5. 遺されし契約



 月が無くとも、喧噪に満ちた街が闇に包まれることは無い。
 仕事帰りの人々で賑わう通りを、一人の青年が縫うように進んでいく。立派な体格とは裏腹に、無駄のない動作で人混みをすり抜ける様は、明らかに熟練した戦士のそれだった。
 一種独特の存在感と堂々とした佇まいは、人波の中にあっても目を惹く。事実、彼に注意を向け、その姿を目で追う者は決して少なくなかった。
 しかし、それも一瞬の事。
 人々は皆、すぐに視線を外して通り過ぎてゆく。数分もせぬうちに、青年の事など忘れ去り、意識の片隅にも残すまい。

 ――女神を倒し、この世界を救った不世出の勇者も、こうしてその正体を知らぬ者達の中に紛れれば、単なる通りすがりの一人となる。
 その本当の姿を知る者は一握り。彼の名ばかりが称えられ、一人歩きし……やがては、伝説の中で神格化するのだろう。
 「英雄」とは、そうして作り上げられるものなのだ。


 表通りから路地へと入った彼は、やがて一軒の酒場を見つけ、その扉をくぐる。
 そして真っ直ぐカウンターに向かい――今まで一度も使うことの無かった言葉を、告げた。

「――火消しに用がある」



「――呼んだか」
 その男は、果たして指定した刻限ぴったりに現れた。
 通称『火消し』――凄腕の暗殺者フォルカ。それすら本来の名であるか解らない、正体不明の男は、かつてグレイルと契約し、それを引き継ぐ形で息子のアイクとも契約を結んでいた。

 一年ぶりの邂逅。だがそれを懐かしがる言葉は、両者の間には不要であった。
 必要なのは――ただ依頼内容と、それに対する返事のみ。


「……あんたに、頼みたい事がある」
 一瞬の沈黙の後、青年は静かにそう切り出した。
「――ほう」
 神そのものが喪われ、メダリオンの脅威も無くなった今、彼は何を依頼するというのか。
 その猛禽のような目には、微かに興味を惹かれた色が浮かんでいた。
「内容を聞こうか」
 真夜中の町外れ、打ち捨てられ崩れた砦跡。
 そこで対峙する男は、まるで古代の亡霊かと思うほどに気配を感じさせない。
 問われた青年は、珍しくもしばし躊躇うように沈黙し――やがて口を開いた。


「近いうちに、俺は旅に出る。
 ――もう、戻ることは無いだろう」

「……」
 その言葉に、男がどのような感情を抱いたのか……顔面の筋肉一つ動かさぬその様子からは窺い知れなかった。

「――俺は、どうやらもう人でなくなりつつあるらしい。
 神を殺したことで、人間の器を越えてしまったんだと……そう言われた。他ならぬ、女神自身にな」
 ただ淡々と、青年は必要な事実のみを告げる。
 その表情や口調に哀しみが見られないのは、既に覚悟を決めたからか。
 あるいは――彼が既に人でなくなりつつあるからなのか。

「ベオクでもラグズでもない、あえて言うならその先祖マンナズ――もしくは、神そのものに近い存在だと」
 そう彼に告げたのは、女神の欠片たる少女。
 しかし彼女は、彼の身に起きている現実以上のことは口にしなかった。信じるか否か、どう行動するか――あとは全て本人が決める事だと。
 だから青年には、このまま今まで通りの生活を続けるという選択もあったはずだった。

「人で無い者は、人の中では暮らせない。
 ――だから、去ることにした」

 だが、彼はそれを選ばなかった。
 一年前の戦いにおいて、女神を討つ事によってこの世界は平穏を得た。自分達を生み出した母の手から自立して、ベオクとラグズは新たなる時を歩んでいこうとしている。
 その矢先、再び神に近い存在が現れたなら――?

