5
ぱち、と小さく炎が爆ぜる。
焚き火の前に座る青年は、夜空を見上げていた視線を地面へと戻した。火勢が弱まっていないことを確認してから、すぐ横のテントを一瞥する。
周囲の様子に変化は無いと見て取って、彼は再び焚き火へと目を向けた。黄金の瞳が、揺らめく炎を映して朱金に輝く。
この日、鍾離は旅人に同行し、人里離れた青墟浦の遺跡まで足を伸ばしていた。
棲み着いた魔物の退治に、仕掛けの解除。当初の想定以上に時間がかかり、遺跡を探索しきるより先に日没の時刻となってしまった。
遺跡の傍には、幸いにして先客の冒険者が張ったであろうテントがそのまま残されており、一行はそこで一夜を明かすことにする。
鍾離を野営に付き合わせることに、空はどこか気が進まない様子を見せていた。気を遣っているのか、頼りないと思われているのか。後者であれば、認識を改めてもらう必要があるな、と青年は思った。
夕食と他愛ない雑談を経て、旅人とパイモンは現在テントの中で眠っている。
ひとり火の番をする青年の頬を、ひやりとした風が撫でた。
比較的気候の安定した璃月といえども、夜はそれなりに冷える。長年の経験から、鍾離はそのことをよく知っていた。
火は、人間の生活において最も恩恵をもたらすものの一つだ。かつて帰離集で暮らしていた人々も、竈神が家々に安定した火を灯すまでは、常に飢えと寒さに怯えなければならなかった。
遙か遠い昔の記憶だが、彼にとってはまるで昨日のことのように思い出せる。胸をよぎる懐旧に、青年は目を細めた。
その時、布の擦れる微かな音が、彼を現実に引き戻す。
顔を上げると、テントの入口をめくって出てくる少年の姿が見えた。
「空か。どうした」
交代の時間にはまだ早いが、と青年は声をかける。
眠る必要のない自分が朝まで番をすればいいと思っていたのだが、少年は途中で交代すると言って譲らなかった。「それは公平じゃない」と言われてしまえば、鍾離も納得しないわけにはいかない。どう言えば自分が折れざるを得ないか、この利発な旅人はよく知っている、と苦笑いしたものだ。
「先生、寒くない?」
毛布を肩から羽織った少年が、火のそばに寄ってくる。
「俺は問題ないが、寒かったか?」
火を強くすべきか訊ねる鍾離に、空は大丈夫と首を振った。
「目が覚めたから、ついでに様子を見に来ただけ」
「そうか」
そこで会話は途切れ、しばし沈黙が落ちた。
特に用事があるわけでもなさそうだと、鍾離は横目で旅人を一瞥する。
「交代までしばらく時間がある。少しでも寝ておくといい」
そう促すも、空にテントへ戻る素振りは見られなかった。無言のまま、青年の背後へと回る。
ややあって、鍾離が椅子代わりに腰を下ろしている木箱に、軽い衝撃が伝わってきた。他にも座る場所はあるだろうに、と青年は訝しむ。
「邪魔、かな」
「まさか」
「良かった」
ふふ、と小さく笑う声。その聞こえ方から、彼が自身と背中合わせに座っていることが察せられた。
「少し、話をしてもいい?」
「ああ、構わない」
眠れないならそれも良かろうと、鍾離は請け合った。小さく息を吸う音に続いて、少年がぽつぽつと話し始める。
「璃月に来てから、俺なりに文献を調べたり、昔の遺構を見て回ったりしてたんだ。
この国のこと、少しでも知っておきたくて」
「俺としては、お前が璃月に興味を持ってくれたのは喜ばしいな」
もっとも、それだけではないのだろうが、と鍾離は声に出さず呟く。彼の思考や行動の根底には、常にひとつの大きな目的があると知っているから。
そんな内心を知ってか知らずか、空は話を続ける。
「璃月の歴史や伝承には、必ず岩王帝君の名前と、その功績を称える言葉が出てくる」
「先生が神様として、長い間璃月という国を支えてきて、皆から尊敬されている証なんだって。
調べれば調べるほど、そう実感したよ」
「俺ひとりの力ではない。今の璃月が在るのは、伝承に名を遺さなかった多くの仙人、凡人の尽力があってこそだ」
「そんなに大勢の人が、先生に力を貸したいと動いてくれたんだよね。それって、やっぱり凄いことだと思う」
「なんだ、随分と持ち上げるではないか」
褒めても何も出ないぞと、鍾離は冗談めかして笑う。
いつもなら向こうも軽口で返してくる場面だが、今は微かな笑い声すら聞こえてこない。背後から微かに伝わってくる気配は思いのほか真剣で、眠気が来るまでの雑談程度に思っていた青年は、ここに来てその認識を改めた。
