14


 天衡山の片隅、璃月港を一望できる場所で、少年は眼下の景色を眺めていた。
 正面に海を望み、背後は峻険な山々に囲まれた、テイワット屈指の貿易港。こうして上から全体を見渡せば、実に国の中心として理に適った立地だと改めて感じられる。

 今日の天気は快晴。陽光を受けてきらきらと輝く群青の中を、たくさんの船が行き交う。
 崖の縁に腰を下ろし、足をぶらつかせながらその光景を眺めていた空は、背後に微かな気配を感じて振り向いた。
 まばらに立つ樹々の向こうから、長身のシルエットが歩いてくる。待ち人の姿を認めた少年の口元に、自然と微笑みが浮かんだ。

「待たせてしまったか」
 真っ直ぐにこちらへ歩み寄ってきた青年を、空は立ち上がって出迎えた。
「大丈夫。俺も、今さっき来たところ」
 相手に気を遣わせまいと、ささやかな嘘を口にする。

「今日も、港は盛況のようだ」
 空の隣に並んで立ち、青年は眼下に広がる街並みを眺めた。その横顔を見上げる少年の脳裏に、ある夜の記憶がよみがえる。
「先生。前にもここで俺と会ったの、覚えてる?」
「ん? ああ、覚えているぞ」
 以前は夜だったな、と語る声にうなずく。
 あの時も、彼はこうして腕を組み、自らの築いた都をひとり静かに見下ろしていた——。

 あの晩、近道をしなかったら。
 あるいは、月が出ていなかったら。
 もしかすると、未来は変わっていたのだろうか。

 いや、と少年は否定する。
 多分、あれはきっかけに過ぎなかった。仮にあの夜、彼と出会わなかったとしても、自分はいずれ彼への想いに気づいただろう。
 悠久の時を見つめ続ける、その黄金に恋をした。魔神であり、仙人であり、かつての岩王帝君であり——そして今は「鍾離」と名乗るその人に。


「俺、鍾離先生が好きだよ」

 何気なく、まるで挨拶でもするかのように。
 気づけば、自然とそう告げていた。

 突然の言葉に、鍾離はいささか面食らった様子を見せた。
「何だ、藪から棒に。
 俺もお前には好意を持っているが」
 当惑気味に返ってきた答えに、そうじゃなくて、と笑ってかぶりを振る。
「そういう意味じゃないよ」
「どういうことだ?」
 いまいち要領を得ないといった表情で、鍾離は首を傾げている。その様子を微笑ましいと思いながら、空はつまり、と言葉を重ねた。
「先生に、恋してるってこと」
 さらりと、気負うことなくそう告げて、相手の反応を待った。

 受け取った言葉の意味を咀嚼しているのか、青年は黙したまま金の瞳を瞬いている。こちらを凝視するその顔は、例えるなら異国の言語を初めて耳にした子供のような、彼にしては非常に珍しい表情をしていた。
「……俺に?」
「うん」
「そうか」
 ふむ、と顎に手を添え、しばらく考えた後。

「なるほど。そうか……そういうことだったのか」
 何かしら、彼の中で符合する点があったのだろうか。難問の解を見つけたかのような顔で、ひとりうなずいている鍾離を見て、空は首を傾げた。
「先生?」
 ああいや、と青年は首を振り、旅人へと向き直った。
「ずっと、疑問に思っていたんだ。
 お前は何故、俺のことをここまで気にかけてくれるのだろう、とな」
「今、得心がいった。
 お前が、俺に懸想していたからだったのか」
「う……」
 自分で告げておきながら、その事実を彼本人の口から改めて言われると、無性に気恥ずかしくなってきて。
 幼さの残る顔を朱に染め、空は視線をそらした。

 照れ隠しにがしがしと金髪をかき回す少年に、鍾離が穏やかな視線を向ける。
「……しかし、お前がそんな風に思っていたとはな」
 いつから? と問われて、空はあさっての方を向いたまま答えた。
「たぶん、あの夜。
 ここで先生と会った時、かな」
 初めて、自分の恋心を自覚した瞬間。
 彼に想いを告げるなら、この場所をおいて他にないと思っていた。

