淡い燐光を湛え、ひとりでに浮遊する岩。
 金属のようになめらかなその表面を、男は独り見つめていた。

 寸分の狂いも無く組まれた幾何学的な形状は、精緻な寄せ木細工を思わせる。
 細部にも妥協しない質だった「彼女」らしい造りだと、遠き友へ思いを馳せる。

『我が知恵の全てを、この錠に閉じ込めた』

 この不可思議な物体を見るたびに、「彼女」の言葉を思い出す。
『これは、私から貴方へ贈る盟約の証であり、挑戦状でもある』
 そうやって一方的に、謎かけを挑んでおきながら。
 今際の際に忘れろと告げて、静かに塵と消えていった親愛なる友の最期を。

 男は目を閉じ、ひとつ息を吐いて。
 宙に浮かぶ「錠」へと手を差し伸べた。

 幾度となく、開こうと試みた。謎を解いたことを伝える相手がいなくなってからも、ずっと。
 もし、これを解くことができたとしても、人として生きると決めた身には、おそらく必要の無い遺産だろう。
 それでも、かつての盟友が遺した形見なれば、開錠を諦めるのは契約に反する気がして、こうして折に触れては眺めている。
 だが——その封は、未だ緩む気配すら見せていない。

『もし、この錠を開くことが出来たならば——』

 その言葉の先を明かさぬままに、「彼女」は消えて。
 託された「錠」を、彼は今も開けられずにいる。



「欲しいもの?」
 頬張っていた白玉団子をごくんと飲み込み、少年は猫のように目を丸くした。
 少々、切り出し方が唐突だったか。そう内省しながら、青年は対面の相手に向けて言葉を重ねる。
「ああ。今回の件、お前には世話になったし、迷惑もかけたからな。その礼がしたい」
 そう告げる鍾離に対し、旅人は首を横に振った。長く編んだ金の髪が、その動きに合わせて緩やかな弧を描く。
「別にいいよ。食事も奢ってもらったし、これで十分」
「ふむ。欲の無いことだな」
 腕を組む鍾離に、少年は悪戯めいた笑顔を向ける。
「先生に何か買ってもらおうとしたら、また財布を忘れてきそうだし」
「む。そんなことは……」
 無い、とは言い切れずに眉をしかめれば、旅人がおかしそうに笑った。その顔がわずかに赤みを帯びているように見えるのは、デザートに食べた酒醸団子のせいか。酒にはあまり強くないようだ、などと埒もない考えが青年の脳裏をかすめる。

「俺にも自分の目的があって、そのために動いただけだから。先生が気にする必要はないよ」
 幼さの残る面にそぐわぬ、大人びた口調。
 その点については、鍾離も承知していた。彼が送仙儀式の準備に協力したのは、七神に会うという目的のためだと。
 だからこそ、自身がその一柱であると名乗ることなく、結果的に彼を騙した形になってしまったことには、いくばくかの罪悪感を覚えているのだ。

「そう言ってくれるのはありがたい。だが」
 組んでいた腕を解き、鬱金の双眸を真っ直ぐに相手へと向ける。
「お前には、璃月を救ってもらった大恩がある。俺も相応に報いねば、不公平というものだろう」
 だから、と続ける。
「今の俺に出来ることは限られるが……それでも、お前の望みを叶えたい」

「ほんとに気にしなくていいんだけど……」
 うーん、と匙を握ったまま、少年は考え込んで。
 しばしの後、何かを思いついたように顔を上げた。
「それじゃ、ひとつだけ」
「ああ」
 頷く鍾離を、蜂蜜色の瞳が見つめる。

「——俺のこと、名前で呼んでくれないかな?」

 壇上では、講談師が次の演目を語り始めたところだった。
 その朗々たる声と、周囲の客のざわめきが、相手の言葉を聞き間違えたかと青年に錯覚させる。

「……何?」
 金の双眸を瞬いて、鍾離は思わず訊き返していた。
 彼の当惑を予期していたのか、少年はどこか気恥ずかしそうな苦笑と共に言葉を継ぐ。
「ほら、みんな俺のこと『旅人』って呼ぶから。
 それが嫌なわけじゃないんだけど……たまに『ああ俺は余所者なんだ』って、そう感じちゃう瞬間があって」
 ぽつりと吐露されたその感情は、鍾離にも覚えがあるものだった。魔神、仙人、そして神——同じテイワットの地に生まれ落ちながら、自身は常に人間とは異なる存在であったから。
 人の世に溶け込みながらも、本質的には決して交われぬ存在であるがゆえの疎外感。その点において、この旅人と自分は似ているのかもしれないと、鍾離は思った。

