幕間
『世の塵を払い、民を守る』
古の契約。それが、璃月という国の始まり。
『そう、人間にとっては、何よりも利のある契約だったことでしょう』
大地を祝福するように、咲き誇る瑠璃百合。
蒼くつややかな花弁に触れ、「彼女」が言う。
『でも、貴方に——庇護する側にとって、その契約は果たして公平なのか』
『貴方は強い。
けれどその強さは、きっといつの日か、貴方に孤独という名の摩耗をもたらす』
意味のわからない戯言としか思っていなかった、「彼女」の言葉。
狂った友を自らの手で処断した時、彼はようやくその真意を理解した。
多くの出会いを得て、また同じだけの離別を経た。
いつだって、彼は去られる側だった。縁を結んだ者は皆、またたく間に彼を置いてその生を終えてゆく。
強靱なる神岩。この世界において、長き生がもたらす摩耗を誰よりも知る者。
移ろいゆく浮世にあって、その呪いは常にひたひたと、彼の背後をついてきた。水のしずくが石を穿つように、少しずつ魂を削りながら。
——「彼女」はきっと、こうなることを知っていたのだろう。
男の手の中で、石の錠が囁くように淡くきらめいた。
3
「ちょっとお人好しすぎるよ、先生は」
呆れと苛立ちを一緒くたに煮詰めたような顔から発せられた言葉に、鍾離は思わず苦笑いを浮かべた。
ずいぶんと機嫌を損ねたものだと、先程の顛末を思い返す。
旅人と共に歩いていた鍾離を呼び止めたのは、以前彼に助けられたという男性だった。
店で偶然見かけた、非売品のかんざし。ある男性が、妻の薬代を工面するために質に入れたものだと店主から聞いた鍾離は、それを倍の値段で買い取り、元の持ち主へと返した。その上、当面の生活費まで援助したのだ。
そのおかげで、妻の病気も快方に向かっていると、男は何度も頭を下げて青年に感謝を述べた。
男性が去った後、一連の事情を聞いた少年はしばらく呆然として——ようやく発した第一声が、先刻の台詞というわけだった。
「あのかんざし、一見して価値あるものと判ったからな。せっかくの貴重な品なのだから、出来るならば手元に置き続けてもらいたいと思ったまでだ」
「……そういうことじゃなくて」
説明するも、幼さを残す面に浮かぶ呆れがいっそう深まったのを見て、青年は首を傾げる。
「かんざしを買い戻してあげたなら、それで十分じゃない?」
「かんざしだけを返したところで、今後も薬を買えるだけの余裕がなければ、いずれまた手放さざるを得なくなるだろう?」
「だからって……」
言いかけて、はあ、と少年は大きなため息をついた。
「人助けはいいけど、限度ってものがあるんじゃないかな」
「ふむ。そう言うお前も、俺から見れば大概だと思うが?」
「うっ……」
痛いところを突かれた表情で、空が押し黙る。自覚はあるのか、と青年は口に出さず笑った。
何やらぶつぶつ言っている少年のつむじを見下ろして、それにしても、と鍾離は疑問を抱く。
言ってみれば他人事でしかないこの件に、何故当事者でない彼がここまでへそを曲げているのだろうか。
「まあ、既に終わった話だ。そうむきになるな」
「別に、むきにはなってないけど」
十分なっているだろう、と青年は内心苦笑する。
「ただ、そうやって困ってる人を見るたびに援助してたら、キリがないって思っただけ。
もう自由にモラを生み出せる力は無いんだから、自分が生活していけなくなっても知らないよ」
「確かにその通りだが、俺のことなら特に問題はない」
人間と違って飢えることがないからな。そう告げれば、相手はじとりと半眼で見上げてくる。
「……先生。本当に凡人になる気、ある?」
「もちろんだ。これでも努力しているんだぞ」
心外だと口を尖らせるも、返ってきたのは盛大なため息ひとつ。言葉こそ無かったが、彼が納得していないことは傍目にも明らかだった。