「こんなこと言ったら、怒られるかもしれないけど」
 眼下の海へと視線を移し、空は潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。視界に広がるのは、あの時彼が見ていただろう景色。
「ここから、璃月港を眺めてた先生の姿を見て。
 ——守りたい、って思ったんだ」
 何故そんなことを思ったのか、空自身も長らく不可解だった。だが、今なら何となくわかる。その達観した眼差しの奥に、彼を脅かす「摩耗」の影を見たのだと。

「『守りたい』——か。
 ははっ、そんなことを言われたのは初めてだ」
 一瞬の瞠目の後、気を悪くするどころか、むしろ楽しそうに青年が笑う。
「やはり、お前は実に面白いな」
「……俺、褒められてるの?」
 苦笑交じりの軽口で返しながらも、それは長く生きすぎた彼にとって最大級の賛辞なのだと、空は理解していた。


「まずは、ありがとうと言っておこう。
 俺にそれほどの好意を寄せてくれていること、光栄に思う」
 柔らかく微笑んでいた面を引き締め、彼は一転して真面目な表情を浮かべる。
「その上で、俺もお前に返答したいのだが……ふむ。
 さて、どう言えばいいか」
 口元に右手を添える見慣れた仕草で、鍾離が考え込む。閉じられた目元の朱に視線を惹かれながら、空はかぶりを振った。
「無理に応えなくていいよ。ただ、伝えたかっただけだから」
 叶うなら、彼に受け入れられたいと願う気持ちは当然ある。けれど、彼を困らせてまで、答えを聞き出すつもりはなかった。
(だって、先生は)
 心の内で呟く。自分の推測が正しければ、彼はおそらく——。

 半ば悟った表情の少年を前に、鍾離はいや、と首を横に振った。
「お前が伝えてくれたその思いに、俺も正面から向き合いたい」
 しばしの沈黙を挟み、鍾離はゆっくりと話し始める。彼にしては珍しく、手探りしつつ喋っているような、どこかためらいがちな口調で。

「……正直な話、俺は人が抱く『恋』という感情がわからない」
「今は凡人として生きているとはいえ、俺は本質的に人ではない。実際のところ、知識としては知っていても、人間が抱く感情の機微は未だ理解の外なんだ」
「……うん。そんな気はしてた」
 青年の述懐を受け、空は静かにうなずく。やはり、自分の勘は当たっていたのだと。

 どこかで目にした伝承——人間の少女に恋い慕われながら、最後まで彼女を理解することはなかった魔神の話が、少年の脳裏をよぎる。
 薄々は察していた。神にとっての「愛」とは、庇護する民全てに等しく注がれるものであって、人間のそれとは本質的に異なるのだと。
 まして、かつての彼は公平を重んじる契約の神。これと定めたつがいとだけ交わす情など、むしろ在り方に反してすらいたのではないか。

「本質を理解しないまま受け入れては、お前の思いを軽んじることになる。
 だから、今この場で、俺もお前と同じ気持ちだと答えることは出来ない」
「……うん」
 わかってたよ、と空はあえかな笑みを浮かべる。
 想いの結末として、その返答を受け入れようとする少年に、しかし鍾離は首を横に振ってみせた。まだ話は終わっていない、といわんばかりに。
「その上で、聞いてほしい」
 そう前置きして、鍾離は真っ直ぐに旅人を見据えた。

「お前が、俺に懸想していると知って。
 上手くは言えないが……俺は確かに、それを嬉しいと感じているんだ」
 右手を胸に当て、そっと目を伏せる。常に明晰で自信に満ちた彼らしくもなく、その仕草には戸惑いがにじんでいた。
「感情とは、理屈でも契約でも測ることができないものだ。ゆえに、俺はこの感覚を無視すべきではないと思っている」
「先生……」
 息を呑む少年に、鍾離は自嘲めいた苦笑いを見せた。
「こんな曖昧な答えしか返せないのは、我ながらどうかと思うんだがな」
 歯がゆくはあるが、これが今の正直な思いだと、そう告げる口調はどこまでも誠実で。
 空はただ黙って、彼の言葉の続きを待った。