「先生が璃月を守るのは、『契約』だから?」
「……まあ、最たる理由はそうだ」
「先生、言ってたよね。契約の神が、利の無い取引に応じるわけがないって」
「ああ」
確かに言ったと、該当する記憶を反芻する。
だが、何故それを今引き合いに出したのか——相手の心中を図りかねている鍾離の背に、とん、と何かが当たった。
「何千年もの間、人間を見守り続けることが……先生にとって得になるの?」
いくつかの布を隔てて、触れた背中から響く声。
鍾離は黄金の瞳を見開く。
かつて、彼に同じ疑問を投げかけた者がいた。咲き誇る瑠璃百合——今は亡き花の都、塵と消えた懐かしき面影。
しばし目を閉じ、再び開いて。
青年はゆっくりと、彼の問いに答えるための言葉を紡ぎ出す。
「……およそ神と名のつく存在にとって、人間の信心は力となる。民を庇護することで信仰を得られれば、それは十分な対価と言える」
だが、と一息ついて。
「お前が聞きたいのは、そういう話ではないのだろう?」
低く問いかければ、小さく肯定の声が返る。
「長く生きるほど、たくさんの出会いと、同じだけの別れを繰り返すことになる」
俺もそうだから、と小さく付け加えられた言葉には、見た目にそぐわぬ達観がにじんでいた。
「心が無いのなら、あるいは忘れることが出来るなら、それでも平気かもしれない。
でも、先生には感情があって、記憶を手放すことも出来ない」
「それって、すごく残酷なことなんじゃないかって思うんだ」
言っても仕方のないことと知りながら、それでも言わずにはいられない──そんなやるせない感情を、抑えた声音の端々から感じ取る。
「契約は公平でなければならない、って先生は言うけど。
失って、置き去られて、全部忘れられないまま、何千年も生きることに見合うだけの対価なんてあるのかな、って」
それが安易な同情から来る言葉であったなら、さすがの鍾離も快くは思わなかったかもしれない。
けれど伝わってくるのは、ただ自身と重ねての共感と、純粋に相手を気遣う想い。
人が好すぎるのも考えものだと、呆れ顔でため息をついていた姿を思い出す。
『そこまでして、人を救おうとしなくても』
——つまりは、あの時と同じ。
こちらに散々お人好しと言っておきながら、彼の方が余程ではないか。鍾離は内心で苦笑する。
同時に、疑問も湧いた。彼は確かに心優しい人物ではあるが、ここまで他者の内面に干渉する性分だろうか?
鍾離の見る限り、空という少年は他者へ自然に手を差し伸べる一方で、自身がどうにもできないことに関しては一線を引く怜悧さも持ち合わせている。
その行動原理の根幹をなすのは、唯一の肉親との再会という目的。それに適うのであれば、彼は合理的に思考し、醒めた判断を下すこともするだろう。
目の前で起こっていることならいざ知らず、過去に起因する鍾離の事情は、空からすると「自分にはどうにもできないこと」であり、また己の目的とも関係がない「無駄なこと」のはずだ。
なのに、何故彼はここまで踏み込んできたのか。不思議に思いながら、鍾離は彼に答える言葉を探した。
「……お前の言う通り、俺は長く生き過ぎたんだろう」
胸の奥から、吐息混じりに言葉を紡ぐ。
「平気だ、と言えば嘘になる。
何も感じていないならば、神の座を降りようなどと考えなかっただろうからな」
それでも、と。確固たる意思を込めて、鍾離は告げる。
「かつての岩神モラクスは、璃月を、人を守り導くことに価値を見いだした」
「理解されないかもしれないが——俺は、その選択を後悔したことはない」
人と最初の契約を交わし、彼らの神「岩王帝君」となった日のことを、鍾離は今でも覚えている。
盟友と死に別れ、多くの同胞たちを見送って、かつての友を自らの手で処断すらした——そう、全て覚えている。
忘れたくとも手放せぬ、膨大な記憶。それは重荷でもあり、また唯一無二の黄金でもあった。
「忘却が、必ずしも救いとは限らないしな……」
「え?」
「いや。……独り言だ」
聞き返す声に、鍾離はかぶりを振って言葉を濁した。
静かに夜が更けてゆく。
互いの話し声の他は、遠くで鳴く獣の声と、薪の爆ぜる音くらいしか聞こえない。
先程から沈黙している旅人は、こちらの返答をどう受け止めただろうか。微かな息遣いと体温を背中に感じながら、青年は再び口を開く。