相手にこれ以上話を続ける様子が無さそうだと見て取り、青年は先に立って歩き出した。
太陽は既に高く上り、暖かな日差しを地表に注いでいる。急ぎの行程ではないが、流石に少し歩みを早めるべきだろうか、などと考えていた時。
ふと、斜め後ろから小さな呟きが聞こえた。
「そこまでして、人を救おうとしなくても」
もう、神様じゃないのに。
足を止めて振り返り、鍾離は黄金の瞳を瞬く。
人の機微——とりわけ、自身に向けられるそれに疎い彼であっても、その言葉がどういう意図で発せられたかは理解できた。
なるほど得心がいった、と青年は微笑む。要するに、この少年は。
「俺を案じてくれたのか」
軽く上体を屈め、合わせようとした視線は見事に避けられた。横を向いたまま、金の髪を掻き上げる仕草は、どこか決まり悪そうで。
「……危なっかしいんだよ、先生は」
「ははっ、違いない」
何せ、凡人としては駆け出しだからなと、鍾離は笑う。
そう、自身を気遣う旅人の気持ちを察するのに、これほど時間をかける程度には。
「——いわゆる職業病、というやつなのかもしれないな」
そう呟くと、空が不思議そうに見上げてくる。疑問を浮かべた蜂蜜色の瞳に微笑みかけて、鍾離は言葉を続けた。
「七神であった俺にとって、この世界に生きる人間はすべからく守り導く対象だった。たとえ璃月の民でなくとも、だ」
璃月の街並みに視線を向け、青年は懐かしむように目を細める。
「凡人として生きると決めたものの、まだ神だった頃の感覚を引きずっているのだろうな、俺は」
「テイワットの、人間……」
黙って鍾離の話を聞いていた少年は、しばし考えるように沈黙した後、ふと顔を上げた。
「——じゃあ、俺は?」
「ん?」
投げかけられた意図を掴みかね、首を傾げる青年へ、空はさらに問いを重ねる。
「俺は、先生にとってどんな存在?」
そう問いかける彼が、ひどく真剣な目をしているように見えて。
鍾離は一瞬、返す言葉に迷った。
二人の間に、長いとも短いともつかぬ沈黙が流れて。
「なんて、ね」
一転、冗談めかした風に少年が笑った。悪戯っぽい笑顔に、先程までの真面目な表情の名残はどこにも無い。
「ほら、俺はテイワットの外から来てるけど、先生に守ってもらえる対象に入るのかなって」
「……ああ、当然だ」
本当に、それだけの意図だったのか?
そう問いそうになった言葉を、鍾離は飲み込んだ。
群生するラズベリーを前方に見つけ、駆けてゆく小柄な背をゆったりと追いながら、青年は目を細める。
(縁とは、実に数奇なものだな)
異邦より訪れし旅人。テイワットという世界の理に囚われぬ者。
先程の問いには是と答えたものの、彼は鍾離が護るべき対象と認識している「テイワットの人間」ではない。かといって、自身と同じ魔神でもなければ、仙人でもない。
庇護対象でもなく、同族でもなく——どこまでも異質でありながら、どこか自分と近しいものを感じる、不思議な少年。
『俺は、先生にとってどんな存在?』
——あの時、何故「友だ」と即答しなかったのか。
その理由は、鍾離自身にもわからなかった。
4
朝と言うには遅いが、昼食の時間にはまだ早い、そんな時刻。
璃月港の入口に、冒険者協会からの依頼で一仕事を終えた旅人の姿があった。
「今回は思ったより早く終わったなぁ」
伸びをするパイモンに、そうだねと相槌を打ちながら、少年は頭上の太陽を振り仰ぐ。
「約束の時間にはまだ早いけど……どうしようか」
「今から行ってもいいんじゃないか? 外で待ってればいいし」
特に反論するだけの理由も見当たらなかったので、空はその意見に従い、目的地へと歩き出した。
目抜き通りに面した一郭にも関わらず、往生堂の周囲に人影は無かった。通りの喧騒すら、どこか遠く聞こえるような気がする。