「確かに、俺は『外』から来た異邦人だけど、この世界とは仲良くしたいって思ってる」
 だから、と。
 星の海を渡ってきた旅人は、そのささやかな望みを口にする。

「『旅人』じゃなくて、名前を呼んで欲しいんだ」
「俺はこれからも、先生と友達でいたいから」

 友達。
 予想外の言葉は、温もりと懐旧、そして微かな寂寥を伴って、鍾離の胸に響いた。

「って、これじゃ願い事二つになっちゃうな」
 しまったという表情の少年に、鍾離は腹の底からこみ上げる笑いを堪え切れなかった。
「ふ、ハハッ……全く、本当に無欲だな」
「えぇ……そんなに笑うところ?」
 笑い続ける青年を見て、驚きと憮然が半々といった顔の旅人が首を捻っている。鍾離はすまないと笑いを抑え、口元を綻ばせるに留める。

「それが、お前の望みなのだな」
「うん」
「承知した。ならば、これより俺はお前の友だ」
 空、と。
 聞き慣れない音ながら、不思議と耳に心地好いその名を呼べば、一瞬見開かれる瞳。

「良かった。俺の名前、ちゃんと覚えててくれて」
 そう言って、旅人——空は嬉しそうに笑った。




 雨模様だった前日とは打って変わって、この日は朝から雲ひとつない晴天だった。
 冒険者協会からの依頼をひと通りこなし、休憩を取ろうと立ち寄った望舒旅館。モンドと璃月を結ぶ街道の要衝は、今日も多くの人が行き交っていた。

「あれ、鍾離は?」
 同行していた青年の姿が無いことに気づき、パイモンがきょろきょろと辺りを見回す。
「ここで待ってろって言って、向こうに行ったけど……あ、戻ってきた」
 空の視界に、すっかり見慣れた姿が映る。ごく自然に人波をすり抜けながら、長身の青年がこちらへ歩いてきた。

「おかえり、先生。どこ行ってたの?」
「ああ、すまない。ちょうど屋台が出ているのが見えてな」
 そう言いながら、青年は小脇に携えていた袋から何かを取り出した。差し出された紙包みを反射的に受け取った途端、指先に熱が伝わってくる。
「これは……?」
 包みを開けば、そこには湯気をたてるモラミート。
 焼けた肉の香ばしい匂いが顔面を直撃し、空きっ腹がくうと現金な音を鳴らす。それを誤魔化すように、空は鍾離に問いかけた。

「えっと、先生?」
「ここのモラミートは絶品だ。冷めないうちに食べるといい」
 戸惑う空をよそに、鍾離はパイモンにも包みを差し出す。少女は目をぱちぱち瞬き、青年の顔と紙包みとを交互に見た。
「えっ……鍾離が? 買ってきたのか? 自分のモラで?」
「そうだが」
 ええー!? と素っ頓狂に叫び、パイモンが仰け反った。
「まずいぞ空……明日はぜったい大雨だ! もしかしたら嵐が来るかも……!?」
 ひそひそと空に耳打ちするパイモン。その言葉を聞きとがめ、青年の金の瞳がすうっと細まる。
「……ほう、なるほど。
 空、パイモンは要らないそうだ。これもお前が食べていいぞ」
「わあああごめん、冗談だって! オイラも食べる、食べるからぁー!」
 悲痛な声を上げ、真顔の鍾離にすがりつくパイモン。両者のやり取りに、空は堪え切れず吹き出した。

 ひとしきり笑った後、どうせなら景色のいい所で食べようと、二人を促して川縁へ移動する。
 適当な岩を見つけて腰を下ろせば、ごく自然な動作で鍾離も隣に座った。
 小さな口いっぱいにモラミートを頬張り、ご満悦のパイモンに苦笑しながら、空も自身の分を一口かじる。もっちりと柔らかい生地に挟まれた、焼きたての肉の旨味が口の中に広がった。
「うん、美味しい」
「言ったとおりだろう?」
 頷きながら、空は声の主を横目で見る。
 川面を眺めながらモラミートを口に運ぶその姿は、初対面の時の印象からはとても想像できないものだった。