「お前にも目的があるのだから、あまり他者の道に心を寄せすぎない方がいい」
重荷になるぞ。淡々と、諭すように告げる。
「まして、俺の場合は過ぎた話だ。
案じてくれる気持ちは嬉しいが——お前には、過去よりも未来を見て欲しい」
自身は既に、歴史の表舞台から下りた身だ。岩王帝君の名も、いずれは過去のものとなろう。
今後は一介の凡人として、新たな璃月の行く末を見守るだけの自分に心を割くよりも、この先の旅路に思いを馳せるべきだと。
暗に告げたその意図を、旅人は汲み取っただろうか。鍾離は朱金に輝く瞳を細め、揺らめく炎へ右手をかざす。
「しかし、そこまで他人の心配をするお前も、たいがい人の好いことだな」
重くなった空気を払拭するように、青年は冗談めかして笑った。
「……誰にでも、ってわけじゃないよ」
夜の静寂の中、ぽつりと呟くその声が、やけに大きく聞こえて。
一瞬、息を詰める。
「先生だから、俺は——」
なんでもない、と言い残し、声は途切れた。
背中越しの会話で、相手の顔が見えないことを鍾離は惜しんだ。彼が今どんな表情をしているのか、この目で確認できたなら、もう少しその心情を推し量れただろうに。
適切な言葉を見つけられず沈黙する青年の背後で、静かに立ち上がる気配がした。
「変な話してごめん。俺、もう少しだけ寝るよ」
取り繕うように告げて、一度だけ振り向いた少年は、既にいつも通りの快活な笑顔だった。
「交代の時間にはちゃんと起きるから。おやすみ」
「空」
呼び止めれば、テントへ向かっていた足が止まる。炎に赤く照らされたその背中を、鍾離は真っ直ぐに見据えて。
「——感謝する」
たった一言、短く告げた。
何も言わず、振り返ることもなく。
軽く右手を振ってみせて、少年は天幕の中へと戻っていった。
小柄な背中がテントに消えるのを見届けて、鍾離は大きく息をついた。
一人になって火を見つめていると、さっきの話の中で抱いた疑問が脳裏に浮かんでは沈む。
——彼は何故、そこまで自分を気にかけるのだろう。
ただ単に、凡人の生活に慣れない友の世話を焼いているだけと言えば、そうなのかもしれない。別におかしなことはなく、実に妥当で納得に足る理由だ。
(……それだけ、か?)
指に棘が刺さったように、引っかかる微かな違和感。
その感覚には覚えがあった。つい最近、どこかで——
『俺は、先生にとってどんな存在?』
そうだ、と鍾離は気づく。空にそう問われた時にも、自分は同じことを考えたのだ。
先刻、何かを言いかけて呑み込んだ少年の声が、耳の奥に残っている。それはあの問いかけと同じように、どこか不可思議な熱を帯びてはいなかったか。
——彼は自分に、何を言おうとしていた?
もし自分が人間であったなら、あの言葉の先を察することができたのだろうか?
破裂音と共に炭化した薪が崩れて、鍾離は我に返った。
(俺は未だ、人の真似事をしているに過ぎないのだろうな)
焚き火に追加の枝をくべながら、ほろ苦く笑う。
神の体を捨て凡人になろうとも、己の本質は人にあらず。人間と同じ目線で物事を認識するには、まだ時間が必要だ。
いつか、この違和感の正体を理解できたなら——その時、果たして自分は何を思うのだろう。
鍾離は夜空を見上げ、静かに金の瞳を閉じた。
6
「はぁ……」
深々とため息をついた少年の顔を、傍らのパイモンが心配そうに覗き込む。
「どうしたんだ、空? 悩み事でもあるのか?」
オイラが相談に乗るぞ! と小さな腕をぶんぶん振ってアピールしてくる少女に、空は微笑んでかぶりを振った。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「そうかあ? ならいいけど……」
「これを届けたら、ちょっと早いけどお昼にしようか。パイモンは何がいい?」
「オイラ、絶雲お焦げが食べたい!」
食べ物の話を振った途端、目を輝かせ食いついてくる。御しやすい相棒で助かったと、空はひそかに胸をなで下ろした。
その場は上手くごまかしたものの、これから会おうとしている人物のことを考えると、自然とため息が出てしまう。
(ちょっと、言い過ぎたな……)
心にわだかまるのは、先日の野営時のこと。
ずっと訊きたかった問いをぶつけたこと、それ自体は後悔していない。彼の考えを片鱗でも知ることが出来たから。
だが、もっと適切な訊ね方があったのではないか?
