11


 それぞれに仙人が住まうという三つの山。そこから川沿いに南へ下れば、やがて上古の遺跡群が林立する天穹の谷へとたどり着く。
 そんな辺境の道をもし通る者があったなら、周囲を一望できる高台の上、ひとり佇む青年の姿を目にしたことだろう。
 黒檀の衣を風に遊ばせながら、彼は眼下の景色をぐるりと見渡す。その視線が、山間のある一角で止まった。岩肌が崩れ落ちたような不自然な地形を認め、赤みがかった金の瞳がすいと細まる。
(あそこか)
 糊の効いた上着の裾をひるがえし、男は軽やかに歩を進める。道らしい道などない崖を、まるで意に介さず下りてゆく様は、まるで周囲の地面が自ら彼を導いているかのようだった。

 隣の席に居合わせた鉱夫たちから、南天門付近で山崩れがあったらしいという噂を耳にした鍾離は、その足で冒険者協会へと向かった。
 先の噂について、協会側にもまだ情報は入っていないようだった。だが、窓口の女性によれば、かねてより該当区域で奇妙な地揺れが観測されていて、その調査をとある冒険者に依頼したという。それは、彼が覚えた「嫌な予感」を裏付けるに足る情報だった。

 予感に突き動かされるように、鍾離はすぐさま話に聞いた場所を訪れた。凡人になって以降、使わないようにしていた仙術まで用いて。
 高台から視認した崩落跡へと向かいながら、青年の手が無意識に胸元を押さえた。懐には、先程壊れた耳飾りが収めてある。
 無駄足であってほしい。何を馬鹿なことを、と笑い飛ばしてくれればそれで良い。自分の思い過ごしであってくれと、ただそれだけを願う。

 浅瀬を踏み越え、山の方へと近づく。周囲に人の気配は無かった。この事態を把握している人間は、まだほとんど居ないのだろう。もっとも、千岩軍に情報が伝わったとしても、ほとんど人通りのない地域のことであれば、対応が後回しになる可能性は高いと鍾離は推測していた。
 冒険者協会でも調査員を手配すると言っていたが、到着にはまだまだ時間がかかるだろう。人目が無いのはある意味好都合だが、などと考えながら、青年は崩れた山肌へと近づいた。

 その時、彼の耳が微かな音を捉えた。
 甲高い少女の声。覚えのあるそれは、無造作に積み重なった岩の向こう側から聞こえてくる。男は口を引き結び、音の方向へと回り込んだ。

「——なあ、どこに居るんだよ……返事してくれ、空ぁ……!」
 ぺたりと地面に座り込み、悲痛な声を上げる小柄な影。小さな手で瓦礫を叩くその背中に、鍾離は反射的に呼びかけていた。
「そこにいるのは、パイモンか?」
「え……あっ、鍾離!?」
 弾かれたように振り返った彼女が、驚きに目を見開いた。ふらふらと宙を滑ってきて、青年の胸にすがりつく。
「お、お願いだ、あいつを……旅人を助けてくれ!」
 今にも泣きそうに歪んだその顔を見て、鍾離は悪い予感が現実になったことを悟った。

「——空は、この下に?」
 ただ一言。今問うべきは、それで十分。
 何度も首を縦に振るパイモンにうなずき返して、大丈夫だと告げる。少し落ち着きを取り戻した少女を下がらせ、青年は先程まで彼女がいた位置へと歩を進めた。
 そそり立つ山肌の一部が滑り落ちたように崩れ、周囲には無数の岩塊が折り重なっている。もしもこの下に人が埋まっているなら、相当の人手がなければ救出は不可能だろう。とても、ひとりの手に負えるものではない。
 ——では、人ならざる者であれば?
 ひとつ深呼吸をして、鍾離はその場に片膝をついた。右手のひらを岩に当て、目を閉じる。
 意識を集中する青年の手に、淡い黄金の光が宿った。束ねた髪の先端も同じ色に染まり、風もないのにざわりと揺れる。
 自身の元素力を大地へと送り込み、それが岩から岩へと波紋のように広がっていくイメージを、頭の中で思い描く。深く、深く、地の底まで届くように。
 その意思に、土が、石が、岩が共鳴する。静かに語りかけてくる声が誰のものか、彼らは記憶していた。あらゆる空隙を見逃すまいと拡散するその力は、さながら地の下に広げられた網のようで。
 そうやって張り巡らせた力に、やがて岩とは違う何かが触れた。弱々しく、けれど確かに鼓動する生命の気配。