 ——協力者を見つけた、とタルタリヤに案内された璃月の老舗料亭で、空は鍾離と初めて出会った。
 部屋に入った途端、こちらを真っ直ぐ射貫いた黄金の瞳。ひときわ鮮烈な印象を残す、紅を引いた目元。
 はじめましてと告げるその人が、恐ろしいほどに美しくて、思わず息を呑んだことを覚えている。

 それが今は、こうして川辺で並んで軽食をかじっているのだから、世の中というのはわからない。
 しかも、それが似合わないかと言えばそうではなく、何故か全く違和感が無いのだ。
 何か術でも使っているのか、それとも神とは元来そういう性質なのか——これほど目立つ風体をしておきながら、彼はこの璃月のどこにいても、周囲から浮くということがなかった。どこか浮世離れした、優雅な佇まいのままで、彼はいつでも自然にそこに在る。
 不思議な人だ、と空は思った。

 ひっそりと注がれる視線に気づいたのか、黄金の双眸が少年の方を向いた。
「どうした」
「あ、えっと……先生も、こういうの食べるんだなって」
 考えていたことをそのまま告げるのは憚られて、口ごもった後にそう告げれば、相手は怪訝そうに片眉を上げた。
「意外か?」
「何となくだけど、高級料理が好きって印象があったから」
「ほう。お前からはそう見えていたのか」
 空の感想を聞いた青年が、面白そうに笑った。

「質が良いものに高値がつくのは妥当だ。だが、それは安価なら質が悪い、と同義ではない。
 高級料理ばかりが、璃月の名物ではないからな」
 そう言って、鍾離は手に持った包みを示してみせる。
「青空の下、出来たての料理に齧りつく醍醐味は、高級料亭では味わえないものだろう?」
「うん。それは確かに」
 頷いて同意を示す空に、青年が微笑む。どこか嬉しそうなその笑顔を、少年は眩しげに目を細めて見上げた。

 最初の会食時は全く笑顔を見せなかったから、気難しい人物なのかと思っていた。
 只者と思えない雰囲気をまとう彼に対し、空は当然警戒した。往生堂の客卿を名乗るこの得体の知れない男は、一体何者なのかと。

 結果的に、彼が只者でないという部分は正しかった。しかし空が持っていた印象と比べて、実際の彼は……何というか、だいぶ愉快な人だった。
 言い値で買うと堂々宣言するくせに、たびたび財布を忘れては若干申し訳なさそうにする姿を見せられれば、警戒より呆れと心配の方が先に立つというもので。
 優れた才を持つ一方、どこか危なっかしさの抜けきらないこの青年を、いつしか空は警戒しなくなっていた。

「ごちそうさま、先生。ほら、パイモンも」
「ありがとな、鍾離!」
「ああ。これで少しは信用したか? 人に金を払わせてばかりの坊っちゃんではない、とな」
「うぅ……まだ根に持ってるぞ……」
「今後もちゃんと財布を忘れなければ、かな」
「……善処する」

 気を許しすぎているかもしれない、とは思う。
 警戒とまではいかずとも、ある程度距離を保っておいた方がいい相手だろう。探している神ではなかったものの、彼は七神の中でも最古の一柱。妹を連れ去った神と通じていない保証はどこにもないのだから。

 しかし空には、鍾離が自身に仇なす存在であるとはどうしても思えなかった。
 かつての彼は「契約」を司る神であった。契約を破るような真似をしない限り、こちらに対して誠実であろうとするはずだと、空はそう踏んでいる。
 何より、こうして璃月について語っている時の青年は、本当に楽しそうで——自らの手で作り上げ護ってきたこの国を、彼が心から愛し慈しんでいることを、聞いていて感じ取れるから。

(すっかり絆されちゃったなぁ)

 そう自覚はありつつも。
 いつしか、そんな彼の横顔を眺めるのが、空のひそかな楽しみとなっていた。





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