待ち合わせの時間まで待っていようと、空は店前に設えられた石造りのベンチに腰を下ろす。しかし、それから十分もしないうちに、往生堂の玄関から長身の青年が姿を現した。
「あれ、鍾離だ」
パイモンの声に、男は意外そうに軽く眉を上げた。
「もう来ていたのか。早いな」
「依頼が早く終わったから。先生こそ、まだ時間にはだいぶ早いけど?」
こちらも予想外といった顔で、空が問い返す。
「予定が一件、先方の都合で急遽中止になってな。
半端に時間が空いたので、どうしたものかと思っていたところだ」
ちょうど良かったな、と鍾離が笑う。
ベンチから立ち上がり、その長身を見上げたところで、空はふと微かな違和感を覚えた。
いつも通りの、優雅な佇まい。しかし、何かが足りないような……。
「うーん……?」
「どうした」
怪訝そうに首を傾げる青年をまじまじと眺めて、あ、と手を打つ。
違和感の正体は、彼の左耳だった。いつもそこで揺れている、石珀をあしらった耳飾りが見当たらない。
「先生、耳飾りはどうしたの?」
「ん? ああ……よく気づいたな」
左耳のあたりに手をやって、鍾離は感心したように頷いた。
「留め金が壊れてしまってな。修理に出しているんだ」
「すごいな、空! オイラ全然わかんなかったぞ」
パイモンの称賛に、少年は曖昧な微笑みで応える。
「冒険には注意力が大事だからね」
小さな装飾品ひとつ。たったそれだけの変化に気づけるほど、彼のことをつぶさに見ていたと認めたくなくて、そんな風に誤魔化した。
「別のを着ければいいのに」
「こういった物は、あまり持っていなくてな」
特に気に留めていない様子で、鍾離が答える。この青年なら、さぞかし上質な装身具を数多く所持しているだろうと思っていただけに、空には意外な返答だった。
「見慣れてるせいかな。やっぱり、何か違う感じがする」
佇む青年の周囲をひと回りして、空は感じたところを素直に述べた。耳飾りひとつ欠けただけでも、何となくいつもとバランスが違って見える。逆説的に、それだけ彼の装いが完成されているという証左だが、当人にはいまいち自覚が無いようだった。
「そういうものか?」
「うん」
「ふむ……」
顎に手を添え、しばし考えた後。
ならば、と一計を案じた顔で、鍾離が提案する。
「ここはひとつ、お前に新しいものを見立ててもらおうか」
「うん。……って、え!?」
反射的に頷いてしまってから、空は慌てて訊き返す。
「見立てるって……俺が、先生の耳飾りを?」
「ああ。ちょうど、昼時まで時間があることだしな」
しまった藪蛇だった、と空は内心で頭を抱えた。約束の時間より早めに着いたことが、まさかこんな事態を招くとは。
「もちろん、代金は俺が払うぞ。あくまでお前に選んでもらいたいだけだからな」
「いや、気にしてるのはそこじゃなくて……」
言葉を切り、かぶりを振る。理由を説明したところで、おそらく彼にはいまいち的を得ない話だろうし、自分としても詳らかにしたくない部分だった。
本音を言えば、丁重にお断りしたい。
この青年が身に着けても見劣りしない、という条件の時点で相当な難題だ。下手なものを選んで、彼に失望されたくはなかった。
しかし、だ。
「お前が俺にどんな品を見立てるのか、興味がある」
——これほど期待に満ちた目を前にして、すげなく断れようはずもなく。
諦め半分、自棄半分で、空は覚悟を決めた。
「まあ、いいけど……あんまり期待はしないで」
「なに、大丈夫だ。お前の感性は信頼しているからな」
この人に認めてもらえていることが嬉しい反面、その信頼を裏切れないという重圧が同時にのしかかる。
楽しそうな青年を横目に、空は独りひそかに気合を入れ直した。
※
鍾離に連れられてやってきたのは、表通りからやや奥に入ったところにある宝飾店だった。