 かつて、クリミアを救った英雄と称えられた彼は、流れゆく時の中で自身の名と存在が歪められ捻れていく様を目の当たりにした。
 例え自身にその気が無くとも、このままヒトに交わって暮らしていれば、あるいは何らかの歪みをもたらす事になるやも知れない――自分の存在によって世界が混乱する可能性を、彼は見過ごせなかったのだ。

 全てを守る為に、全てを捨てて去る。
 それが、彼の選んだ答えだった。


「俺が去った後――その理由を、傭兵団の皆に伝えて欲しい。
 それが、一つ目の依頼だ」
「……一つ目?」
 僅かに、ほんの僅かに片眉を上げ、男は呟くように問うた。

「二つ目の依頼は――正直、長くかかる。
 もしかしたら、あんたの一生をもってしても、完遂出来ないかも知れん」
 そう告げて、アイクはほんの僅か、すまなそうに眉を下げた。自身でも、無理なことを頼んでいる自覚は十分あるといった表情だった。
「だから――この依頼は、あんたが他の仕事を請けてない時、手が空いている時にやってくれればそれで良い」
「――変則的な依頼だな」
 ぼそりと呟いたその声に、話を遮ろうとする意図が感じられないのを確認して、青年は言葉を続けた。
「……俺が去った後、もし妹の身に何らかの危険が迫るようであれば。
 その時は、力を貸してやって欲しい。
 ――これが、二つ目の依頼だ」
「……なるほど」
「金は、出来る限り用立てるつもりだが……足りなければ、二つ目の依頼は諦める」
 必要なことは全て告げたとばかりに、それっきりアイクは沈黙した。
 しばし思案するかのような間の後、フォルカが青年に向かって低く問う。

「――ひとつ、訊こう」
「……何だ?」
「最初の依頼は、あんたが旅に出る理由を傭兵団の連中に伝えるというものだった。
 ――何故、その理由を最初に話した?
 俺が依頼を請けるか否か、返事を聞いてから伝えれば良かったろうに」
 その問いに、青年は僅かに片眉を上げる。
 指摘されて初めて気づいた、と言わんばかりの顔だった。
「……そう言えば、そうだな。
 正直、そこまで考えてなかった」
 あっさりとそう言って、アイクは肩をすくめる。
「まあ、あんたは素性はともかくとして、仕事に関しては信用がおけるしな。
 依頼を請けようが請けまいが、さっきの話をベラベラ喋ったりはせんだろう?」

 そんな彼の言葉を聞いて。
「……ふ」
 マスクの下、フォルカは微かに口の端を持ち上げた。


 これだから、この男は――。


「――良いだろう。
 その依頼、二つとも請けてやろう」
「そうか。有り難い」
 フォルカの回答に、アイクはどこかほっとしたような表情を浮かべた。

「それで、報酬の件だが――」
「構わん」
「……何だと?」
 切り出した言葉を遮るように放たれた短い返答に、アイクは眉を寄せた。
「必要ない、と言った」
「必要ないって……そういうわけにはいかんだろう」
 釈然としない表情の青年に、相変わらず感情の読めない声で男が告げる。
「――特別だ。
 前者はともかく、後者は報酬の計算が面倒過ぎる」
 僅かに肩をすくめるような動作を見せた後、フォルカは身を翻して契約相手たる青年に背を向けた。
「心配しなくとも、請けた仕事はきっちり果たす。
 ――この『火消し』の名に賭けて、な」

「――すまん。恩に着る」
 肩越しに発せられた言葉に、アイクは礼を述べた。
 契約成立だ、の一言を残し、闇に溶けるように音も無く去っていくフォルカ。


「――暴走したあんたを始末するって依頼に比べりゃ、楽なもんさ」

 その呟きは、果たして青年の耳に届いたか。



 裏の世界において、今なお語り継がれる伝説の暗殺者が居る。
 その名はフォルカ――通称『火消し』。

 金さえ払ってもらえれば、どんな汚い仕事でも引き受ける――逆に言えば、金が支払われないなら仕事はしない。それが『火消し』フォルカのポリシーであり、決して曲げられぬルールだった。

 だが――彼はその生涯でただ一度だけ、それに背いた。

 今となっては、その理由を知るべくも無い。おそらく彼自身にすら、永遠に謎のままであろう。
 今はただ、己のルールを曲げてまで結んだ青年との契約を、『火消し』はその生涯をかけて成し遂げた――そんな噂だけが、裏世界の片隅に残っているのみである。





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