「——見つけた」
 目を開け、呟く。
 鍾離は岩に当てていた手のひらを握り込み、軽く表面を叩いた。その瞬間、彼が触れていた箇所を中心に、周りの岩が音もなく崩れ始める。
「な、何だ!?」
 パイモンが息を飲んで見守る中、岩はさらさらと金色の砂に変化してゆく。それは渦を巻きながら凝集し、再び拡散して——やがて青年の足元に、人ひとりが通れる程度の穴を作り出した。その光景は、まるで岩塊が自らの意思で、彼のために道を開けたかのように見えた。
 岩盤の状態を慎重に見極めながら、鍾離は先程感知した場所へたどり着くための道を作っていく。彼が作り出した穴の周囲は、壁がまるで一枚岩のようになめらかで、崩れるどころか小石のひとつすら落ちてくることはなかった。

 道はやがて、縦穴から緩やかに傾斜する横穴へと移り変わっていく。
 眼前の岩壁に右手を触れ、青年は何度目かの力を行使した。すると、今までとは違う手応えとともに、開いた穴が壁の先にあった空間へとつながった。その先の暗がりに、埃でくすんだ金髪がのぞいている。
「あっ……い、いた! 空だ!」
 驚愕と喜び、そして不安の入り混じった歓声を上げるパイモンの傍ら、青年はためらいなく穴の先へ踏み込んだ。
 積み重なった岩のわずかな隙間に、青白いまぶたを閉じた少年が横たわっている。その傍らに膝をつき、鍾離は手を伸ばした。首筋に触れて脈を取った後、胸の上に手を置き、上下していることを確かめる。
 ——生きている。
 安堵の息と共に、引き結ばれていた口元がわずかに綻んだ。

 目立った外傷が無いことを一通り確認してから、青年は小柄な体躯を静かに抱え起こす。
 土埃にまみれた頬を指で撫でてやると、少年が微かに呻き、うっすらと目を開けた。焦点の合っていない瞳が宙をさまよい、やがて眼前の人物へと定まる。
「……せん、せい……?」
 かすれた声で、それでもしっかりとそう呼んだ彼に、鍾離は柔らかく微笑みかけて。

「——良かった」
 そっと、その身体を抱きしめた。



12


 光も射さぬ暗闇の中、空は目を覚ました。
 ぼんやりと呼吸を繰り返すうちに、意識を失う直前までの記憶が徐々によみがえってくる。洞穴の探索、突如現れた巨獣、戦闘。そして、岩の雨。
 横たわったまま、ゆっくりと手足を動かしてみる。時折鈍い痛みが走るものの、生命活動に支障が出るほどの外傷はなさそうだった。
 身体の下には、冷たく固い石の感触がある。腕を伸ばすと、すぐに手が壁に当たった。どうやら折り重なった瓦礫が、運良く隙間を作ってくれたようだ。
 天井が崩れ落ちたあの時、最後のあがきで生み出した荒星のおかげかもしれない。潰されなくて良かったと、少年はひとまず安堵の息を吐いた。

 とはいえ、自身の置かれた状況が予断を許さないものであることは変わりない、と空にもわかっていた。この空間も奇跡的なバランスで保たれているだけで、数秒後には突然崩れるかもしれないのだ。
 しかし、脱出を試みるのも上策とは言い切れなかった。今の位置が地表からどのくらい離れているのか判断できない以上、下手に元素力を使えば状況が悪化する恐れもある。
 いくら考えを巡らせてみても、外からの助けを待つより他にない、という結論にしかならず、空はぱたりと腕を投げ出した。