首飾り、腕輪、かんざし——さほど広くはない店内に、色とりどりの装飾品が並んでいる。昼前という時間帯もあってか、他に客の姿は見当たらなかった。
上品な雰囲気の女性店員は、いらっしゃいませ、と出迎えたきり、特に近寄ってくる様子はない。客に落ち着いて選ばせるためか、無闇に商品を勧めてこないあたりも、鍾離の好みらしい店だと空は思った。
「俺はここで待っている。ゆっくり見てくるといい」
店の入口横に佇み、青年が促す。わかったと頷き返し、空はパイモンを伴って店内へと踏み出した。
「おぉ……ど、どれも高そうだなぁ……」
いつもは騒がしい少女も、上品な雰囲気に気圧されてか、神妙な面持ちだった。どうにも場違いな気がしているのは空も同じで、心なしか首をすくめながら陳列棚の間を歩く。
目当てのコーナーは、店の右隅にあった。天鵞絨を張った棚に、意匠を凝らした耳飾りが並んでいる。不用意に触れるのは憚られて、空は上体を屈めて見つめるだけに留めた。
耳飾りは空自身も着けているが、着飾るという行為にはさほど興味がなかった。
何よりこの耳飾りをはじめ、自身がまとう衣装は全て、行方の知れない双子の妹との繋がりを示すもの。彼女が自分を見つけられるよう、この装いを変えるつもりはなかったから。
とは言え、こんな事態になるのなら、少しはこの手の経験もしておくべきだったかもしれない。
今更すぎると自嘲しつつ、空は思い切って、陳列された商品のひとつに手を伸ばした。留め具を慎重に摘まんで、目の前にぶら下げてみる。
細い金鎖に繋がれ、優雅に揺れる黄玉。角度によって黄金にも見える色彩は、まるで——
(先生の瞳みたいだ)
店内の薄暗い照明を受けて、淡くきらめくその様は、空の脳裏にひとつの記憶を呼び起こす。
月明かりの下で見た、永遠とも思える刹那の光景を。
——その日は探索が長引いたせいで、戻ってきた時、既に璃月港には夜の帳が下りていた。
少しでも近道をしようと山側を進んでいた時、先導していたパイモンが声を上げる。
「なあ、あれって鍾離じゃないか?」
釣られて空が視線を向けると、璃月港を一望できる位置に佇む長身のシルエットが見えた。夜闇の中、海風になびく髪が金色の軌跡を描く。
この時間にあんな所で、彼は何をしているのだろう。
疑問に思った少年は、足音をたてないようにそっと距離を詰めていった。
刹那。
流れた雲の切れ間から、隠れていた月が現れる。
月明かりに濃紺の宵闇が払われ、佇むその人がはっきりと見えて——
「ほら、やっぱりそうだ! おー……」
呼びかけようとしたパイモンの口を、空は反射的に塞いでいた。
二人に気づく様子もなく、鍾離は眼下の璃月港を見つめている。その白皙の横顔を、少年は呼吸すら忘れて食い入るように見ていた。
慈愛、追憶、そして寂寥。あまりにも複雑な感情を秘めた黄金の瞳に、視線が囚われる。
——目が、離せない。
数千年を生きる魔神。その長き生の中で、彼はどれほどの出会いと別れを繰り返し、今ここに立っているのか。
空自身も、見た目以上に長い時を生きている。だからこそ理解できる——全てを忘れられぬまま幾千年を生きるなど、あまりに重すぎる呪いだと。
どれだけの間、その姿に見入っていただろう。
腕の中でパイモンがもごもご呻きながら暴れ出し、空は我に返った。
「……ぷはぁっ! なんだよいきなり! オイラを窒息させる気かぁ!?」
「ご、ごめん」
二人のやり取りを聞きつけたのか、青年がこちらを振り返る。驚いたように軽く見開かれる双眸に、先程までの色は既に無かった。
「お前達か。どうした、こんな所で」
近づいてくる鍾離に対し、見てはいけないものを目にしてしまったような決まり悪さを覚え、少年は思わず視線をそらす。
「その、探索で遅くなったから近道しようかと……先生こそ、こんな時間にどうしたの」
