3. 最後の晩餐



 虫の声だけが木霊する、静かな夜。

 自室へ向かおうと廊下を歩いていたオスカーは、食堂の方から明かりが漏れていることに気づき、怪訝そうな表情で足を止めた。
 時刻はもう夜半を回ろうかという頃――男達が酒盛りをしているといった気配も無い。
 灯りの消し忘れかと思いながら、青年は扉から部屋の中を窺った。

「――アイク?」
 がらんとした食堂に一人座る、見慣れた背中。
 思わず声をかけると、彼はちらりと肩越しに視線を寄越してきた。驚いた様子は無い。おそらく、気配で誰かがやって来るのは解っていたのだろう。

「……オスカーか」
 その声は至って普段通りのそれで、拒絶の響きは感じられなかった。それを確認してから、青年は食堂の扉をくぐってテーブルへと歩み寄る。
「どうしたんだい、こんな遅くに?」
「……大した用じゃない。
 水を飲むついでに、ちょっと考え事をしていただけだ」
 そう言ったアイクの傍らには、空になったグラスが所在無げに鎮座していた。
 その表面に水分はほとんど無く、彼がだいぶ長く此処に居ることを察したオスカーは、邪魔になるかと思いつつも控え目に問いかける。
「良かったら、何か夜食でも作ろうか?」
「いや。…………
 ……そうだな。すまんが頼む」
 いったん首を横に振りかけたものの、思い直したようにアイクは頷いた。
 その態度に、普段とは違う雰囲気を察しながらも、オスカーは何も言わず竈に火を入れた。


 ありあわせの材料で手早く温かなスープを拵える間に、酒をあまり好まない青年のために牛乳を火にかける。
 食の好みに関しては、オスカーは誰よりも団員の事を把握していた。
 出来たスープに夕食の残りのパンを添えてテーブルに並べると、アイクは感心したような表情を浮かべた。
「……夜食というには、少し立派すぎるんじゃないか?」
「そうかい? 軽く作ったつもりだったんだけれどね」
「流石はオスカーだな。すまん、手間をとらせた」
「どういたしまして」
 匙を手に取り、出来立てのスープを口に運ぶ。
 何回かその動作を繰り返した後に、アイクは手を止め、ぼそりと呟いた。
「……やっぱり、あんたの料理は美味いな」
「はは、ありがとう」
 作っている側にとって、美味しいと言ってもらえることが励みなのだと教えて以来、アイクは口下手ながらもずっと律儀にそれを実行している。そんな彼の実直さを、オスカーは微笑ましく思った。


 しばし沈黙が落ち、食器の触れ合う音だけがその場を支配する。
 椅子には掛けず、火にかけたポットが沸くのを待っているオスカーの耳に、まるで独り言のような声が届いた。
「――訊かないんだな、あんたは」
「……」
 何を、とは問わなかった。
 オスカーはアイクの様子が明らかに普段と違うことに気づいていたし、アイクの方も、オスカーがそれを察していることに気づいていたから。

「……訊いて欲しかったのなら、すまないね」
 アイクは手元の皿を、オスカーは竈を――それぞれ別の方向を見つめたまま、互いに視線を交わらせる事の無い会話は続く。
「……手を差し伸べることは簡単だ。
 けれど、相手がそれを掴んでくれないことには、助けられない」
 だから、とオスカーは言葉を継ぐ。
「話さないのは、即ち話す必要が無いからだと思ってる。
 その時が来れば、自然に言葉が出てくるんじゃないかな」
 静かにそう語る先輩騎士を見て、アイクはふ、と微かな笑みを刷いた。
「……オスカーは、いつもそうだったな。
 全部察していても、決して自分からは干渉しない。
 ――そんなあんたの気遣いを見習いたいと、俺もそうするようになったな」
「……それは、初耳だよ」
 竈の上のポットが、かたかたと音を立て始めた。面映ゆげな微笑みを浮かべながら、オスカーは火を止め、温めたミルクをカップに注ぐ。
「でも、時には強引に聞き出すことが必要な場合もある。
 ……私はただ、その勇気が無いだけの話だよ」
 アイクの前に湯気を立てるカップを置き、ゆっくりとかぶりを振る青年。
「人の事情を聞き出して、その責任を全て背負えるほどの器なんて、私には無いからね」


 ――そう、だから。
 心の一番奥深くで、オスカーは独り呟く。

 言わなかった。伝えなかった。
 今の関係を壊してしまうであろう、彼への想いを。


 実の兄のように慕ってくれる彼の信頼を、裏切りたくなかった。
 それは紛れもない本音だが、あるいは言い訳に過ぎないのかも知れない。
 ただ、勇気が無かったのだ。
 自身は彼の隣に並び立てる器では無いと、痛いほど自覚してしまっているが故に。

 だから。
 彼はあえて、今のポジションに甘んじることを選んだ。


「――いつもそうだが、あんたは謙虚すぎるな」
 だが、とアイクは続けた。
「そんなあんただから、俺はずっと尊敬してきた。
 そして、これからもそれは変わらん」
 真っ直ぐなその言葉は、青年にとって何よりも嬉しくて愛しくて――そして、残酷だった。
 変わらない彼。変わらない距離。……変わらない、関係。

「――光栄だよ」
 照れたような苦笑を浮かべたオスカーは、それを誤魔化すかのように、ポットに残ったミルクを新たなカップに注いだ。


「……あんたには、今まで散々苦労をかけたな」
 対面に座ってカップを傾けるオスカーに向かい、不意にアイクが呟いた言葉。
 ――かつて、それと同じ台詞を、同じ相手から告げられたことを思い出す。
 それは四年前、否応なしに世界の命運を賭けた戦いに巻き込まれた青年を気遣うオスカーに対し、彼が返してきた言葉。

「……良いんだよ、そんな事。
 だって、私達は『家族』だろう?」
 家族――その言葉を口にする資格が、果たして自分にあるのかどうか。
 いつもの穏やかな微笑みに一片の自嘲を隠して、オスカーはそう答えた。

 あの時は、「これからもついて来てくれるか」と続けた彼。
 けれど――四年が過ぎた今。
 しばらく待ってみても、その言葉が目前の青年から発せられることは無かった。


 こんな夜更けに、彼がここで独り何を思っていたのか。
 オスカーは解ったような気がした。

 もしかしたら、彼は――


「……私の料理で良いなら、またいつでも作るよ」
 だから、オスカーはただそれだけを告げる。
 それはこの場からの暇を知らせる言葉でもあり――餞別の言葉でもあった。

 止めはしない。理由も訊かない。
 ただ、帰る場所はいつだってここにあるのだと……『家族』として、それだけは彼に伝えておきたかった。

 オスカーの言葉に、アイクは一瞬、驚いたように眉を上げ。
 やがて、微かな笑みを口元に刷いた。

「……ああ。ありがとな」


 ――その約束が果たされることは、もう二度と無いのだと知っていても。
 実の兄のように慕っていた青年の言葉を、アイクは素直に嬉しいと思った。





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