で止めたのだ。

 理屈ではない。ただ、本能で悟る。
 このまま剣に触れたなら――己の存在そのものが危うい。
 鍛え上げられた直感が、うるさいくらいに警鐘を鳴らす。
 『死にたくなければ触れるな』と。

 それに従い、アイクはゆっくりと右手を引く。
 じっとりと嫌な汗が全身を濡らしていた。半ば無意識に額を拭い、眼前に翳した掌を凝視する。
 かつてはあれほど軽々と振るっていたはずの神剣を、握ることすら出来なかった……一年前は、確かにこの手の中にあったはずの剣を。


『あなたがヒトのままならば、ラグネルに触れることが出来るはず。
 けれど、もしあなたがベオクを超え、神に近いモノになっていたならば――』

 ――”神殺しの剣は、あなたを拒絶する。”


「……アイク殿?」
 訝しげなタニスの声を背に、アイクはじっと己の右手を見つめ続けていた。





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