友人とはいえ、出会って日も浅い自分に過去について踏み込まれ、果たして彼はどう思っただろう?
心配してくれてありがたいと感謝を述べてはいたが、礼節をわきまえた彼のことだ、迷惑だと思っていても表に出さなかっただけかもしれない。
しかも最後に、言うつもりのなかったことまでうっかり口にしてしまった。
かろうじて途中で呑み込んだが、あの不自然極まりない言動を、あの青年は一体どう受け取っただろう。
もし、あれはどういう意味かと訊かれたら、自分は何と答えればいいのだろう。
こんな状況で当人と顔を合わせるのは実に気まずいが、頼まれごとを放っておくわけにもいかない。
答えの出ない後悔は、ひとまず頭の隅に追いやり、努めて考えないようにする。思考の切り替えは得意な方だ。そう、何も無かったように、いつも通りに。
潰さないよう大事に抱えた紙包みが、腕の中でかさりと鳴った。
チ虎岩から緋雲の丘へと大通りを進めば、ここ最近ですっかり通い慣れた朱塗りの建物が見えてくる。
旅人の一歩先をふわふわと漂うパイモンが、あれ、と声を上げた。
「店の前に鍾離が居るぞ? 誰かと話してるみたいだな」
釣られて視線を動かすと、往生堂の店先に立っている二つのシルエットが見えた。
ひときわ目立つその姿は、遠くからでもその人とわかる。その整った横顔には、珍しくもはっきりと辟易したような表情が浮かんでいた。その正面にいる相手を見て、なるほどと空は納得する。
佇む二人に近づいていくと、気配に気づいた二対の眼が、同時に旅人の方を向いた。
「ああ、お前達か」
あからさまに安堵した表情の青年に、空は思わず漏れそうになった笑いを噛み殺す。それをごまかすように、もう一人の人物——黒衣をまとった少女へと視線を移した。
「おっ、旅人にパイモン。久しぶり~」
ぶんぶんと手を振る少女に、パイモンが声をかける。
「珍しいなぁ、胡桃が往生堂にいるなんて」
「私はここの堂主だよ? 自分の店にいたって何もおかしくないでしょ?」
「そうだけど、お前は大体どこかほっつき歩いてるじゃないか」
「営業努力って言ってほしいなぁ。未来のお客さんを獲得するのも大事なことなんだから」
腰に手を当て、自信満々に胸を張ってみせた後、彼女は空の方に向き直る。
「それで旅人、今日はどうしたの? もしかして……やっとうちと契約してくれる気になった!?」
目を輝かせる胡桃に、空は苦笑しながら遠慮する旨を伝えた。
「鍾離先生に用事があったんだよ。……はい、これ」
傍らに佇む青年に、空は抱えていた包みを差し出した。
「前に頼まれてた清心、取ってきた」
「ああ、すまない。手間を取らせたな」
「いいよ、どうせついでだし」
中を見ても? と律儀に断ってから、鍾離は包みの一部を解いた。
「ふむ、実に新鮮なものだ。流石だな」
中身を確認し、感心したように呟くその様を、空は伏し目がちに窺う。
さっきまではあんなに気が重かったのに、いざ会って声を聞いていると、気後れよりも喜びの方がずっと勝った。我ながら現金すぎる、と少年は自嘲する。
「この鮮度、失わせるには惜しい。すぐに保存するとしよう」
包みを元に戻してから、青年は空に向き直った。
「感謝する。この礼は、また改めて」
「大したことじゃないし、気にしなくていいよ」
「働きに報いるのは当然のことだ。また今度、食事の席を用意しよう」
少年が答えるよりも早く、彼はさらに言葉を重ねる。お見通しとばかり、わずかに唇の端を持ち上げて。
「なに、俺がお前と食事をしたいだけだ。嫌なら無理にとは言わないが」
「……それはずるいよ、先生」
一瞬絶句した後、空は思わず本音を吐露する。
そんな風に誘われて、断れるわけがないと解っているくせに。
せっかく普段通り振る舞えていたのに、その他愛ない一言で、平静を保っていたはずの感情がにわかに波立つ。動揺を押し隠し、空は青年に笑ってみせた。
「わかった、楽しみにしてる。財布は忘れないでね」
「ああ、任せておけ」
自信たっぷりに請け合って、鍾離は一同をぐるりと見渡した。