「俺は、お前が向けてくれる感情を理解したい」
 だから、と。
 月下に花開く瑠璃百合のように、彼は微笑んだ。
「人の抱く『恋』というものを、俺に教えてくれないか」


 きっと今の自分は、先程想いを告げた時の彼と同じような顔をしていることだろう。空は他人事のように思う。
 あまりに都合の良すぎる解釈ではないかと、彼の言葉を幾度吟味してみても、結局弾き出される結論はひとつだけだった。

 これは、つまり。
 ——了承、と受け取っていいのだろうか?

 断られるものと思っていただけに、にわかには信じられなくて。
「……いいの?」
 そう問いかけるしかできない空に、黄金色の眼差しが優しく注がれる。
「無欲なお前が自ら望んだんだ。俺に出来ることならば、応えてやりたい」
 未だ恋を知らない青年の答えは、あまりにも神様然としたもので、空は無理ないこととわかりつつも苦笑してしまう。
「やっぱり、ズレてるよね。先生って」
 素直な感想を述べれば、悪びれる風もなく笑って、その人は言うのだ。
「そこは、これからお前が教えてくれるだろう?」


 蒼く澄み渡る海を渡ってきた風が、佇む二人の服や髪を涼やかに撫でていく。
 眩しげに見上げる空の前で、鍾離は未知なる明日を待ち望むように、晴れやかに笑った。

「お前と共にいれば、俺の『摩耗』も和らぐ——そんな気がするんだ」



終幕


 淡い燐光を湛え、ひとりでに浮遊する岩。
 金属のようになめらかなその表面を、男は独り見つめていた。

『そう、人間にとっては、何よりも利のある契約だったことでしょう』
『でも、貴方に——庇護する側にとって、その契約は果たして公平なのか』

 この「錠」の作り手は、かつて自分にそう言った。
 あの頃の自分には、彼女の真意がわからなかった。侮られたものだ、とすら思っていた。
 今なら解る。彼女はただ、盟友の行く末を純粋に案じていたのだと。

 そう気づくことが出来たのは、数千年の時を経て、同じ問いを自分に投げかける者が現れたからだ。
 異邦より訪れし旅人。数多の世界を見てきただろう、澄んだ淡黄の瞳を思い出す。
 神への信仰でもなく、魔神への畏怖でもなく、仙人への畏敬でもなく——互いにひとりの人同士として、思慕の念を抱いているのだと、彼は自分に告げた。
 人ならぬ身に、その感情は備わっていない。だが、今は理解できなくとも、これから学ぶことは出来る。
 己にもまだ、未知なるものを知る機会があるのだ。それは実に魅力的で、心躍る話ではないか。
 我知らず、男は微笑んでいた。


 その時。
 ピシ、と何かが軋む音を、聞いた気がした。

 まさか、と。
 ある種の予感を抱きながら、漂う「錠」を注視して。
 男は黄金色の目を見開く。

 一見すると、何ひとつ変わったところはない。しかし、それは確かに変化していた。
 二者の盟約の証にして、彼女から己に突きつけられた挑戦状。一分の隙もなく組み上げられた、精緻な難題。
 数千年もの間、開錠を試みる自分をことごとく拒絶してきた、その封印が。
 ——ほんのわずかに、綻んだ?

『貴方は強い。
 けれどその強さは、きっといつの日か、貴方に孤独という名の摩耗をもたらす』

 あの知恵者は、一体どこまで見通していたのだろうか。
 己の心境の変遷すら、彼女の予見のうちだったとしたら?

 ふ、と男は息を吐き。
 今度は自らの意志で、その面に微かな笑みを浮かべた。



 いつかの未来。
 果たして「錠」は開かれるのか。

 その結末は、彼だけが知っている。



(了)



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自己解釈詰め詰めの空鍾なれそめ話、これにてひとまず完結です。
ここまでお読みくださってありがとうございました!



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