「俺か。まあ……少し散歩をな」
涼やかな唇が、苦笑めいて弧を描く。
嘘は言っていないが、全てを明かしてもいない——そんな空気を察しつつも、少年にそれ以上追及する余裕は無かった。
そこから先は、正直はっきりと覚えていない。
ただ——月明かりの下、璃月港を静かに見下ろしていた鍾離を目にした時、自身の心に芽生えた感情があまりにも不可解で。
混乱する思考の中、その理由を必死に考えていたことだけは、鮮明に記憶している。
『このひとを守りたい』
悠久の時を生き、人知を超えた力を持つ彼に対して、何故そんな想いを抱いたのかはわからない。
けれど、底知れぬ感情を閉じ込めた黄金に目を奪われたあの瞬間、確かにそう思ったのだ。
あの日以来、何かがおかしくなった。
事あるごとに、彼を思い出すようになったのも。
共に居る時、無意識にその姿を目で追っているのも。
笑顔を向けられるたび、思わず視線を逸らしてしまいそうになるのも。
全てはあの夜、彼の瞳を見てしまったせいだ——。
はたと我に返り、空はがしがしと金髪を掻き回した。傍らのパイモンが、ぎょっとして身を引く。
「だ、大丈夫か? ちょっと休憩するか?」
「……なんでもない」
軽く頭を振って、思考を修正する。
こんなことを考えている場合ではない。ただでさえ難題なのだ、もたもたしていると昼食の時間どころか、日が暮れてしまう。
改めて、空は目の前に並ぶ装飾品へと意識を集中させた。
黄玉、琥珀、金緑石、黄水晶、日長石。かの青年に似合うものを、と考えれば考えるほど、似通った色ばかり手に取ってしまう。
——深い黄金の瞳が、脳裏に焼きついて離れない。
難しい表情で、様々な耳飾りを取っては戻すのを延々と繰り返している空に、パイモンが見かねて口を出す。
「なあ、今のは結構いいんじゃないか?」
「うん……」
生返事と共に、少年は目の前の陳列棚を睨む。
「確かに、無難だと思う。
でも、先生が持ってるのと似たようなものじゃ、選ぶ意味が無いかなって」
請われてとはいえ、せっかく彼のために見立てるのならば、少し変わった趣向のものを選びたかった。
かと言って、あまりに奇をてらったものでは彼も困るだろう。新鮮な印象を与え、それでいて彼に馴染むような品があれば——
「あっ」
ぼんやり考えながら動いたのがまずかった。新たな候補を取ろうとした手が棚に当たり、その衝撃でいくつかの耳飾りが平台の上に落ちてしまう。
背中にやんわりと刺さる店員の視線を幻視して、空は冷や汗をかきながら身を屈めた。散らばった商品を拾っては元の位置に戻し、残りは一つ——と、伸ばした手がふと止まる。
「どうかしたのか?」
怪訝そうなパイモンの声にも答えず、空はその耳飾りをそっと拾い上げた。
まず目を惹いたのは、精緻な透かし彫りを施した球形の金細工。その内に、丸く磨かれた紅い石が一粒収められている。
さらにそこから、白と黒の二色で編まれた組紐のような飾りが下がっており、終端をこれまた細かく紋様を彫り込んだ金具で留めてあった。
目線よりやや上に持ち上げ、灯りにかざしてみる。
オレンジの光を受け、控えめにきらめく金の鞠。その透かし彫りが瑠璃百合を模していることに、空は気づいた。細工の合間から覗く石の、深い朱寄りの紅が美しい。
角度を変えながら、ひとしきり眺め回して。
うん、と大きく頷く。
(これなら、きっと似合う)
コンパスが方角を指し示すように、直感がそう告げていた。
空が入口の方を振り返ると、ちょうどこちらを向いた青年と目が合った。手招きに従い、陳列台の間をぬって長身が近づいてくる。
「決まったか?」
傍らに立った青年に、空は手にしていた耳飾りを差し出した。
「これ、どうかな」