「俺は一度自宅に戻る。では、また今度」
「うん、またね」
「またなー、鍾離!」
姿勢の良い背中が視界から消えたところで、そう言えば、と空は気づく。あの騒々しい胡桃が、先程から妙に静かなのだ。
背後を振り返ると、何やらにまにまと不可思議な笑いを浮かべる少女の姿がそこにあった。
「へえ~? ほほ~? なるほどねぇ……」
「何だよ、胡桃。さっきから一人でニヤニヤして、気持ち悪いぞ……」
若干顔を引きつらせながら、パイモンが胡桃から距離を取る。
「いやー。面白いものを見ちゃったなぁって」
「面白いもの?」
空が首を傾げる。先程の鍾離との会話のことを言っているのだろうか。特段変わったところのない、いつも通りのやり取りだったはずだ。
「別に、何もおかしなことは無かったと思うけど」
「あれ? 気づいてないの?」
さも意外だというように、胡桃は緋色の双眸を見開く。
「鍾離さんってさ、若いんだけど、なんかこう……お爺さんみたいじゃない?」
「お、おう」
「そ、そう……かな?」
鍾離の正体を知っている空は、思わず泳ぎそうになる視線を必死に抑えた。パイモンもわざとらしく目をそらし、口笛など吹いている。
「そうそう。知らないことは無いってくらい、何にでも詳しい。
それなのに……ううん、だからこそ、か。周りの何にも興味が無い、って感じがしてさ」
でも、と空を指して、胡桃はニッと笑った。
「あなたにだけは、すごく興味持ってるっぽい」
「え?」
話の脈絡がつかめず、少年は間の抜けた声を上げる。
「直感だけどね。でも、私の勘はよく当たるよ~? 鍾離さんは間違いなく、あなたを特別だと思ってる!」
「先生が、俺を……?」
「そうかぁ? オイラにはよくわかんなかったけどなぁ」
首をひねるパイモンの傍らで、旅人は考え込んだ。
鍾離が、自分に対して特別な関心を示している?
もしも、それが真実だとしたら——
「ふふっ、どう? どう? 嬉しい?」
いたずらの成果を確かめようとする子供そのものの顔で、こちらを覗き込む胡桃。まるで内心を読んだかのような言葉に、空の心臓が跳ねた。
「そ、そう言われても、それが本当かはわからないし」
「そうだよねぇ~、うふふふふ」
意味ありげな含み笑いと共に、平手で肩をばしばし叩かれる。
どうにも、この少女の言動は無軌道過ぎて読めない。鍾離が苦手とするのもわかる気がする、と空はひそかに思った。
「ねえねえ、彼の弱味とか握れたら、私にも教えてね」
「いや、それは流石に……」
そんなことをした日には、鍾離からどれだけ恨みがましい目で見られるか知れたものではない。どこまで本気かわからない提案を、空は曖昧に笑って流すしかなかった。
「胡桃って、相変わらずよくわかんないヤツだよなぁ」
往生堂を辞した後、そう感想を述べるパイモンに、空は前を見たまま訊ねる。
「ねえ、パイモン。さっき胡桃が言ってたこと、どう思う?」
「ん? 鍾離がお前を特別だと思ってる、って話か?」
頷くと、少女はうーん、と腕を組んで唸る。
「確かに、あいつはオイラ達にいろいろ親切にしてくれるけどさ。
でもそれって、友達だからだろ?」
「そう……だよね」
友達。そうありたいと望んだのは空自身だ。
鍾離と親しくする中で感じたのだが、どうやら彼は、友人関係も一種の「契約」と捉えている節がある。それ故か、彼はどの知己にも対等に、分け隔てなく接しているように見えた。
現実的に考えて、きっと胡桃の思い過ごしだ。
公平を重んじるあの青年が、自分のことを特別視などするはずもない——
「……おい空、何笑ってるんだ?」
「えっ?」
パイモンの胡乱げな指摘に、空はきょとんと瞳を瞬いた。
「……俺、笑ってた?」
思わず口元に掌を当てる。そんな気は全く無かったが、自分は今、笑っていたのだろうか?
「えっ、気づいてなかったのかよ!?」
「ごめん、全く自覚なかった」
「お前まで一人でニヤニヤして、胡桃のおかしな笑いが伝染ったのか?」
「……そうかも知れない」
呆れ顔の相棒に、少年は決まり悪い思いで癖のある金髪を掻き上げるしかなかった。