(パイモン、無事に逃げられたかな)
 相棒の身を案じながら、大きく息を吐いて目を閉じる。

 一面の闇。冷たい石。出口の無い空間。
 覚えのある光景だ、空はふと思った。謎の神によって妹と引き離され、漆黒の立方体に閉じ込められた——あの感覚に似ている。
 半身と引き離された哀しみ、妹を奪った敵への怒り、救えなかった無力感。封じられる直前の記憶は、負の感情で塗りつぶされている。
 自らの力ではどうしようもなく、ただ囚われるしかなかった絶望。あの時と同じそれが、ひたひたと精神を侵し始めている。焦燥に駆られる心をあざ笑うように、岩盤の冷たさが横たわる身体を苛んだ。

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。
 自分の名を呼びながら、漆黒に呑まれた蛍。悲愴な決意を秘め、扉の向こうへと消えていった妹。片時も忘れたことのない半身の姿が、脳裏に浮かんでは消える。
 自分はまだ、何も為し得ていない。
 こんなところで終わるわけにはいかないのだ。

(俺は、まだ……!)
 諦めるものか。
 意志を浸食せんとする不安の影を振り払い、虚空を睨みつける。

 その時。
 周囲の岩塊が一瞬、淡く光ったように見えた。
 目の錯覚かと訝る空の感覚に、微かな波に似た揺らぎが触れる。それは岩から岩へと伝わり、拡散し、やがて狭い空間を満たした。元素視覚でも捉えきれないほどの、ごくわずかな変化——しかし空は、それを確かに感じ取っていた。
 冷え切った身体に伝わってくるのは、ほのかな温もり。先程まではあんなに冷たかった岩盤が、柔らかな熱を帯びている。まるで、少年を包み込み守ろうとするかのように。
 伝わってくるそれが、何者かの意思と力の片鱗だと、空は本能的に理解した。どこか懐かしさを感じるその気配は、少年の内にある元素力と共鳴し、心身に活力を吹き込んだ。
 心を蝕む負の感情が消えていく。誰かに背中を撫でられているような安心感に、うっとりと目を閉じる。眠っては駄目だと抗う理性の一方で、本能は大丈夫だと告げていた。

 突然、まぶたに光を感じた。
 停滞していた空気に、新しい風が流れ込む。

 微かに、相棒の声が聞こえた気がした。誰かの手が、身体のあちこちに触れてくる感覚があって。
 そっと抱え起こされ、少年はうっすらと目を開けた。
 眠気にかすむ視界の中、ふたつの黄金がきらめいた。眼前にある顔が、徐々にはっきり像を結ぶ。白皙の肌、彩る朱、美術品めいた完璧な造形。そして、幾千の年月、幾万の歴史を刻んだ悠久の瞳。
 未だ夢の中かと、空は訝しむ。叶うならもう一度会いたいと、ずっと願っていたその人が、すぐ目の前に居る。

「……せん、せい……?」
 口を突いて出た声に、彼は慈悲深く微笑んで。

「——良かった」

 身体が引き寄せられる感覚と同時に、ようやく晴れてきたと思った視界が再び翳った。
 温かい腕、微かな鼓動、服に焚きしめられた香の匂い。一気に情報が襲ってきて、自身の置かれた状況が余計わからなくなる。
 視線を落とせば、地面に広がる黒檀の裳裾が見えた。せっかく綺麗な服なのに、土で汚れるのは忍びないな、なんて、脈絡のないことをぼんやり考えた後。
 空はようやく、鍾離に抱きしめられていることに気がついた。

 何故、彼がここに?
 どうやって自分の窮状を知った?
 疑問は山ほどあるはずなのに、甘く苦い感傷が、それら全てを塗りつぶす。

 抱きしめられるままになっていた少年の、だらりと垂れていた腕が、ゆっくりと持ち上がって。
 迷うように宙をさまよった後、ためらいながらも相手の背中へと回った。


 ——ああ、やっぱり。少年は思う。
 諦められるはずがなかった。忘れることなどできなかった。
 ずっと、目をそらし続けていた。自身の内に芽生えた想いに、名を付けられずにいた。それが何と呼ばれるものか、とっくの昔にわかっていたのに。
 一度は自ら投げ捨てたはずの感情が、意識の海からぽかりと顔を出す。正体を知りながら、あえて形を与えず定義しなかった、その感情の名は。


(そうだ、俺は——)

 この人に、恋をしている。





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