一瞬、意外そうに眉を上げた鍾離の唇から、ほうと小さな呟きがこぼれた。感嘆するようなその響きに、少なくとも一目見てがっかりされる品ではなかったようだと、ひそかに胸をなで下ろす。
そんな空の内心をよそに、青年は鏡の前に立った。顔にかかる髪をよけて、受け取った飾りを耳に当てる。
「——ふむ」
満足げに頷いて、鍾離は手を下ろした。
「では、これにしよう」
「いいの?」
あまりの即決に、思わず疑問を呈する。彼は至極真面目な顔で、もちろんだ、と頷いて。
「やはり、お前に頼んで正解だった」
そう、嬉しそうに笑うものだから。
目を奪われ、返すはずの言葉を忘れてしまった。
「あ……えっと、うん」
もそもそと要領を得ない言葉を発する少年をよそに、鍾離はさっさと店員の方へ向かう。
「ありがとうございます。お包みいたしますか?」
「いや、構わない。ここで着けていく」
「かしこまりました」
会計を済ませると、青年は台に置かれた丸鏡の前で、受け取った耳飾りを着ける。
店員に礼を述べ、店の出入口へと向かう背中を、空は慌てて追いかけた。
店を出たところで、鍾離が背後の少年を振り返った。
「どうだ、見立て通りか?」
頬にかかる髪を持ち上げて、左耳に揺れる買ったばかりの耳飾りを示す。瀟洒な中にも堅実さを感じさせるその意匠は、青年の持つ空気によく馴染んでいた。
「うん、すごく似合ってる」
「ふふん、当然だろ。旅人はセンスが良いからな!」
まるで自分の手柄と言わんばかりに、パイモンが自慢げに胸を張る。
「選んだのは俺だからね?」
苦笑しつつ、空は傍らの青年を見上げた。
「先生はどう? 気に入った?」
「ああ。良いものを見立ててもらった。礼を言うぞ」
整った面に満足げな微笑みを刷いて、鍾離は腕を組んだ。
「俺自身であれば、おそらくこの意匠は選ばなかっただろう。それでこそ、お前に頼んだ意味があったというものだ」
選んだ耳飾りを見せた時、一瞬驚いたような顔をしていた彼を、空は思い出した。
「特に、この石——紅瑪瑙か」
言いながら、人差し指で軽く耳飾りを弾く。金の透かし彫りの中で、深い朱赤の珠がころころと踊った。
「見ただけでわかるんだ」
説明されずとも、当然のように石の種類を把握している青年に、空は流石だと舌を巻く。まあな、と何でもないことのように頷いて、鍾離は旅人を真っ直ぐに見据えた。
「数ある商品の中から、お前はあえてこれを選んだ」
決め手はあったのか。そう問われて、少年はしばし宙を睨む。
最大の理由は直感だった。とは言え、これが彼に合うと思った根拠は一応ある。迷った末、空は口を開いた。
「新しく買うのなら、既に持ってるのと似たような物じゃ、あまり意味がないかなって」
それに、と言いかけて口を噤んだが、青年はそれを聞き逃さなかった。
「それに?」
2つ目の根拠について、言葉で説明するのはどうにも照れくさかったけれど、相手に促されては無視もできない。
「……先生に似合う色をって考えた時、瞳の金色もだけど、目元の赤も同じくらい印象が強くて」
だから、と。
「それと同じ色の石なら、映えるんじゃないかって思ったんだ」
目線を合わせずに淡々と告げた言葉に、青年は一瞬、意外そうに目を見張って。
「ふむ。そんな風に言われたのは初めてだ。
——やはり、お前の発想は新鮮で面白い」
実に楽しげに、相好を崩した。
どこか遠くで、正午を告げる鐘の音が鳴っている。
空腹を訴えるパイモンに急かされて、二人は今更ながら元々の目的を思い出した。苦笑めいた表情を見合わせ、どちらからともなく歩き出す。
右隣を歩く横顔を見上げた時、黒手袋に包まれた指が、愛おしげに耳飾りへ触れるのが見えた。
無意識であろうその仕草は、見立てられた品を喜ぶ彼の内心を、何よりも雄弁に物語っていて。
空は気恥ずかしさを覚えつつも、胸を満たす充足感を独りひそかに噛みしめていた。